昨年来、私たちの世代では初めて、突如として世界を脅かす〈新型コロナウイルス症〉に見舞われました。そして右往左往し、意気沮喪した2020年を終え、今や2021年が始まり、人は否応なしに「死」の恐怖に直面されて、初めての様に、「いのち」の課題を考え始めているのではないでしょうか。
百年を一区切りの様にして起こる伝染病が、この地上にたびたび繰り返され、科学万能時代の二十一世紀にもまた、人は翻弄されてしまっています。当然の様にして生きている、傲慢な人間に対して、『当然ではない!』と言う「いのち」に対して、意味や責任や答えを得なければならないとの迫りを感じてなりません。
これこそ人類の歴史に繰り返されてきていますが、この時代の私たちにとっては、まさに「新しいこと」なのです。私たちは、この「新しいことをする」と仰る方からの迫りを、痛切に感じて、人の内に、「いのち」を考えようとする重大な課題が、突きつけられていることを認めたいのです。
対細菌との闘いに世界が巻き込まれて、人は初めて、生死を真剣に考え始めているのかも知れません。「マスク」や「ソシアルディスタンス」や「ワクチン」以上の課題です。
『明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは』
と親鸞が詠んだ様に、漫然と計画して生きていても、夜中に大嵐が吹いて、計画も命でさえも果ててしまうことだってある、と言った人の一生を、初めて熟考すべき時です。
「いのち」は付与されたものであって、それを全うする様に、人は定められています。どう全うするかの責任を、私たちは例外なく負って、今を生きていると言えるのです。この「死」への恐れの中で、2021年を「いのちを考える年」としたいものです。哲学の課題ではなく、それよりもはるかに重要で根本的な課題だからです。どう「死」に向かって、残された日々を生きるかでもあります。それは老人への課題ではなく、若者も子どもも考えなければならない今年なのではないでしょうか。
繰り返されることではなく、全く「新しいこと」が起こるのだと期待して生きたいのです。「新しさへの期待」、「いのち」の意味を知ることこそ、迎えた新年の課題であると言えます。
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