国境を超えた友情

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 香港と中国の合作の映画、「十月围城(邦題は〈孫文の義士団〉)」を、“优酷youku”のサイトで、在華中に観たことがあります。清国の封建社会を打ち破って、近代国家を作ろうとして立ち上がった孫文の活躍した「辛亥革命(しんがい)」を描いた作品でした。

 印象的な強烈な始まりでした。教場から出て、教授の周りを、学生たちが取り囲みながら、外階段を降りて来るのです。その時、教授が語っていたのが、” government of the people by the people for the people(shall not perish from the earth.)“ でした。次の時代を担う若者たちに、リンカーンがゲティスバーグで語った演説を紹介していたのです。それを聞く学生たちのキラキラした目が印象的でした。

 すると突然、銃声がして、教授が、清朝政府から送り込まれた狙撃者の銃弾に倒れてしまいます。1911年10月に起こった「辛亥革命」の印象的な始まりで、そのうねりが、香港から武昌に、さらに全土の繰り広げられ、翌1912年に、南京に「中華民国」が樹立していきます。激動の中国近代史の重要な一コマです。

 この孫文は、中国では、「国父」と呼ばれて尊敬を集めている器です。しかも日本と日本人との関わりが多く、1895年には、日本に亡命しています。梅屋が香港にいました時に、生涯の友となる、革命の支援者である、孫文と出会います。『中国を西欧の植民地に危機から守ることこそ、東洋を守る一歩ではないでしょうか。しかし今の清朝では、背負うの植民地化を免れることはできません。』と言って、清朝打倒の計画を初対面の梅屋に、孫文は分かち合います。梅谷は、『君は兵を挙げよ。我は財を持って支えん!』と言って、孫文を支援していきます。

 孫中山という名が正式で、この名に因んだ「中山路」という大通りが、中国中の主要都市にあるほどです。華南の街の私の家に出入りしていた学生と一緒に、南京大学に出掛けた時に、壮大な敷地の中にある、孫文の墓所の「中山陵」に行ってみました。平日でしたが、「国父孫文」が、どれほど、現代の中国人に慕われているかが分かる光景を目にしたのです。

 孫文は、革命の途中で病没するのですが、梅屋庄吉との友情は終わりまで保たれています。梅屋は、長崎の人で、香港で写真館を経営し、後にシンガポールで映画産業に従事し、莫大な資産を蓄えた実業家でした。その資産を、孫文の仕事のために注ぎ込んで、背後から革命を応援をしたのです。

 政治の世界で活躍した明治人は数多くいますが、国際的な舞台で、密かに、辛亥革命を支え続けた人がいたことは、覚えておきたいものです。中国の近代化のために、梅屋庄吉が大きな役割を果たしたことも忘れてはなりません。私たちの祖父や曽祖父たちも、幕末から明治の激動の時代の中を、みんなが過ごしたわけです。そして日中戦争、対米英戦争の敗戦とともに、どん底の中を、父の世代はそこからの復興に励んで、経済大国になったわけです。そして、経済が全ての様に誇る現代のまっただ中で、新型コロナウイルスの脅威にさらされて、戦々恐々としている今です。

 厳しい時を生きる私たちに必要なのは、自分だけのことを考えるだけではなく、広く世界大〉の思いで、日夜、発症された方のお世話をされている医療関係者のみなさんの応援者でありたいと思います。拡散伝染を防ぐために、決まりを遵守したいものです。先週、アメリカにいる家内の姉と、その二人の孫が、陽性になっていて、祈りの要請がありました。近親者にもコロナが迫っている今、心して感染者のみなさんの全快を願っているところです。
 
(梅屋庄吉夫妻と孫文です)

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