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人間を突き動かすもの、特異な行動をとらせるものの一つに、〈劣等感〉があります。これまで残忍な人、非情な人と、私は個人的に出会ったことはありませんが、そう言った人のことは話に聞いたことがあります。これまで過ごした七十数年の年月に、数限りない人と出会ったと思います。職業柄、多種多様なみなさんの生き方や考え方に触れたことになります。結論的に、けっこう、この劣等感って厄介なものの様に思えるのです。
自己嫌悪に陥っていたり、言うことが自虐的だったりして、劣等感に苛まれている人は、何人もお会いしたことがあります。そう、ありのままの自分を受け入れられない人が、そう言った傾向が強いのではないでしょうか。欠点や劣っていることに拘り過ぎて、ご自分を全体的に見ることをしないのかも知れません。ある講座を受講した時に、その日の講師が、出席者を二人づつ向き合う様にされました。
それで、相手の《優れた点》を発見し合う様に促されたのです。無作為の相手が決められて、初対面の人の容姿や雰囲気や素振りなどを、目で観察し合ったのです。知らない人だから、かえって先入観無しで、いろいろなことに気づけるわけです。相手の女性に、何を言ったか私は覚えていませんが、『歯が綺麗ですね!』と、その方に言われたのは覚えているのです。他に褒めようがなかったのでしょうか。
人の内には、けっこう自分では気づかない優れた点があるものです。先日、歯医者に行って、大(おお)先生(院長の父上かも知れません)が、歯の治療の最終的仕上がりを診てくださったのです。手入れが良かったのでしょうか、三度も『歯が綺麗です!』と言われたのです。これで、生涯に二度歯を褒められたことになります。これは両親に感謝しなければなりません。七十でも褒められて嬉しいもので、このところご指導通りに歯磨きに、さらに励んでいるのです。
誰でも褒められたい願望があるのに、とくに幼児や少年期が、それを必要としているのに、〈褒められなかった子〉がいました。それが原因してでしょうか、体格的に小さく、弱々しく病弱な体質で、外見的に見栄えがしない子がいました。その一人が、あのアドルフ・ヒットラーの少年期です。でも恵まれない幼少期を過ごした子どもが、みなそうなのではありません。〈劣等感〉に苛まれない人の方が、きっと多いのでしょう。正しく対処できたらよかったのですが。
でも、少年アドルフは劣等感の申し子の様でした。お父さんとの関係もよくありませんし、お母さんは、そんな子を褒めたりしなかったのかも知れません。その上、両親の仲もよくありませんでした。軍人だった父親は、母親にも子どもたちに横暴に振る舞っていたそうです。少年アドルフには、憧れの父ではなく、無関心だったら救いがあったのですが、何と自分を生んでくれた父親を、〈敵〉としたのです。
自分の父親を敵視していたというのは不幸なことでした。ということは、人間形成のために、良い男性性のモデルを持たなかったことになります。人は、どこかで強いモデルを求めるものだからです。アドルフは、父親と16歳で死別し、敵をなくした彼は、その敵愾心の矛先を他に向けます。経緯は他にもあるのですが、それが最終的に「ユダヤ人」の撲滅に導いたことになります。
でも「劣等感」は、上手に作用すると素敵なものを生み出すのです。就学前に肺炎に罹って、生死の境を彷徨った私は、スプレストマイシンやペニシリンの投与で生き残りました。それでも私は、病弱で学校に行けず、学習能力の遅れで劣等感に陥っていました。いまだに漢字の書き順が間違っているのです。東京の小学校に転校して、久し振りに登校した教室で、国語の授業時間に、生涯一度きりの《褒めことば》を、内山先生からもらったのです。
それは今でも忘れられない、《光り輝く一瞬》でした。その一瞬があったので、不登校児にもならず、学校に行ける時にはワクワク感があり、行くと調子に乗り過ぎて、悪戯をして怒られて立たされるのですが、楽しかったのです。しまいには学校の教師までさせていただきました。それが信じられない級友代表が、本当かどうかを確かめに学校にやって来たのです。これって劣等意識を、一言の誉めことばが跳ね返した例かも知れません。
私のアメリカ人の恩師は、日本での働きは進みませんでした。非凡な教師でしたが、結果は出せずにいたのだと思います。野心的な人でも、売名家でもなかったので、機会を得なかったのだと思います。それで彼は著作に情熱を傾け、何冊かの本を米国で出版し、日本でも翻訳で出版していました。私の本棚に、その著作があります。彼も満たされない部分を持ちながら、後代の人に、学び得た思想を残そうとして生きたのです。手指で数えられない、量りで測りきれない実績があります。
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それにしても私の知る限りでは、あんなに堅実なゲルマン人が、一人の劣等感の権化の様な人の演説を、全国民的に支持してしまったのは、時代的な背景、民族的な危機の中で、救世主の様に思えた、いえ惑わされ、そう思わされたからにほかなりません。〈強さ〉の背後には、必ず〈弱さ〉が隠されてあるのに、気づかされるのです。弱さの反動が、横暴を生み出し、悲劇をもたらします。
あのアメリカ大統領のリンカーンは、祖父を原住民に殺害され、母を9歳で亡くし、継母に育てられた人でした。貧しい開拓農民の子でもありましたので、正規に受けた教育は一年ほどだったそうです。ですから劣等感に苛まれて然るべき子でしたが、アメリカでは、最も尊敬される大統領となっています。
リンカーンの人となりの成長に果たした継母サラの果たした役割は、実に大きかったのです。書を読み、労働に勤しみ、人を愛することを、その継母から学んだ人でした。サラから聖書を読むことを教えられたことが、リンカーンの人格形成、政治家としての使命をもたらせた点ではないでしょうか。
厄介さを、逆手にとって、リンカーンの様に、二十一世紀のアメリカの青少年にさえも、敬意を持たせている器になっていった人がいます。また人類の最大の汚点を記して、厄介者の餌食になったものもいるわけです。人は、美しくも醜くも生きられるのですが、荒れ野の中で、どなたの生涯にもあった《光り輝く一瞬》を思い返して、心して美しく咲き終わりたいものだと、思う晩秋の北関東の巴波の流れの辺りです。
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