36歳

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 大相撲の琴奨菊が引退しました。九州福岡の出身で、高知県の明徳義塾で、中高6年間学んだ後、相撲界に入ったそうです。中国の華南の街で、その明徳義塾高校の校長先生と校長秘書のお二人に、シャングリラ・ホテルでお会いしたことがありました。不登校の男子をお世話してしていた時でした。『私がお世話しましょう!』と、その校長が言ってくださり、この高校に留学をさせていただいたのです。

 その高校の入学式に、ご両親に代わって出席しました。立派な校長室に案内していただき、ご挨拶を交わして、式に列して辞したのです。彼は卒業し、東京の大学に四年間通い、卒業後、日本の会社に入社したのです。その琴奨菊の同窓です。実は、入学式の前日に高知龍馬空港に着いた私は、レンタカーを借りて、万葉学者の鹿持雅澄の赴任地の大山岬を訪ねました。下級武士の子で、大山岬で浦役人の勤めをしていたのが、琴奨菊の引退時ほどの年齢だったと思われます。その勤めをしながら、万葉研究をした人でした。その大山岬に、彼が詠んだ和歌の一首が、碑になって残されていました。

 秋風の 福井の里に 妹をおきて 安芸の大山 越えがてぬかも

 高知城下に残している妻に宛てて認めた書の中に、そう詠んだのです。さすが万葉を学んだ人の歌は素晴らしく、妻を恋しくも愛する思いが見事でした。高知に行ったら龍馬や岩崎弥太郎が第一なのでしょうが、へそ曲がりの私は、雅澄(まさずみ)のいた鄙びた岬に行きたかったのです。実は、若かった私の世話をしてくださった方が、早稲田大学で鹿持雅澄の研究もされていて、そんな関係で行ってみたかったのです。
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 長年の念願を果たした翌日、須崎市にある学校に行ったのです。広大な敷地の学校の中に入って、野球場の脇を徐行していると、野球部員が、一斉に、『こんにちは!』と脱帽して挨拶してくれたのです。運動部の出身者の私を、その清々しい声が、いい気持ちにしてくれたのです。相撲部の練習場は、見当たりませんでしたが。もう琴奨菊は相撲界入りして、活躍していた頃でした。

 相撲取りの琴奨菊は36歳で引退ですが、私がアメリカ人起業家から責任を任されたのが、35歳でした。鹿持雅澄の研究の「万葉集古義」が認められ、出版されたのは、彼の没後30数年がたった明治になってからです。鹿持雅澄の業績や「千字文」の研究者の最後の弟子で、分野の違う研究の道に進ませ様としてくれたのですが、恩師の意に反して教師の仕事を辞めてしまいました。そしてアメリカ人起業家に8年間仕え、副職を持ちながら、家内と二人で、その後の仕事に従事しました。助手の時期を合わせて都合34年勤め、その後、お隣の国で13年過ごしたのです。

 思い返せば、琴奨菊が年寄りを襲名した年齢で、私は、新米の働き人になったわけです。能力や生きる世界が違うと、それだけの違いがあるのでしょうか。人生の事とは、何をしたかの業績ではなく、《何であったか》、《どう生きたか》にある、そう教えられ、そう生きて来て、まるで〈平幕〉のままで退職して今日があります。琴奨菊は《大関》を張ったのに、中古の車を乗り継いでいるのが、私と似ています。ただ、私は車に乗ることも、もはやなくなりました。

 今、6歳の小朋友が、〈百合さん〉、〈準さん〉と、七十のジジババを名前で呼んでくれるのです。彼女のお母さんから、『◯ちゃんも、嬉しい事、辛い事があると、百合さんと、準さんにおでんわする!」と、お二人をお近くに感じてます^_^』と、メッセージが送られて来ました。実の祖父母の様に慕ってくれています。

 そう生きた私たちで、満足でおります。一冊の本を書き上げることもせず、勲章も褒賞もなく、年寄り株なども買えず、片田舎で、病後と老後を過ごしている私たちですが、中国大陸の友人たからも、子どもたちからも、『お祈りしてください!』との要請が時々あります。それが、今の家内と私にできることなのです。

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