下仕事

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 「真の職人」のお話です。昔から、「飯炊き3年、握り8年」の修行があって、一人前の寿司職人になれると言われてきました。一つの道を極めるためには、それだけの年月を修行しなければならないと言うわけです。板場に立つために、朝早く掃除をし、板の間を水拭きしたり乾拭きし、店先の掃き掃除から、主人の下駄拭きなど、《下仕事》から始めるのです。コメ研ぎや水加減を覚える前に、釜洗い、火起こしをします。包丁を使える様になる前に研ぎ、研ぎの前に砥石の準備もしなければなりません。

 それは寿司職人世界だけではなく、どの様な職種でも同じでした。そう言った下働きがあっての現場なのです。それを励んだ後に「年季が入る」と言われます。長い、意味のない様な仕事、仕事と思えない様な雑務を、喜んでする気持ちがあって一人前の、年季の入った職人になれるわけです。私の若い頃に、一人の青年と出会いました。

 江戸の職人の流れを継いでいたお父さまから、その技術を学んで、「鍛金師(今流で金属造形家)」として、私の街の宝石加工会社で修行されていたのです。そこでは、なかなか自分の技術を評価されなかった様ですが、専門外の宝石加工の世界で、耐えて修行されていました。そして何年も経って、今では、海の見える綺麗な街に作業場を得て、お仕事をされています。この方は、小さい頃に、ご両親とブラジルに出掛け、サンパウロ大学芸術学部を卒業されていました。

 意を決して、ご両親や妹さんたちと帰国されて間もなく、単身で私たちに所に来られたのです。素敵な青年で、子どもたちは彼を慕っていました。次女などは、脚に纏(まと)わりついては離さない程だったのです。岡山県下で工房を開いていた頃、一度お訪ねしたことがありました。今は静岡県下に、アトリエを構え、あちこちで個展を開いてきておいでです。一つの作品の作成に、1000時間をかけるほどの昔ながらの職人、芸術家なのです。

 この人とは違って、華南の街にいた時、田舎から大学に通うために出て来ていた女子大生に、日本語を教えていました。わが家にも出入りして、よくカレーをご馳走したのです。その経験から、卒業したら田舎に帰って、「カレー屋」を始めると言って帰って行きました。

 また食堂で、二、三ヶ月働いて、もう専門職で独立してしまったり、絵を短期間習って、子どもを集めて教え始める様な人と、何人も出会ったのです。まさに無修行での独立でした。だから、すぐに閉店、廃業になってしまいます。けっこう「自信家」が多いのかも知れません。

 誰にでもできそうですが、そうはいきません。四十過ぎまで、毎朝、広い講堂の床の雑巾掛けを続け、文句一つ言わずに続けた人がいました。下働きを厭(いと)うことなく、しかも喜んで、自分のすべきこととして励んで、やがて、責任者になった人がいます。《いぶし銀》の様なお話を、謙遜に語って、人に感銘を与えたそうです。そんな人になりたかった私でした。

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動く愛

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 『見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。 (イザヤ書60章2節)』

 「面前に三尺の闇」と言います。人の一生に、予期せぬことが待ち受けているからです。ここには「闇」とありますから、好ましく思わない、願わない出来事が待っていると言うのでしょう。

 まだ長男、長女、次女、次男が学生の頃から、お世話頂き、いろいろ教え導き助けてくださった方のご主人とお嬢さんとが亡くなられて、その夜も、御主人の60回目の誕生パーティに招かれて、近くに住む次女家族が行こうとして準備してる矢先の悲報だったそうです。

 次女の二人の子どもたちも、お嬢さんを姉の様に慕い、一緒に育ったので、それは大きなショックを受けているのです。でもやっと数日が経って、現実を受け入れる様になって来ている様です。

 この方のご両親は、子育て中に、家内と私と子どもたちを、たびたび家に招いてくださって、数日泊めていただき、交わりを持たせてくださったのです。滞在中、お子さんたちは、自分の部屋を、六人の私たちに提供してくださって、どこかに潜り込んで眠られ、そんな犠牲で迎えてくれたのです。

 二階の食堂兼居間は、まるで木漏れ日が差し込む様に温かくて、アメリカの匂いがして、何よりも愛が溢れていました。「パン屋の娘」だと言う奥さまは料理上手で、美味しくもてなしてくれたのです。私たち六人家族にとってはまるで「避難所」でした。
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 その奥様は、ご主人を20数年の前に亡くされ、在米のお嬢さんの家に迎えられて、老後を長女や、次女の家で過ごされ、今年97歳だと言ってきています。このご家族に真似て、人々を迎えられる家族でありたいと願って、私たちも見倣いながら生きて来ました。

 とくに華南で住んだ家には、多くの人が入れ替わりでやって来られました。アメリカに留学されていて、今夏街に戻られた大家さんが、『家を綺麗に使っていただき、多くの人が、やって来られて、温かく迎えてくださって、好い交わりのために使っていただいたと聞いて、とても嬉しいです!』と、先日FaceTimeでおっしゃっていました。

 このご家族を亡くされたお嬢さんの弟さんが、静岡県下に住んでおられて、私たちが帰朝するたびに、彼のご両親がそうであった様に、私たちを招いてくださって、温かく迎えてくれました。そこに何度お邪魔したか知れません。中国に行こうとしていた時、実家のない私たちの子どもたちに、『私たちの家を実家だと思って帰って来る様に伝えてくださいね!』と、妹さんも言ってくれたのは嬉しかったのです。
 
 先週、悲しいニュースを聞き、どう慰めていいのか分かりませんが、お世話いただいた私の子どもたちのうち、次女の家族が近くにいますので、心理的にも地理的にも一緒にいて上げれる様です。

 “ GoFundMe “ を、次女の主人が立て上げて、この方を経済的に支えて行こうとされています。すでに多くの方たちが、それに賛同していらっしゃるようです。まさに優しい愛が動いています。

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恥を雪ぐ

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 私は見ませんでしたが、先頃、寒かった日に、この街にも、雪が降ったそうです。経験から、遠い山から雪片が風に、「舞って来た」という表現がよいのかも知れません。雪雲が天空を覆って〈降る〉のと、頭上は晴れていて遠い山沿いに降った雪が〈舞う〉のとでは違います。

 以前は、ここ北関東の下野国でも、よく雪が降ったのだそうです。先日の悪天候で、奥日光や那須塩原では、大雪が降ったそうですが、近年では積雪が見られないのだそうです。この一月に、中国の雪の降らない華南の街から、家内の見舞いに来られたご夫妻が、日光の戦場ヶ原に、知人に案内していただいて、出掛けましたら、童心に帰ったのでしょうか、雪に身を投げ出して喜んでいたと言っておられました。

 兄たちが、りんご箱と竹で作った橇(そり)で、崖の上から、嬉々として滑り降りた日々がありました。転んで雪まみれになるのを楽しんだのですが、雪のない今の子どもたちにも、あの雪の日の冒険を味わわせてあげたいと思っています。

 さて、試合などの勝負などで、勝ちたかったのに、実力の差で負けてしまった選手やチームが、次の年には、負けた相手に勝とうとする気持ちを、「恥をすすぐ(除きさる)」と言います。その「すすぐ」を、【濯ぐ・洒ぐ・滌ぐ・漱ぐ】という漢字を当てて読ませていますが、「雪」を当てることもあります。

 日本大百科全書では、「会稽の恥を雪ぐ」を次の様に解説ています。『敗戦の屈辱を晴らすこと、また名誉の回復をいう。中国春秋時代、越(えつ)王勾践(こうせん)が呉(ご)王夫差(ふさ)と浙江(せっこう)省紹興(しょうこう)市の南方に位置する会稽山に戦い、そこで包囲されてやむなく屈辱的な講和を結ぶという辱めを受けた。これが「会稽の恥」である。その後、勾践は賢臣范蠡(はんれい)の助力を得るとともに、つねに苦い胆(きも)を部屋の中に掛けて置き、それを嘗(な)めてはこの辱めを思い出すなど、非常な苦心を重ねて20年、みごとに夫差を破って名誉を回復した、と伝える『史記』「越世家」の故事による。」とです。

 昨日も、夢を見たのですが。自分の恥ずかしい過去を思い出させる様なもので、人に褒められたり、感謝されたりすると、きっと、そんな夢を見るのです。何一つ褒められるべきものがないのに、そうされるのが恥ずかしいからでしょうか。ですから、過去の負けも失敗も恥も、「雪辱(せつじょく)」の思いなど微塵もなく、亀の様に頭を引っ込めるだけの自分です。

 “ 漢字文化資料館 ” は、「雪」と言う漢字を、どうして「すすぐ」に使うかについて、次の様に解説しています。『この字が古くから「洗い清める」という意味で使われていたことは、間違いありません。そのイメージは、私たちが現在抱いている、「きよしこの夜」の雪のイメージと、そうかけ離れてはいないのではないでしょうか。』

 よく、スポーツ選手が使う言葉に、” revenge “ があります。その意味は「敵討ち」で、血を見る様な仕返しや報復を言ってるのですが、負けたのが悔しい選手が、再挑戦して勝とうという気持ちを、そう言うのでしょう。ところが、こんなお方がいました。

 「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。・・・彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ書50章6節、53章7節)」、こう預言されたお方が、人の世に来られたのです。私の恥を、ご自分の恥として負われて、私たちの恥を雪ぎ罪も赦すため、人を死と裁きから救うためにでした。その方を知って、信じて感謝と喜びの今日があります。

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良薬

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 今の様に、薬が「カプセル」に入ったり、錠剤になっていないので、肺炎に罹り、風邪を引くたびに、お医者さんがくれる粉薬をオブラードで包んで、水と一緒に服用していました。小学生の頃に、何度、そうやって飲んだか数え切れません。この粉薬を「散薬」と呼びます。

 私の通っていた小学校に通学区域に、石田という地域があり、そこに、江戸期の初め頃から、「石田散薬」と言う、自家製の薬がありました。宝永年間に始まり、明治維新後に薬事法が出るまで、骨折や打ち身、捻挫、筋肉痛、また切り傷などに効用があるとして、民間治療薬として愛用されていたそうです。その散薬には、「フラボノイド」と言う、チョコレートに多く含まれている成分が多く含まれていたのが、近年になって分かったそうです。

 この散薬の「散」ですが、これが付く「散歩」と言う言葉があります。家内は、免疫力の向上のためによく散歩をしていますが、三歩どころか、千歩万歩と歩こうとしています。『散歩とは、気晴らしや健康などのために、ぶらぶらと歩くことである。散歩というのは、多くの場合、自宅や滞在している場所などの周辺を、とりとめもなく、ぶらぶらと歩くことを言う。(ウイキペディア)』。ですから、ほんとうは、スポーツの” walking ” なのでしょうか。

 この散歩と「散薬」と関連がありそうです。『苦難の旅で失明した鑑真だが、薬を鼻でかぎわけるほど医薬に精通していた。たずさえてきた薬のなかに虚弱体質を改善する「五石散」という鉱物性の製剤があった。体が温まり、熱を発散しないと薬毒がたまってしまうため、服用すれば歩き回らなければならなかった。これを「散歩」と言った(立川昭二『いのちの文化史』)。』とです。

 歩き回って、薬に成分を「散らそう(発散)」としたからでしょうか。「散策」とか「そぞろ歩き」とも言います。薬と言えば、もう何年も前に、薬科大学の教授が、薬の種類の多さの質問に、次の様なことを言っていました。『どの薬も効かないからです!』と、専門家が断言していたのが、可笑しかったのです。でも、家内の化学治療の薬は、確かに効いているのは感謝です。

 薬に「偽薬」がある様です。” プラシーボ(英語: placebo )” とか “ プラセボ(placebo) “ と言います。砂糖でも片栗粉でも、『効く!」信じて飲むと、病状が好転してしまうのです。こんなことを考えていたら、昨日は、中国で出会って、好い交流を続けて来た方が、東京近郊に工場を建設して、事業を拡張しようとしていて、時間を割いて、息子さんとお嬢さんを伴って訪問してくれました。彼と一緒に、大手医薬品会社に務める浙江省紹興出身の方も、小3の男の子と、家内を見舞ってくれたのです。

 ご夫妻で、ご自分たちの父親や母親の様に慕ってくれ、いつも好くしてくださる方なのです。七人で〈過密〉になるのですが、家に入る時には、アルコール消毒をし、ファブリーズをし、口にはマスク、ソシアルディスタンスをとり、昼食を近くにファミレスでとったり、楽しいひと時でした。まるで家族の様でした。まさに「良薬」の訪問でした。

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共にある慰め

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 「 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。 (詩篇116篇15節)」
 「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1章21節)」

 今日、娘から連絡があり、私たちの恩師のお嬢さんのご主人とお嬢さんが、オレゴン州の街の水かさが多くなっていた川で、川下り中に溺れてしまい、川の流れに流されて召されたと言ってきました。急なことで、私たちもとても驚いたところです。

 時あたかも「降誕節」でした。私の愛読書に、その降誕節の様子が記されてあります。

 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 (ヨハネ1章9節)」
 「これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。(ルカの福音書1章78〜79節)」
 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 (ルカの福音書2章11節)」

 これは暗闇の中に、救い主が来られることが預言されたことばです。新型コロナをはじめ、病むことへの心配、死への恐れで人々の心は暗黒の中にあります。その闇夜を、まことの光によって照らすために、「救い主」が来られるとの預言が成就して、ベツレヘムに、神の御子がお生まれになったのです。

 愛するご主人と娘さんのお二人を亡くされたEさんを、主が慰めてくださいます様にと、心からお祈りいたします。私たちの四人の子どもたちが、アメリカの学校にいた時に、様々に助けてくださった方で、とくに次女は、この方の近くで生活をしていて、つい一昨日も、お嬢さんがご用意くださった食事で、娘の家族をお招きくださって、楽しく感謝な交わりしたそうで、その時の様子を撮った写真を送信してくれたばかりでした。

 今晩は、一緒にいてあげると、次女から言ってきました。悲しむ者と共に悲しみ、また慰め励ますために、真の友はそばにいて上げられるのです。ご一緒にご家族で過ごされた素晴らしい日々、年月に目をとめられ、また再会できる望みに、心が満たされます様に、心から願っています。主のお許しなく、何も起こらないことを認めて、悲しみが癒され、主の激励にあって生きていかれます様に、心から祝福してお祈りしています。

 全知全能の神が、辛い経験の中で、悲しみの中にともにいてくださいます様に、また耐える力を与えてくださる様にお祈りします。(24日の夜に記しました)

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ヤッカイ

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 「健康保険制度」の話です。高齢者や低所得者の治療や入院などに、大きな助けになっていますが、家内も私も、お陰さまで、その恩恵に預かって、医療費の自己負担は、低く抑えられているのです。

 実は、夏頃から、私は歯の治療で、地元の歯科医院に罹っていました。本来なら、日本橋にある掛かり付けの歯科医に診てもらいたいのですが、コロナ禍の影響で、東京に出掛けるのを避けているから、地元で探したのです。最初の歯科医は、『痛いったって、痛いのは当然だから、仕方がないでしょう!』と、怒った口調で、診察台にいる五十代のご婦人の患者さんに言っていました。痛いから来たのに、それはないのです。一瞬、受付嬢が、『又かっ!』と言う顔で振り返り、歯科衛生士さんと目配せをしていました。

 自分も、神経をとったけど、スッキリせずに、主治医の終わりのチェックもなく、衛生士任せで終わってしまいました。それで、スッキリしないので、次の治療の予約を取らずに、別の歯科医に行くことにしたのです。そこは家内の掛かり付けで、丁寧に診てくれ、前の方との会話はなかったのに、この医師とわたしの間に会話、説明ありました。大先生が、最終チェックをし、『半年後にまた来てください!』で終えました。それは十分に安心でした。

 治療費も、前の歯科医は倍額以上で、後の方の歯科医院は納得がいく額でした。倍も払って、患者さんを叱る声を聞き、無会話でと言うのは、どう言った基準で診療がされ、治療費が決まるのでしょうか。日本橋の歯科医は、400円程度なのに、三倍くらいになるでしょうか。何が違うのでしょうか。

 家内は、この2年、大病院で治療を続けていて、月一回の治療費総額は、510000〜540000円です。その他に薬代があります。後期高齢者で、高額医療費の援助があって、毎回一万円弱ですみますが、点滴薬って、そんなに高いのでしょうか。どんな高価な薬剤が使われ、薬価が決められているのでしょうか。患者に分かる様に透明化できないのでしょうか。製薬会社は、どう収支を算出してるのでしょうか。

 薬価って適正価格があるのでしょうか、随意、製薬会社が自在に決めているのでしょうか。この地上にある物質を化学的に研究をして薬を作るのですが、どんな基準で薬価が決まるのでしょうか。医療保険制度が財政的に逼迫しているのは、医者と薬品会社の儲け主義があるのではないかなって思うのです。江戸の世で、次の様に言ったそうです。

『魚三層倍、呉服五層倍、花八層倍、薬九層倍、百姓百層倍、坊主丸儲け、按摩掴み取り!』とです。この「九層倍(くそうばい)」こそが、医療保険制度を維持不全にしていくのではないでしょう。昨年来、家内の内科の入院治療、歯科や眼科などの治療、私の歯科治療で、治療費負担を考え直して、気付いたのです。

 自己負担額を増やそうとする以前に、薬価を抑える政策が取れないのでしょうか。そんなに〈ヤッカイ〉なことではなさそうです。厚生労働省は、病院や医師会、製薬会社を収め切れていないのではないかと思ってしまう、師走の寒さの中で思ってしまいます。

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小さな財布

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 「お金」の話です。お金は使い方によって、高貴なことに用いられますし、反対に下賤なことに浪費してしまったりします。親に教えられたのは、〈無駄遣い〉や〈乱費〉をしないことでした。

 小学校一年の時に、母の故郷の山陰出雲に行きました。母の養母が健在だったのです。社会人になって仕事で、鳥取の米子に仕事で出張した時、母の親戚を出雲と大東に訪ねました。そこで出会った、母の養母や親族のおじさんから、《お金の大切さ》を教えられたのです。

 都会の若者のお金の使い方を見て、注意をして諭してくれたわけです。たかだか
500円単位のお金の使い方を、注意されたわけです。NBA(大リーグ)、NFL(アメリカのフットボール)などのアメリカのプロスポーツ界の契約金や年俸に比べたら、〈黄河砂〉、黄河の流れの一粒の砂片の様なものなのに、昔の日本の年寄りの堅実さには驚かされたのです。

 優勝請負のために、優秀な選手を獲得する競争が、スポーツ・チーム間にあって、その金額は、〈怒髪天を突く〉ほどに、昨今は高騰しています。野球少年の夢は、好きな野球をすると同時に、どれだけお金がもらえるかの好ましからざる動機が入り込んでしまっている様です。普通の社会人の俸給水準から、あまりにも大きな乖離があって、〈羨ましさ〉を遥かに超えて、不健全な金銭体系になっていないでしょうか。

 ある方が、『あんなにもらって、何に使うんだろう!』と言っていましたが、Kentuckyのチキンの唐揚げで財を成したColonel Sanders(カーネル・サンダース)は、10分の1を献金したそうですし、マイクロソフトのBill Gates(ビル・ゲイツ)も多額の寄付を、社会事業などに分野にしているそうです。

 日本のプロ野球選手が、『年間三億円の年俸を来季はもらう!』と言うニュースを聞いて、この選手の一日分が、自分の年間の年金支給額にも満たないのだと、家内に言いましたら、『人生、お金ではありませんから!』、『亡くなったら、どんなにあっても持っていけないわ!』と言っていました。然り!

 1894年(明治27年)、箱根で開催された第7回夏季学校で、「後世への最大遺物」を語った内村鑑三は、『金を稼げ!』と、明治の青年たちに奨励しました。それを、個人浪費のためではなく、社会に還元する様に勧めたわけです。社会事業や教育や研究のために用いるためにとの目的としたものでした。 

 「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。(箴言11章24〜25節)」とあります。自分の財布は小さくして生きることの勧めなのでしょうか。

 (古代ローマ帝国の通貨の金貨です)

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