日曜日

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 「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。 (ヘブル10章25節)」

 一月最後の日曜日です。退職、帰国、家内の闘病で、日曜日から日曜日という一週よりも、一日一日と生かされている思いが強く感じられ、けっこう充実した日を、週を過ごして、二年になります。

 日曜日が来ると、母は四人の子を電車に乗せ、隣街の教会学校に行った日々がありました。そして生意気盛りの思春期に入ってからは行かなくなってしまったのです。中学高校ではクラブ活動、社会人になったら、週末の山登り、女友だちと一緒に過ごしていました。それでも時々母の後について出かけたりしたのです。

 25になって、日曜日の過ごし方が変わったのです。子どもの頃に、母と一緒に出かけた教会(アメリカ人宣教師が始められました)に、日曜礼拝を守る様になりました。そこで家内と出会って結婚し、子どもたちが与えられ、彼らといっしょに感謝と喜びの日曜日を過ごせる様になりました。一人一人と子どもたちは巣立っていったのです。それを今日まで続けています。今は、” COVID-19 “ 、新型コロナウイルスの猛威で、どう過ごすかの医療の専門家の勧めに従って、家内と二人、家で礼拝を守っています。

 聖餐を取り、賛美を捧げ、友人牧師のお話をネットで聞き、聖書を開き、祈り、礼拝を守っております。生活の重要な一部になって、もう半世紀が過ぎ様としています。病気や入院中などで出席できなかった週もありましたが、飽きっぽい自分が、これほど熱心さを続けられたのに、我ながら不思議さを覚えてしまいます。

 在華中も、同信の友と共に集まり、礼拝を守りました。天津では、外国人の集い参加し、パスポートが必要でした。後に、街中の歴史ある中国人教会に、家内と自転車を連ねて参加しました。引越した華南の街では、街中の家に、みんなで集い、礼拝を守っていました。週毎に、いくつもの教会に呼ばれては、お話をさせていただいたのです。

そんなことを思い出しながら、新しい日曜日の朝を迎えています。窓から入り込む陽が、春を感じられる様になり、窓辺に置いた鉢に花が、黄色、白色、赤色と、その日を喜ぶかの様に咲いています。もうすぐ陽が昇ってくるでしょう。好い日曜日をお過ごしください。

(冬に風物詩の「毛嵐〈けあらし〉」です)

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金字塔

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 先日のNHKの「ひるのいこい」を聞いていましたら、昭和24年に、矢野涼の作詞、渡久地政信の作曲で、岡春夫が歌った「幸福はあの空から」が流れてきました。

黄昏の並木路
ひとり見てましょう
淋しさに 恋しさに
ひとり窓辺で見てましょう
やがてつく 街の灯が
暗い心を 照らして 照らして
来る来る 来る来る来る 来るよ
幸福(しあわせ)は あの街から
かならず やって来る 来るよ

あの頃の思い出を
そっと呼びましょう
過ぎし日を 夢の日を
そっと小声で呼びましょう
やがて出る 月さえも
愛し面影 浮かべて 浮かべて
来る来る 来る来る来る 来るよ
幸福は あの空から
かならず やって来る 来るよ

思い出を抱きしめて
じっと待ちましょう
苦しみも かなしみも
じっと耐(こら)えて待ちましょう
やがて来る 幸福に
涙なんかは おさらば おさらば
来る来る 来る来る来る 来るよ
幸福は いつの日にか
かならず やって来る 来るよ

 とても明るくて明日に希望を繋いで生きる様に、聞く人の心を鼓舞した歌です。そういえば、戦後に流行った歌は、並木道子の「りんごの歌」、笠置シズ子の「銀座カンカン娘」などがありました。みんな明るくて夢や希望を与える様な歌が、よく歌われたそうです。

 病気で不登校児の私は、朝からラジオを聞いて過ごしていましたから、クラシック音楽の「名演奏家の時間」、戦争で行くえの分からなくなった人を見つける「尋ね人」などを思い出しています。とくに、「ひるのいこい」は、全国の農林水産通信員の方々が便りを寄せていて、知らない町や村の名前を聞いては、どこかを探したりしたのです。

 テーマ曲もあの頃と同じで、のんびり、ゆっくりした時の流れが感じられて、タイムスリップした様な感じがしてしまいます。私の学校の先輩に当たる方も、アナウンサーとして担当されていたのを、後になって知って、70年にも亘る番組は、ラジオ放送の《金字塔》ではないでしょうか。

 
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魏志倭人伝

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 『日本人は、正しく自国の歴史を学んでいない!』と言われています。そんな意味で、歴史を学ぶ上で、「魏志倭人伝」が面白いのです。漢文で書かれていますが、和訳を見つけました。その書き出しに次の様に書かれてあります。

 『倭人は、帯方郡の東南の大海の中にいて、山や島を境界にして国やムラに分かれている。昔は百を超える国があった。漢の時代に朝見してきた国があり、いま外交関係にあるところは三十国である。・・・南にいくと「邪馬台国」に至る。女王の都するところだ。水行十日と陸行一月である。官に「伊支馬」がある。次は「弥馬升」、次は「弥馬獲支」、次は「奴佳鞮」という。七万余戸だろう。』

「倭国」にある「邪馬台国」が紹介されていて、女王が支配する国であったと記録されています。社会習俗については、次のようにあります。

 『その風俗は淫らでない(婦人は淫らでない、嫉妬しない)。男子はみな髪を露出し、木綿を頭に巻いている。衣服は横広の布を、ほとんど縫わないままつなげて、ひもで結び束ねている。婦人は束ねた髪をまとめて、単衣の中央から頭を出して着ている。』

「淫らでない」というのは、男女関係が正しかったという意味ですと、結婚や家族が尊ばれていたということでしょうか。上下の身分の違いなどについては、次のような記事があります。
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 『身分の低い者が高い者と道で遭遇した場合は、あとずさりして草むらに入る。言葉を伝えたり、物事を説明する際には、うずくまったり、ひざまずいて、両手を地につける。これは恭敬作法である。』

 江戸時代に、大名行列に出くわした農民や町人が、道の端で、土下座をし、頭を地につけて見送った光景を描いた絵を思い出させられます。もう古代からあったことだとすると、実に興味深いものがあります。あまた食習慣については、次のように記されてあります。

「冬でも夏でも生野菜を食べる。」

 私の母は、温野菜を、よく食べさせてくれました。大根やジャガイモやハスなどを煮て、醤油や砂糖の調味料を加え、肉なども一緒にして炊いてくれました。きゅうりとかトマトは、時期になると生で食べたでしょうか。生野菜の食習慣は、肉やハンバーグを食べ始めた頃から、日本では一般化してきたのでしょう。古代に<生野菜>は似合いそうにないのですが、それをカジっている音が聞こえそうです。

 この「邪馬台国」の女王の「卑弥呼」は、位の名や職名ではなく、個人的な名前であったように記されています。この伝記では、国の位置を特定できませんが、この日本列島の何処かにあったのだということは確かです。自分の国の古代の様が生き生きと記されていて、浪漫を感じさせられてしまいます(訳文は「デジタル邪馬台国」によります)。

 自分の祖先が、卑弥呼の時代に、どこに住み、何を考え、どんな願いを持って生きていたかは、興味が尽きません。将来にどんな可能性を考えていたでしょうか。何か不足を覚えていたでしょうか。人を愛したり、憎んだり、和解したりしていたのでしょうか。

(「吉野ヶ里遺跡」です)

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空気銃

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 この街の目抜き通りに、二軒の書店があります。本を読まなくなったり、通販や電子書籍の攻勢に押されながらも、店を守り続けておいでです。私が時々、書棚から本を見つけたり、注文して購入するのですが、それは私の意思に従って買うわけです。ところが早く読みたいと思うと、ネット販売での注文が便利なわけです。もう翌日には配達されるし、送料もかからないのです。

 ところがネットで購入しますと、趣味や趣向や傾向を、コンピューターが解析して、その本に関連する書名をメールで勧誘してくるのです。楽天にしろAmazonにしろ、『こんな本はいかがですか!』と、読書傾向を掴んでしまって、上手に売ろうとしているのです。

 そうしますと、思想傾向も、経済状況も、趣味でさえも掌握していて、心の中を見透かされている様な感覚になって、ちょっと怖くなってしまったのです。たくさんのことを学んでいた若い頃、恩師は、〈世界政府の台頭〉について話してくれたことがありました。

 ヨーロッパのある都市で、世界中からデータを集めて、この政府の樹立を準備しようとしていると言うことでした。世界中の何十億という人の個人データーが集積されていて、家系、学歴、職歴、収入、家族構成、収入、信仰、趣味、社会活動、行動軌跡などを、個人個人として書き込み、掌握しつつあることを言っていました。

 SFの世界のことではなく、現実にそれがなされつつあるというわけです。私たちの国でも、2012年だったでしょうか「住民基本台帳」を作って、行政の利便性をはかろうとしたのです。この動きがあった時、恩師の教えを思い出して、襟を正したのです。それでも国の思惑とは違って、個人情報を知られたくない思いがあって、登録者数は低迷しているのが現状だそうです。

 先日、母校にメールをしました。中学の同級生から空気銃を借りたまま返さず、しかも引っ越しのたびに、どこかに行ってしまっていたのです。その弁償をしようと、彼の消息を問い合わせたのです。ところが卒業後の動静が分からないとの返事でした。その卒業者名簿も、売り買いされるとのことで、どの学校も発行をやめてしまっているそうです。

 防犯の範囲に留まらず、情報の悪用、取り締まり、強権の発動などに行くなら、実に怖いものになりそうです。誰でも、心の中や過去を覗かれたくないわけです。でも、企業や国が、『あなたは、こんな目的のために物を買っているのですね!』、『あなたの知人に、◯◯さんがいますね!』と、突然言われそうな時代が来ていて、何か脅かされつつある不安を覚えてしまいます。

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拳ではなく

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 母に、『男だったら泣かないんだよね!』と、一度だけ言われたことがありました。泣かないのが、やはり男の格好良さなのかも知れません。上の兄に、父の仕事場の踏み固められた土間の上に、思いっきり叩きつけられて、悔しくって家に飛んで帰って、玄関のたたきの上で泣いていたら、母が抱きかかえて、そう言ったのです。うる覚えですが、まだ学校に上がる前のことだったでしょうか。正月の〈男だろう論争〉がまだ続く中、母に《男》を期待されたのを思い出したのです。

 父も同じでした。『泣いて帰ってきたら、家に入れないぞ!』と言う明治男風な〈男道〉を、叩き込まれていたのです。それででしょうか、悔しい思いをしながらも、グッと奥歯を噛んで痛くても口惜しくても涙を流さずに我慢することを学んだのです。

 やはり泣かない男の子は、強いのでしょう、友だちから《男》と認められたのです。十八歳の時のことでした。牛乳工場のアルバイト先で、搬送の車の運転手の手渡す伝票に応じて、各種の牛乳を保冷庫からか搬出する仕事をしていました。あるトラック運転の助手の男が言いがかりをつけてきたのです。『出てこい!』と言って、近くの雑木林の中に、私を連れて行ったのです。

 すると、上着を脱いで、上半身裸になったのです。見事な刺青が彫り込んであって、それを見せつけたのです。銭湯で、おじさんたちの刺青を見慣れていましたので、驚きませんでした。隠しておいた丸太を振りかぶって殴りかかってきましたが、それをもぎ取って、打ち伏せてしまいました。さしもの男も、手練れの相手の私に、勘弁を乞いました。私は、それで殴る手を止めました。それ以降、アルバイト先に、その男は顔を見せなくなったのです。

 得意になったわけではないのですが、〈売られた喧嘩は買う〉の男道に従ったのですが、喧嘩が強くても清々しくなることなどなく、何時もの様に、勝った後は、やはり後ろめたいものがあったのです。そんな中で、髭を抜かれても、叩かれても、ご自身を十字架にささげたイエスを知って、それが醜い私のためだと知って、男泣きをし、生き方や在り方が激変させられたのです。
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 不貞腐れて、自暴自棄になって暴力団に身を落とすこともなく、人の道を歩き始められたのには、十代で祈ることを知った母の祈りがあったからに違いありません。そんなことを、また思い出して、恥じたり、感謝したりしています。教師になった時に、同級生の代表だと言って一人の級友が、目を丸くして学校にやって来ました。『準が教師になったって本当か?』と菓子折りを持って確かめに来たわけです。
 
 拳(こぶし)ではなく、《信仰》によって生きれることを知って、献身した時は、中学の同級生が、『悪いが金を借してくれ!』と一度やって来て、1万円だか2万円だか上げたのですが、それ以外、呆れ返ったのでしょうか、誰も来ませんでした。

 お隣の国にいた時には、私のそんな過去を知らないみなさんが、白髪の「老人夫婦」がわざわざ日本からやって来て、一緒に賛美したり、説教壇で話をするのを、敬意をもって聞いてくれました。人生上の問題で、相談に来たりしてくれたり、結婚式の司式を頼まれたり、お母様のお世話をし、そのお母さんが亡くなられると葬儀で話を頼まれたりしたのです。そんな関わりを持ちながら、家内と二人で、華南の街で過ごした12年の歳月でした。

 迫害者だったパウロは、回心後の自分を、次の様に告白しました。『私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。』とです。過去に怯えることなく、《赦されたこと》を確信して、その後を生き、ついには殉教してしまいます。

 このパウロが書き送った手紙の一節、

 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです(エペソ人への手紙2章8~9節)。」

を読んで、自分の《赦し》を確かなものにしました。素晴らしいものを得て、老を家内とともに過ごせて感謝の日々でありまず。

(華南の街の美味しい「麺」です)

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こだわり

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 「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29章11節)」

 父も母も日本人で、私も日本人として育てられ、日本人である自覚を、確かなものにしながら一人の国民、市民として、これまで生きてきました。子どもの頃には、そんな自分の国民性を意識することはなかったのですが、外国人と出会い、海外への旅行や海外での生活をする段になって、どうしても、それを意識する様になったのだと思います。
 
 《民度の高さ》とか言う国際社会からの褒め言葉を聞くと、なぜか恥ずかしさを覚えてしまうのです。祖国を愛していますし、平和であり続けてほしいと願っています。《日本人の優秀性》などと取り上げられ、諸外国人から言われるのは、自分は好きではないのです。ただ父や母が勤勉だったので、自分もそれを受け継いでいるだけと思うからです。

 もう30数年前に、台北から高雄までの台湾のいくつもの街を、講演旅行で、上の兄と一緒に訪ねたことがありました。そこで出会った年配者のみなさんから、日本統治時代のことを聞かされたのです。その年月の日本支配を、責められるのかと思いましたが、感謝しておいでだったのが意外でした。若い人たちも同じでした。

 そして十数年前に、大陸に参りまして、初めに天津の街に1年間住んだのです。ほとんどドイツやアメリカやスイスなどからの外国人たちとの間で、過ごした一年でした。一見して日本人だと分かった、道端やバスやデパートで出会う街中の中国のみなさんが、自分に向けられる視線や態度は、けっこう硬く冷たいものがありました。

 国柄や社会的背景の違いかも知れませんが、台湾と大陸とでは、ずいぶんと違っていました。それでも叩かれたり石を投げられる様なことはありませんでした。ただ一度だけ、尖閣諸島の領有権の問題が騒がれた時に、住んでいた華南の街の教員住宅のベランダにレンガの破片を、夜中に投げ落とされたことがあって、朝発見しただけでした。

 推し並べて共に過ごしたり、行き合った市井の中国のみなさんは、寛容であって、過去に囚われたり、物事に私たちの様に拘らない人たちだったことを思い出しています。頂いた月餅や団子や豆腐やスイカや甘薯や故郷の乾燥野菜も、ご自分の故郷に連れて行ってくださったり、お見舞いくださったり、付き添ってくださったことなども、みな友好の印だったのです。みなさんが、辛いことは前の世代の出来事であって、過去に拘らないで、今や将来に思いを向けているのが分かったのです。

 ところが、日本人は違うのです。毎年1月が来ますと「阪神淡路大震災記念」、3月が来ますと「東日本大震災と津波と原発事故記念日」、8月が来ますと何回目の「原爆記念日」と言って、鎮魂、反対、対策の声が上がって、何か政治的に利用されたりしている様で、真摯に有り様を思い返す時ではない様に感じてしまうのです。

 〈過去に拘わる思い〉が、日本人は極めて強い様に思うのです。反省や対策を学ぶにはよいのですが、感情の処理をしていなかったりで、過去の亡霊に心が掴まれて、明日を見させなくしているのではないかと心配なのです。エレミヤは、「平安な計画」や「将来への希望」を思い起こさせる、神のみ思いを書き留めました。

 「恥」は人を謙遜にさせます。「失敗」は、そうすまいと言う思いを掻き立てます。私には一つや二つどころではなく、足の指を使っても数えきれない恥や失敗があります。でも、《明日変えられる自分》を、想いの中に描きながら生きてきました。いえ生かされてきました。そんなしぶとさを持つことができたのは感謝だと思うのです。悲観ではなく、明日への希望を掲げて今日を生きる者でありたい。

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分断

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 1945年8月15日に、天皇による終戦の詔勅の「玉音放送」があり、9月2日、戦艦ミズーリーの甲板上で、重光外務大臣が日本国を代表し、アメリカ側からはニミッツ元帥が代表して調印式が行われました。それで無条件降伏を受諾して、日本が占領されることになったのです。
 
 占領当初、ソ連が北海道と東北地方を、アメリカが本州中央(関東、信越、東海、北陸、近畿)を、中華民国が四国を、イギリスが西日本(中国、九州)を統治し、東京は四カ国共同占領という分割統治案がありました。その分割案は、当時のアメリカ合衆国のトルーマン大統領の分割案拒否で、アメリカ一国による占領となったのです。

 私は、1961年の春、修学旅行で、青森から青函連絡船で函館に着き、北海道を訪ねました。もし日本が分割されていたら、樺太や北方四島だけではなく、北海道も、当時のソ連の占領になっていたでしょうから、修学旅行で行くことはなかったし、よしんば行くにしても査証が必要だったことでしょう。

 しかし、まだ未舗装の道内の国道を、砂埃を立てて函館から大雪、網走と周遊することができました。旅館で初めて食べた、〈イカ素麺〉の旨さに味了(魅了)されてしまいました。沖縄が返還される以前は、沖縄から本土の大学に来るためには、面倒な手続きをし、ドルを円に換金する必要がありました。北海道がソ連領だったら、同じだったのでしょうか。

 朝鮮戦争によって、南北が分断された朝鮮半島は、今に至るまで統一は見込めなさそうな現状です。私が初めてソウルに行きました時は、夜間外出禁止で、厳戒令がしかれていました。韓国映画に、「網に囚われた漁民(The net)」という映画があります。北朝鮮の漁民が、エンジンのトラブルで南北国境を超えて、韓国領侵犯で海岸警備隊にスパイ容疑をかけられ、拘束されます。

 朝鮮戦争で父親を殺された取調官は、暴力や拷問によってスパイに仕立て上げ様とします。連れ出されたソウル(京城)市内で、放置されたりします。結局、北に帰ることを許されるのです。ところが、祖国の北に帰っても、南の逆スパイとして送り返されたとの嫌疑で、同じ様な執拗な取り調べと拷問をうけるのです。やっと解放されますが、食べるために漁以外に生業のないこの人は、けっきょく網を打とうと出た洋上で射殺されてしまいます。
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 貧しいその日の漁でやっと家族を養って生きている漁民が、自由な国に行っても、独裁国家に戻っても同じ様な嫌疑をかけられる、そう言った描写に、考えさせれることが多かったのです。分断国家の不条理さ、疑心暗鬼が描かれて、北に拉致された日本人のみなさんは、様々な酷い待遇や洗脳を受けていることを思わされるのです。

 日本軍による外国人捕虜に対する行き過ぎた取り調べや拷問もあった様です。何よりも捕虜として投降する恥を避け、自死を進めた日本軍の軍紀の生命軽視には驚かされました。一度、スエーデン人のご夫婦と一緒に食事をしたテーブルに、ピョンヤン(平壌)出身の方がおいででした。彼には強烈な南北統一の悲願があって、ご自分の故郷の陸上競技場に溢れる様に人を集めて、『講演会を開きたい!』と言っていました。

(青森駅の青函連絡船への線路跡です)

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遜る

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 「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ書6章8節)」

 「遜る」と言う学課についてです。貶(けな)されたり、褒められたりして、今日まで生きてきました。” balance sheet “ にしてみますと、圧倒的に、貶されたことが多かったなあの今までなのです。それだけ欠点や短所が目立って多かったからなのです。

 貶されると、私は、『何のその!』と言って、自分の良いところを思うことにしたのです。欠点は、いつか変えられると言う希望を持ってでした。

 先週、第46代アメリカ大統領のバイデン氏の就任式が行われていましたが、第39代カーター大統領が選ばれた時、お母さんから送られたのが、冒頭の言葉でした。大統領の重責を果たす上で、こんなに的確で、素晴らしい理念は他にありません。大統領職に就任する息子を産んだ、母の誇りや得意満面さは母の口に一言もありませんでした。四年間の職務を、どんな心で過ごすべきかを、このお母さんは知っていたのです。

 ミカの時代、経済力や地位を持つ一握りの人たちの支配下にありました。人々は、その抑圧下にあって、不当な扱いを受けていたのです。裁判官も宗教家も金儲けが第一になるほど堕落していました。そんな只中、預言者として、神のことばを発したのがミカでした。

 真の預言者は、国家権力を恐れませんし、阿(おもね)ることもしません。「義」を貫き、「義」を行うことを語ります。お金や地位や誉を求めたり愛したりしないで、「誠実」を愛することを勧めます。さらに謙遜に生きることに祝福を語ります。人の顔色や財布の中に思いを向けずに、神と共に遜って歩むことこそ、大切だと言ったのです。

 カーター大統領は、大向こうを唸らせ、歴史にことを残す様な、政策的な大芝居を打つことはなかったのですが、誠実に任務を果たしたのです。まさに、カーター大統領は、

 「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。(箴言1章18節)」

を守って生きたことになります。ピーナッツ栽培農家の息子でしたが、パレスチナの寒村の村民に向けて語った預言のことばを、輝けるアメリカ合衆国の大統領に、お母さんが語ったと言うことは、特筆に値します。預言者の声に耳を傾けて、「謙遜」に生きる勧めだったわけです。

 カーター時代のホワイトハウスの住人は、ホテルのモーニングを食べたり、有名ステーキ屋のステーキを食べる、どこかの首長とは違って、貧しかったそうです。なぜかと言いますと、特権の濫用をしなかったからです。ホワイトハウスを飾る花でさえ、野に咲く花を積んで活けたとの逸話も残されています。カーター大統領は、私の恩師と同じ、ジョージア州の出身でした。ちなみのこの州のニックネームは、” The Peach State “ だそうです。

 
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四六の蝦蟇

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 東の空から太陽が昇るのを、ベランダから眺めるのが、毎日一日の始まりです。夕日だけではなく、日の出の空は茜さす神秘さに溢れた情景なのです。太陽を拝むことはしませんが、創造主の業である《日輪》を眺めるのは、実に《創造の神秘》を感じさせくれ、畏怖さえも覚えてしまいます。

 太陽が昇るのは、ここ北関東下野国から見える「筑波連邦」の背後なのです。この筑波山(877m)には登ったことも訪ねたこともないのですが、遠い山容は美しく、訪ねる様に誘われているように感じながら、遠望で満足しております。画家の安野光雅が書きました「大志の歌」の中に、本当の校歌ではなく、架空、想像上の学校が取り上げられ、それを歌った校歌が、次の様にあります。

前を流れる桜川
後ろは深き筑波山
蓮咲く沼のほとりこそ
わが故郷の誇りなれ

痔の妙薬といつわりて
がまの油をこねくりまわし
あるは刀の刃をとめて
人をあざむく悲しさよ

 島根県に、小京都と親しまれる「津和野」があります。安野光雅は、この街の出身の画家で、昨年末に亡くなられています。筑波は、〈蝦蟇(がま)の油〉の産地でだという前置きで、武家の装いをした香具師(やし)が、口上(こうじょう)を唱えながら、道端や神社の境内で売っていた妙薬で、それをユーモラスに歌ったのです。その口上( 出典、つくば市認定地域文化財規則第3条)とは、

 『さあさあ お立ちあい、御用と お急ぎでなかったら、
ゆっくりと聞いておいで。
遠出山越(とおでやまご)え笠の内、
聞かざる時には、物の出方、善悪、黒白がトント分からない。
(中略)

さて、いよいよ 手前 ここに取り出しましたるが、
それ その 陣中膏はガマの油だ。
だが お立ち会い。  
蝦蟇 蝦蟇と 一口に云っても 
そこにも居る ここにもいるという蝦蟇とは、
ちと これ 蝦蟇が違う。(中略)
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一名これ、五八十(ごはつそう)は四六の蝦蟇だ。四六の蝦蟇。
サテ しからば、此の四六の蝦蟇の棲むところ、
一体、何処(いずこ)なりやと言うれば、
これより遙か北の方、
北は常陸の国は筑波の郡、古事記・万葉の古から 歌で有名。
「筑波嶺の 峰より落つる男女川(みなのがわ) 恋いぞつもりて 渕となりぬる。」と陽成院(ようぜんいん)の歌にもございます 関東の名峰、筑波山の麓。(後略)

 ガマの身になって、ガマの学校の「校歌」の様にして詠んだのです。そんなことを思い出しながら、遠望の筑波の峰を眺めると、この「ガマの油」が、『新型コロナに効かないかな!』なんて思ってしまうのですが。朝日が昇るのを見るだけではなく、銀座か浅草にでも行って、路傍の売人のアルバイトでもしたいものですが、いかがなものでしょうか。効きっこないか。

(ベランダから遠くに見える朝明の筑波山です)

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「待つ」という学課

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 「こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。 (ヤコブ5章7〜8節)」

 人生の《一大学課》が何であるかについてです。現代人は、特に、この学課を学ぶのを避けて生きているのではないかと思います。《待つこと》です。

 『急いては事を仕損じる!』と先人も申しましたが、それを地でいった人の話を聞きました。「宮本武蔵」や「鳴門秘帖」の名作を手掛けた吉川英治が亡くなって、盛大な葬儀が、1962年9月に行われました。長蛇の焼香客の中に、これまた戦後の文壇で名の馳せた尾崎士郎がいました。

 その頃、文壇の寵児として人気のあった三島由紀夫などの気鋭の作家たちも、その葬儀に駆けつけました。三島らは、『先生こちらへ!』 と言われて、列に並ばずに進むことができたそうです。ところが尾崎士郎は、じっと列の中にとどまって、順番を待っていたいたそうです。どなたかが、そう言った違いを目撃していたのでしょう。

 私は、高校時代に、この尾崎士郎の「人生劇場青春篇」を読んで、早稲田に進学することを考えていました。バンカラな昭和初期の早稲田に学んだ尾崎の自伝的新聞小説で、そこに描かれた学生生活に憧れたからです。早稲田には行きませんでしたが、早稲田の国文学科長に気に入られたことがありました。

 実は、私には、滞華生活の中で、〈悔い〉と言うか申し訳ない経験があるのです。小学校の頃からたびたび中耳炎で苦しんで、街の耳鼻科医に診てもらってきました。華南の街で生活していた時に、それを再発して、医科大学医院に連れて行ってもらい、診てもらったのです。私たちの世話をしてくださっていた大学の教師の方の友人が、その医科大の耳鼻科の医者でした。
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 その時、驚くほどの人が、診察室の前で待っていたのです。それが中国では普通なのか、中国の医院では、医師や婦長に知り合いや推薦のある患者が優先的に診てもらえるのです。学校で教えていましたから、『先生こちらへどうぞ!』と、何十という人、百人以上の人よりも先に診察してもらったのです。自分に主導権がありませんでしたから、言われるままに、多くの患者さんを飛び越えて医者の前に立ったのです。

 すごく申し訳がない思いで心がいっぱいで、特権を喜べなかったのです。思い返すと、弔問の列の中で待たなかった三島由紀夫の様だった自分が恥ずかしかったのです。恨めしそうな視線が向けられていましたが、苦情や文句や不平が出ることがなかったのも、さらに申し訳なさの思いを増幅させたのです。

 私は権利を主張できる立場ではありませんし、かつての侵略者の末裔なのですから、恨まれても当然なのに、自分の意志でない特権に預かったことが、いまだに忘れられないまま、家内の診察を、順番待ちしている今です。あの焼香の客の列に留まった尾崎士郎の様な、自己主張や特権行使をしない生き方っていいですね。

 エルサレム教会のヤコブは、『耐え忍びなさい!』と、『早く、速く!』と言って生きてる二十一世紀に私たちに《待つこと》を勧めています。時には、定められた時があって、どうしても待たなければならないのですが、間もなく事が起こりそうです。自然界が時を待つ様に、今、急がずに待ちつつある私です。

 
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