開封

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 日本には、「京都」があります、「平安京」に遷都されてから、そこは明治維新まで日本の首都でした。中国には、「北京」、「南京」、「西京(漢代の「長安」、現在の「西安」の旧称です)」があるのですが、「東京」が見当たりません。しかし、北宋の首都だった「开(開)封Kaifeng」は、かつては「東京開封府」と呼ばれ、正式には「東京」であったそうです。この「開封」は、中国の河南省にあります。金の国に滅ぼされるまでは、驚くほどの隆盛を極めた都だったのです。

 実は、この宋代の「開封」に、ユダヤ人共同体があったと言われています。皇帝が、アジア諸地域から優秀な人材を求めた時に、ユダヤ人もまた、呼び集められて、ここに落ち着いたようです。”ウイキペディア”によると、「ティベリウ・ワイスによれば、バビロン捕囚の後、紀元前6世紀に、異民族との婚姻を理由に預言者エズラにより追放され、インドの北西部(石碑では「天竺」と記述されている)に移住した支族レヴィ族と司祭の一族が、開封のユダヤ人の起源であるという。」と記してありますから、ユダヤ人の中国での居住の歴史は、ずいぶんと長いことになります。

 明代(1368年-1644年)には、ユダヤ人は皇帝から 、艾、石、高、金、李、張、趙(ユダヤ人の氏族の姓 Ezra, Shimon, Cohen, Gilbert, Levy, Joshua, Jonathan)を与えられ、それぞれ名乗ったのです(ウイキペディアによる)。この姓を名乗る中国のみなさんは、ユダヤ系である可能性があるのでしょうか。親しい友人に、これらの苗字を持つ方が、何人もいました。

 現在でも、開封にはユダヤ人が住んでいて、中国人と結婚して、中国社会に溶け込んでいるそうです。統計上、どれだけのユダヤ人がいるかを知ることは困難であって、推定の域を越えないようです。日本でも、「離散したユダヤ民族(イスラエルの十部族)」がいると主張する方がいますが、それもあり得ることでしょう。56の民族で構成される中国に、ユダヤ民族は入っていませんが、少数民族に、その血を受け継いでいる人々がいることは事実です。
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 中国の街のコンクリートの作りの集合住宅の各家の玄関には、例外なく、どの家の玄関の扉の上方の鴨居と、扉の左右の門柱に、紅い紙に、黒く印刷された文字が書かれているのです。それを「春联(聯 )chunlian」と呼んでいます。

 それは、イスラエル民族の歴史の中の「過越の日」に、各戸の家の鴨居と門柱に、小羊の血が塗られた出来事を彷彿とさせられます。紀元前のパレスチナから移り住んだ人たちの子孫が、この開封の街の中にいないとは限りません。歴史の浪漫を感じさせられて、興味が尽きません。そうでなくとも、ユダヤ人に伝承されている習慣と、現代の中国人の生活とに、何か脈略があるように感じているのです。

 それにしても、心残りは、華南の街に住んでいる間に、この「開封」を訪ねてみたかったのです。地図を見、列車の乗り継ぎなど調べたことがありましたが、叶えられずに帰国してしまったからです。機会があったら、ぜひ訪ねたい街なのです。

(開封市内の街の古い記念の建物です)

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