分断

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 1945年8月15日に、天皇による終戦の詔勅の「玉音放送」があり、9月2日、戦艦ミズーリーの甲板上で、重光外務大臣が日本国を代表し、アメリカ側からはニミッツ元帥が代表して調印式が行われました。それで無条件降伏を受諾して、日本が占領されることになったのです。
 
 占領当初、ソ連が北海道と東北地方を、アメリカが本州中央(関東、信越、東海、北陸、近畿)を、中華民国が四国を、イギリスが西日本(中国、九州)を統治し、東京は四カ国共同占領という分割統治案がありました。その分割案は、当時のアメリカ合衆国のトルーマン大統領の分割案拒否で、アメリカ一国による占領となったのです。

 私は、1961年の春、修学旅行で、青森から青函連絡船で函館に着き、北海道を訪ねました。もし日本が分割されていたら、樺太や北方四島だけではなく、北海道も、当時のソ連の占領になっていたでしょうから、修学旅行で行くことはなかったし、よしんば行くにしても査証が必要だったことでしょう。

 しかし、まだ未舗装の道内の国道を、砂埃を立てて函館から大雪、網走と周遊することができました。旅館で初めて食べた、〈イカ素麺〉の旨さに味了(魅了)されてしまいました。沖縄が返還される以前は、沖縄から本土の大学に来るためには、面倒な手続きをし、ドルを円に換金する必要がありました。北海道がソ連領だったら、同じだったのでしょうか。

 朝鮮戦争によって、南北が分断された朝鮮半島は、今に至るまで統一は見込めなさそうな現状です。私が初めてソウルに行きました時は、夜間外出禁止で、厳戒令がしかれていました。韓国映画に、「網に囚われた漁民(The net)」という映画があります。北朝鮮の漁民が、エンジンのトラブルで南北国境を超えて、韓国領侵犯で海岸警備隊にスパイ容疑をかけられ、拘束されます。

 朝鮮戦争で父親を殺された取調官は、暴力や拷問によってスパイに仕立て上げ様とします。連れ出されたソウル(京城)市内で、放置されたりします。結局、北に帰ることを許されるのです。ところが、祖国の北に帰っても、南の逆スパイとして送り返されたとの嫌疑で、同じ様な執拗な取り調べと拷問をうけるのです。やっと解放されますが、食べるために漁以外に生業のないこの人は、けっきょく網を打とうと出た洋上で射殺されてしまいます。
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 貧しいその日の漁でやっと家族を養って生きている漁民が、自由な国に行っても、独裁国家に戻っても同じ様な嫌疑をかけられる、そう言った描写に、考えさせれることが多かったのです。分断国家の不条理さ、疑心暗鬼が描かれて、北に拉致された日本人のみなさんは、様々な酷い待遇や洗脳を受けていることを思わされるのです。

 日本軍による外国人捕虜に対する行き過ぎた取り調べや拷問もあった様です。何よりも捕虜として投降する恥を避け、自死を進めた日本軍の軍紀の生命軽視には驚かされました。一度、スエーデン人のご夫婦と一緒に食事をしたテーブルに、ピョンヤン(平壌)出身の方がおいででした。彼には強烈な南北統一の悲願があって、ご自分の故郷の陸上競技場に溢れる様に人を集めて、『講演会を開きたい!』と言っていました。

(青森駅の青函連絡船への線路跡です)

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