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私たちの倶楽部に、ほとんど入れ替わりの様にして、何組かのアメリカ人のご家族がいたことがありました。日本の食べ物が合わなくて、月に何度か、アメリカ軍の基地に出かけては、そこで食料を買って帰ってきて、生活をされていた方がいました。ご主人は、軍籍をお持ちだったのです。せっかくの来日でしたが、けっきょく短期で帰国されてしまったのです。
この方たちとは違って、魚の干物でも食べられる家族がいました。多くの人たちに教える力があって、とくに奥さまは、ご婦人たちに良い感化を与えておられました。地味で質素な生活をされていて、私たちと、とても良い関係を持たせていただいたのです。住んでいる山里の村でも人気のあるご家族でした。4、5年おいでの後、帰国されました。
もうひと家族は、奥さまが日本人でしたが、私の知人の家を紹介して住んでいたのですが、家や庭の使い方や近隣の方との間でトラブルがあって、いつの間にか、山の奥の方に住まいを見つけて移って行かれ、それからは連絡が途絶えてしまいました。
私たちと八年ほど一緒に過ごした恩師は、男のお子さんが二人おいででした。日本式の手狭な家を借りて生活をされていました。その借家全体が、弟さんと二人の遊び部屋ほどだったそうで、地方の裕福な商家の出でした。その借家を改装して、部屋を増やし、そこでお子さんのホームスクールをしていました。
子育てをしながら、お仕事をされ、その働きを私に預けて神奈川の街に移って行かれました。その後、京都、札幌、再び京都と、多くの街で働かれて、良いお働きを残された方でした。よく腰が痛かったりしておいででしたが、厳しい病を得て、東京の入院先で召されました。六十代でした。
この方から、人生の基本的なこと、物の見方、考え方、捉え方などを学ばせていただいたのです。この方を訪ねて来られたみなさんからも、短期間でしたが、多くのことを学んだのです。まだ教える方も、学ぶ自分も若かったのです。彼らは熱く教えてくれました。《誰に学ぶか》、《何を読むか》、《どこから情報を得るか》を、この方たちから学んだのです。
あの年月があって今の自分があるのだと思い返しております。『鉄は熱いうちに打て!』、柔軟な時期に受けた影響というのは、一生ものになるのでしょうか。今年小学校に入学する、私たちの小朋友のお嬢さんは、来るたびに、知的にも創作面でも成長が見える、『栴檀は双葉よりも芳し!』、将来が楽しみです。彼女にとっては、私たちは《大朋友》なのでしょう、『百合さん、準さん!』と彼女に呼ばれて、遊び相手に感じてている様です。
中国での13年は、孫たちと接する機会が少なかったのですが、このお嬢さんは、それを補ってくれて余りあるほどなのです。ちょっと厳しくしたりすると、彼女は大粒の涙をポロリと落とすのです。歳を重ねての幼い子からの刺激は、人生の仕上げ作業の一つなのでしょうか。華南の街で出会ったみなさんからも、実に多くのことを学ばせていただいたことも忘れていません。
数多くの多く出会いがあったのですが、言語も肌の色も国籍も民族も文化も、人はそれを超えた存在だと思うのです。同じ様に笑い、泣き、叫び、黙ります。同じ感情を表して、同じ真理に憧れて、それぞれに意識を働かせて生きます。みなさん個性的に自分の生を生きているのです。その素敵な出会いに感謝して。
(「栴檀」の花です)