拳ではなく

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 母に、『男だったら泣かないんだよね!』と、一度だけ言われたことがありました。泣かないのが、やはり男の格好良さなのかも知れません。上の兄に、父の仕事場の踏み固められた土間の上に、思いっきり叩きつけられて、悔しくって家に飛んで帰って、玄関のたたきの上で泣いていたら、母が抱きかかえて、そう言ったのです。うる覚えですが、まだ学校に上がる前のことだったでしょうか。正月の〈男だろう論争〉がまだ続く中、母に《男》を期待されたのを思い出したのです。

 父も同じでした。『泣いて帰ってきたら、家に入れないぞ!』と言う明治男風な〈男道〉を、叩き込まれていたのです。それででしょうか、悔しい思いをしながらも、グッと奥歯を噛んで痛くても口惜しくても涙を流さずに我慢することを学んだのです。

 やはり泣かない男の子は、強いのでしょう、友だちから《男》と認められたのです。十八歳の時のことでした。牛乳工場のアルバイト先で、搬送の車の運転手の手渡す伝票に応じて、各種の牛乳を保冷庫からか搬出する仕事をしていました。あるトラック運転の助手の男が言いがかりをつけてきたのです。『出てこい!』と言って、近くの雑木林の中に、私を連れて行ったのです。

 すると、上着を脱いで、上半身裸になったのです。見事な刺青が彫り込んであって、それを見せつけたのです。銭湯で、おじさんたちの刺青を見慣れていましたので、驚きませんでした。隠しておいた丸太を振りかぶって殴りかかってきましたが、それをもぎ取って、打ち伏せてしまいました。さしもの男も、手練れの相手の私に、勘弁を乞いました。私は、それで殴る手を止めました。それ以降、アルバイト先に、その男は顔を見せなくなったのです。

 得意になったわけではないのですが、〈売られた喧嘩は買う〉の男道に従ったのですが、喧嘩が強くても清々しくなることなどなく、何時もの様に、勝った後は、やはり後ろめたいものがあったのです。そんな中で、髭を抜かれても、叩かれても、ご自身を十字架にささげたイエスを知って、それが醜い私のためだと知って、男泣きをし、生き方や在り方が激変させられたのです。
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 不貞腐れて、自暴自棄になって暴力団に身を落とすこともなく、人の道を歩き始められたのには、十代で祈ることを知った母の祈りがあったからに違いありません。そんなことを、また思い出して、恥じたり、感謝したりしています。教師になった時に、同級生の代表だと言って一人の級友が、目を丸くして学校にやって来ました。『準が教師になったって本当か?』と菓子折りを持って確かめに来たわけです。
 
 拳(こぶし)ではなく、《信仰》によって生きれることを知って、献身した時は、中学の同級生が、『悪いが金を借してくれ!』と一度やって来て、1万円だか2万円だか上げたのですが、それ以外、呆れ返ったのでしょうか、誰も来ませんでした。

 お隣の国にいた時には、私のそんな過去を知らないみなさんが、白髪の「老人夫婦」がわざわざ日本からやって来て、一緒に賛美したり、説教壇で話をするのを、敬意をもって聞いてくれました。人生上の問題で、相談に来たりしてくれたり、結婚式の司式を頼まれたり、お母様のお世話をし、そのお母さんが亡くなられると葬儀で話を頼まれたりしたのです。そんな関わりを持ちながら、家内と二人で、華南の街で過ごした12年の歳月でした。

 迫害者だったパウロは、回心後の自分を、次の様に告白しました。『私は以前には、神を冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。』とです。過去に怯えることなく、《赦されたこと》を確信して、その後を生き、ついには殉教してしまいます。

 このパウロが書き送った手紙の一節、

 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです(エペソ人への手紙2章8~9節)。」

を読んで、自分の《赦し》を確かなものにしました。素晴らしいものを得て、老を家内とともに過ごせて感謝の日々でありまず。

(華南の街の美味しい「麺」です)

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