一葉知秋

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 前漢の時代にあった、「淮南子(えなんじ)」の書の中に「説山訓」があります。そこに四字熟語で、「一葉の落つるを見て、歳の将まさに暮れなんとするを知る」との言葉があります。

  一葉知秋

 春に芽を出し、暑い夏の陽射しに耐える様に、濃い緑をたたえていた樹々の葉も、秋が来て変色し、最初の一葉が落ちると、次々に一枚一枚と葉を落としていく、天然の法則のもとにある命が、落葉して季節を終えていくわけです。その一葉の落ちるのを見て、秋が来たことに気づくのです。夏の葉は力強く生出でたのですが、季節到来、弱くなって葉を落としてしまいます。

 わずかな前兆や現象から、事の大勢や本質、また、物事の衰亡を察知することでもあるそうです。芭蕉が、奥州を旅して、「平泉(現在の岩手県西磐井郡)」に至って、栄えた藤原三代の栄華を遥かに思って、次の様な文を残しています。

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 「三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたにあり。
秀衡(ひでひら)が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まず、高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部より流るる大河なり。
 衣川(ころもがわ)は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落ち入る。
泰衡(やすひら)らが旧跡は、衣が関を隔てて、南部口(なんぶぐち)をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名(こうみょう)一時の叢(くさむら)となる。
国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪(なみだ)を落としはべりぬ。

  夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

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 奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と、四代百年もの間、繁栄を極めました。その中心地は、「平泉」でした、ここは、「平安京(京都)」に次ぐ日本第二の都市だったそうです。まるでその地は、「独立国」の様な勢いと存在感を誇示していたそうです。その権勢も、源頼朝によって滅びされて、露と消えてしまいます。

 奥州平泉に、中尊寺があり、黄金で金色堂を建立するほどに栄えたのですが、時は流れ、人は去り、権勢は露の様に霧散してしまい、人の噂からも消えてしまう、そんな儚さを芭蕉は記したのです。栄えれば栄えるほど、その終わりは衝撃的に儚いものなのです。やがて奥州藤原氏を滅ぼした源氏も滅びてしまいました。
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 名のない人々は、変わらぬ日常を精一杯に生き、家督相続の争いもなく、わずかな田畑を耕し続けて、代を重ねて来ているわけです。私の父は、〈鎌倉武士の末裔〉を、私に話したことがありますが、それとて系図が残っているわけでもなく、頼朝から拝領した領地や太刀が残っているわけでもなく、これも儚い夢にしか過ぎません。

 また人は書を著し、書を残しますが、やがては、薪の火起こしに使われて、灰塵に帰っていくわけです。最近、檀一雄のお嬢さんのふみさんが、お父さんの蔵書を処分した、と言っていました。文豪も、名を馳せた小説家も、棺に覆われては、大切な蔵書も、寄付されたり、処分されて、何一つ残すこともないのですね。

 わが家を見回してみますと、何一つ値打ちのある宝物はありません。ただ、心のこもった贈り物があるのみです。帰国に際して、小学生の小朋友から、この写真の置き物を記念にいただきました。一所懸命に、お土産屋さんに行って見つけて買い求め、お別れに際して、手渡してくれました。価値ある逸物です。

(中尊寺の紅葉、贈り物です)

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