美しい日本語

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 流石、高校の国語の授業で、「蜻蛉日記」の書名は学んだのですが、その内容を学んだ記憶がありません。実は、この日記は、藤原道綱母の作で、20年ほどの結婚生活の日常を綴ったものなのだそうです。夫への不平や鬱憤(うっぷん)を、奥方が日記に綴ったのです。どんな気持ちで、妻の爆発する不満を、ご主人は聞いていたのでしょうか。高校生に、そんなことを学ばせたくないと、文部省は考えたからでしょう、学ぶことはありませんでした。

 その様に、「罵詈雑言(ばりぞうごん)」、「呪いの言葉」、「罵倒語」と言うものがあります。子どもの頃に、負けたり殴られたり、不当に扱われると、悔しくて、この「罵倒語」を使った記憶があります。その一番は、『バカカバ、チンドン屋、お前の母ちゃんデベソ!デベ・・・』だったのです。それが一番の悪態でした。それ以外に何と言うのか記憶はないほど、悔しさが染み込んだ、唯一の言葉でした。

 学者によりますと、日本語には、この「罵倒語」の種類が、朝鮮語やヨーロッパ諸国の言語に比べて、特徴的に少ないのだそうです。英語は長く学んだのですが、どんな言葉やジェスチャがあるのかを学んだことがありませんが、口に出来ないほどに酷い様です。言ってしまったら、口を石鹸で洗わなければならないほどなのに、よく使われる様です。

 もし朝鮮語がわかったら、韓国のメディアが放つ、日本への憎悪の言葉は、けっこう激しいものがありそうです。「恨(朝鮮語でハン)」と言う、朝鮮民族の文化的な思考形態からくる感情の中に、怒り、憎悪、痛み、過去のしこりがあると言われています。その感情が逆上して、海の向こうから聞こえてきそうです。あんなに立派な友人たちがいるのに考えられません。感情って煽られると増幅してしまう弱さがあるのでしょうか。

 中国語を学んでいた頃に、学校でも、友人たちからも、罵倒語を学んだことがありませんでしたので、中国では、何と言って罵倒するかを知らないのです。と言うか、中国の街の生活の中で、そう言った悔しい立場に立たされたことが全くなかったので、不要でした。戦争中に、日本がしたことに比べたら、何を言われても当然なのに、彼らからは、何も聞きませんでした。

 日本人は、狭い土地に住んでいて、農耕を主要の産業にしてきたので、土地に繋がれていない牧畜の民のように、どこにでも、『プイ!』と出て行く自由がなかったのではないでしょうか。それで、言いたいことも我慢しながら、ニヤニヤと笑いながら、せいぜい『お前の・・・』と言うだけで済ませてきたのでしょう。それで「和気藹々」と生き続けてきたに違いありません。 日本語って、極め付けの綺麗な言語ではないでしょうか。

 そう、最近のことです、家内が「短歌」を作り始めています。NHKラジオ放送の「昼のいこい」の時間に、俳句紹介があるのですが、何度か投稿したのですが、季語が難しいそうで、どうも諦めてしまった様です。それで、《令和の与謝野晶子》になろうとしてるのでしょうか、短歌に凝り始めているのです。指を降りながら、五、七とやっています。《三十一文字》での日本語は、実に綺麗です。

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