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中学の社会の授業の一環で、同学年二クラスを、視聴覚教室に集めて、映写会が行われました。前もっての説明があったか、また観賞後に何を、担当教師が語ったかは覚えていませんが、衝撃的な映像が大写しにされていました。
それは、太平洋戦争末期のサイパン島を、米艦から撮影したものでした。その島の断崖から、夫人や子どもたちが、次々に飛び降りていく様子が映し出されていました。投身自殺をしていたのです。死ねないと、もう一段飛び降りていくのが鮮明に映し出されていました。
戦争が終わって、ほぼ十年が過ぎた、昭和三十年代の初めの頃でした。社会科の担任は、まだ三十代でした。東京大学を出て兵役につき、終戦後、私たちの学んだ中学の教師になって、地理や歴史を教えてくれていました。そんな現実が、十年数前にあったのに、驚愕した日でした。
「歴史の事実」、忘れてはならない過去を、中学生の私たちの記憶に刷り込もうとされたのです。当時の日本と軍部のしたことを弁護するのでもなく、批判するのでもなく、私たちの担任は、教材を用いて《事実》を教えてくれたことに感謝するのです。
戦争を体験した大人は正面から戦争を、子の世代に語りませんでした。私は、戦争に関わった人たちに、虚脱感や罪責感があるのを感じました。駅の改札付近や駅近の道ばたや電車内で、白衣で軍帽を被った傷痍軍人が、アコーデオンを弾きながら、『♭ ああ、あの顔で、あの声で・・・♯』と歌い、募金をしていました。
電車に乗ると、前の席で酩酊したおじさんが、『#勝って来るぞと勇ましく・・・♭』と、歌う声を何度も聞きました。過去に苛まれた大人を何人も何人も見ていました。今、「歴史の修正」がなされています。『仕方がなかった!』、『敵の策にはめられた!』と言って、父や祖父の世代の過ちを修正する人たちがいます。
私と家内が過ごした華南の街に、日本軍の飛行場跡がありました。上陸した日本軍は、田畑を飛行場に変えたのです。そして、多くの井戸に毒が投げ込まれたとのことでした。そう重い口を開いて話してくれたのです。私が出会った、上海の近くの村を故郷とする老婦人は、日本人の焼き討ちで負ったやけどを見せてくれたのです。話してくれた人たちは、《事実》を話してくれて、決して憎悪や敵対心を向けませんでした。
日本軍が、真珠湾を攻撃したのが、1941年12月8日でした。同じ日、日本軍は、イギリス統治下にあった香港を奇襲していたのです。その2週間後に、香港は日本軍に降伏したのです。セントジョセフカレッジの学生、病院の医療者患者、負傷兵が、凌辱され虐殺されている、これも影に隠された《事実》です。
こう言った過去の事実から目を逸らして、忘れてしまおうとしている人たちがいます。恥ずかしい過去、不都合な記憶を、『忘れよう!』とする傾向があります。歴史の事実に直面ずることを避け様とするのです。国全体が、そう言った動きを見せて、歴史を修正するのです。十代の感受性の強い年に、事実としての歴史を見る目を与えてくれた恩師に感謝している今です。
そう言った意味で、ユダヤ人の父親は、宗教教育の他に、「民族の歴史」を子どもに教えるのです。酸いも甘いも、同族が辿ってきた歩みを、包み隠さず教えます。民族的な忘却をすることなく、《事実》を伝えるのは、正しいことに違いありません。私の父は、戦争の生々しい悲劇の写真集を買って来て、『被害者として、また加害者としての同国人の過去を忘れるな!』との思いを込めてでしうか、私の目の前に置きました。
二十数年前、私たちの過ごした街の国立の大学院の中国人留学生が、広島の原爆記念館を見て帰って来て、私に言った言葉が忘れられません。『被害者の記念を残すなら、加害者の記念をなぜ残さないのですか?』と厳しい表情で訴えて話してくれました。歴史を改竄したり歪曲したりしては、決してあってはなりません。
(平和の時代の「サイパン島」です)
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