感謝

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 わが家のお昼ご飯の定番は、家内の要望で、だいたい「うどん」です。長葱、にんじん、玉葱、小松菜などの青菜、それにクコ(枸杞gǒu qǐ/乾燥した実)とナツメ(大枣dà zǎo/乾燥した実)と牛肉と鰹節とで、薄醤油で煮込んだ物です。それしかできないので、BAKAの一つ覚えで作るのです。華南の街の友人から、『身体に好いので料理に使ってください!』と言われて、欠かさずに使いつづけているのが、中国漢方の定番のクコとナツメなのです。

 今年の一月、華南の街で、とても好い交わりをさせていただいた、私たちと同世代のご夫妻が、家内を見舞ってくれました。五日ほど滞在されて、旧交を温めたのです。このご夫妻が、闘病中の家内の健康回復のために、たくさんの中国食材をお土産に持ってきてくださり、その中に、このクコとナツメがあり、まだ食べ続けています。

 この様に、中国で親しくなったみなさんの愛の深さは、半端ではないのです。友人と言うよりも「家族」の接し方をしてくださるのです。彼らがよく言われるのが、「一家人yī jiā rén」です。病気で入院して経済的に困っていると、互いに入院や治療費を融通して、みなさんは助け合うのです。今の裕福で、今困窮している友や親っp族や家族を援助し、ある日困窮すると、その人が助けると言った互助のあり方が、よく見られました。困難を共有して、みなさんは生きるのです。

 外国人で、かつての戦争中の加害者の子孫の私たちは、敵愾心に燃えて接せられて当然だと、覚悟して中国での生活を始めました。ところが東北部でも華南でも、中国で親しくしていただいたみなさんは、私たちに暖かく接してくれたのです。過去は過去、過去の経緯など無関係に、家族の様にして手を差し伸べてくださって、助けていただいた、在華十三年でした。帰国しても、大きな犠牲を払って、何組もの友人たちが、家内を見舞ってくれて、今日の家内があります。
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 それは、物のやり取りだけではなく、心の交流なのです。七日間家内が、省立医院に入院した去年の正月にも、7年ほど前に、市立第二医院に入院した時も、家内の病室での身の回りの世話のために、みなさんが三交代で付き添ってくれたのです。大学や小学校の先生、検察庁の検事、会社経営者などのみなさんが、夜通しでお世話くださった愛と犠牲とがあって、今日の家内の回復があります。

 今週、25回目の化学治療を、独協大学病院で終えました。入院中、4階の病室前で、医師が、『百合さんは、今晩が峠だから、注意して看護して!』と、看護士さんに小声で語る声を、家内は聞いてしまったのだそうです。ところが彼女は茫然自失したのではなく、言い知れない平安があったと言っています。〈死の受容〉の覚悟の中に、その平安があって今日まで続いています。

 先日、日記を読み返していた家内が、一昨年の春以降、体調が優れなかったのだと話してくれました。それに気付いて上げて、初期の対応ができたら、そんなに苦しまなくてもよかったのではと、私の不徳の致すことだったのではないかと、自分を責めてしまいました。家内の異常に気付いてくれたのが、私の講演の通訳をしてくださっていた師範大の先生と、家内を母の様に慕ってくれていたご婦人でした。この二人に、省立医院に担ぎ込まれて入院できたのです。

 7日の入院を終えて、日本での治療を、至急帰国して受ける様に、主治医に強く勧めらて、即刻搭乗券の手配を頼んだのです。慌ただしく退院して、その足で空港に行き搭乗手続きを始めましたら、空港の医師が、この体調では搭乗できないと、許可をしてくれなかったのです。1月8日、家に帰って、翌朝もう一度、空港に出かけ、再度医師の診察を受けました。別の医師の診察は、色々と友人たちが手配してくれたからでしょうか、搭乗許可が出て、その日の便で帰国ができたのです。もう1日遅れて病状が悪化し、発熱があったら、帰国できないギリギリの帰国でした。

 帰国後の生活について、友人が家をお貸しくださると言うことで、そのご好意で、そこに落ち着くことができたのです。それから始まった入院治療が、ほぼ2年になろうとしています。点滴薬が効いたのと、多くの友人、兄弟姉妹、4人の子どもたち、みなさんの愛が効いたのか、家内は回復途上にあります。

 昨日は、とてもお世話になった家具屋さんを、家内と一緒に歩いて訪ねました。昨年、台風19号で罹災したお店の改装がなって、開店準備中の激励のためでした。この店の社長さんのご好意で、高根沢におられる、彼の友人の事務所に、被災後に避難させていただいたのです。

 家内の退院後、洪水に被災したり、室の水道栓の漏れなど、いろいろとありましたが、色々と思い出して、感謝しながら、この2年あまりのことを、「自家製牛肉麺」の書き出しで、記してみました。また昔ながらの友人たち今では帰国しておいでの華南の街で出会った家内の友人のみなさん、遠くから支えて下さったみなさんに、その愛への感謝の思いで、家内も私も、心がいっぱいです。ありがとうございました。

(街を見下ろす森林公園の竹林の一部、長く住んだ家のベランダに咲いていたバラです)

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桐一葉

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 赤とんぼの飛ぶのを見たり、空気の匂いや色や温度を五感で感じたり、柿の実が紅く熟すのを見て、『アッ、秋だ!」と感じることができます。涼しくなって熟睡できるのも、秋を感じられる一つかも知れません。ところが、古代中国では、次の様に言ったそうです。

 落一葉而知秋

 前漢の武帝の頃のことです。淮南(わいなん)王の劉安(B.C 179 ~ B.C 122)が学者を集めました。その学者たちの進講を編纂させたのが「淮南子(えなんじ)」で、この中の「説山訓」に、次の様な文が載っています。

 『「一葉の落つるを見て、歳の将に暮れんとするを知る」とあるのに基づいて、落葉の早い青桐の葉の一葉(いちよう)が落ちるのを見て、秋の訪れを察するように、わずかな前兆を見て、その後に起こるであろう大事をいち早く察知することをいう。また、わずかな前兆から衰亡を予知するたとえとしても使う。』と、諺の解説がなされています。

 私たちの国では、「桐一葉落ちて天下の秋を知る」と言います。「桐」といえば、家に女の子が生まれると、両親は、桐の木を植えたのだと聞いたことがありました。大きくなって、お嫁入りの日に持たせたい道具の「箪笥」を、遥かに思う親心なのでしょう。桐が成長して、箪笥を作れるほどに大きくなる様に、親は、娘がお嫁入りし、幸せになって欲しいと願ってでした。
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 この桐ですが、下駄の材料に用いられていました。街を歩いても、もう誰も下駄を履いている人を見かけることがなくなりましたが、ここ栃木は、下駄の「日本三大産地」だったそうです、下駄は、今でも伝統工芸品になっています。室町の信号の向こう側に、下駄屋さんががあります。上等なものは、「桐作り」で、父が履いていたのは、この下駄でした。小学校の通学には、もっぱら下駄履きでした。駅前に下駄屋さんがあって、そこで緒を付けてもらって履き出しました。

 下駄業界も、桐の一葉が落ちるが如くに、斜陽の一途をたどっているそうです。この街を歩いても、桐の木も、桐下駄を履く人も見かけることは、まずありません。それならば、『桐下駄を履いて、例幣使街道を闊歩してみようかな!』と思ってはみるのですが、いまだにその勇気がありません。

(桐の花、栃木下駄です)

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孤独

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 孤独といえば、まず思い当たるのは、子どもの頃に、食い入るようにして読んだ、「ロビンソン漂流記」の主人公、ロビンソン・クルーソウの生活ぶりではないでしょうか。絶海の無人島に漂着して、たった一人で隔離、孤立、疎外を味わう、寂寥(せきりょう)を強いられた人ではないでしょうか。

 何だかハラハラして読んでいたのを覚えています。子どもの私は冒険物語として、孤島での生活に憧れて、海のない内陸の街で、林の中や、穴掘りをして、「基地」を作って遊んだのが楽しく思い出されます。ロビンソンは、28年も孤島で過ごしたのを知ったのは、大人になってからでした。

 作家のダニエル・デフォーが描いた孤島での生活を、経済学者のマックス・ウェーバーが、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で言及していました。このロビンソンは、その孤島で、生き抜いて行くことを決断します。それで、難破船の中に残された、たくさんの道具や資材を活用するのです。筏を組んでは、その必要な物を島に運んでは、上手に使って生活をして行きます。

 彼は、生活の基盤をしっかり作り上げていくのです。相応しい住環境を考え、家を作るのです。そして生活圏を定めて、土地の「囲い込み」をします。中学の歴史の授業で、「エンクロージャー」のことを学んだのです。イギリスで牧羊が盛んになって、羊毛工業が起こって行く時に、地主から借りた牧羊地を、柵を用いて囲い込んだのです。まさにそれは、「資本主義的農業」でした。

 ロビンソンは、その島で、ヤギを三頭捕まえるのですが、貴重な爆薬を無駄にしないようにして、鉄砲を使わずに、罠をかけて、落とし穴に落として、生け捕りにします。食べてしまえばおしまいですが、「エンクロージャー(囲い込み)」の中で、繁殖させ、必要に応じて食用にしたり、皮で様々な皮製品を作っていきます。つまり計画的、生産的にことを運んでいくのです。
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Robinson with his animals. Woodcut engraving from “Robinson Crusoe” the famous novel (1719) by Daniel Davoe (English writer, c. 1660 – 1731), published in 1881.

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 貴重な火薬は、樽ごと引火して爆発して失ってしまわないように工夫をします。そのために小袋を縫って作ったりもしました。その中に、濡れて使えなくならない様に、入れて保管するのです。それは、危険を分散させるのですが、これこそが「保険」の発想でした。不安を解消するために、当時、「保険」が経営上必要なこととして、イギリス国内では認められ、広められていきました。

 また、船から運んできた袋から、偶然に土の中に落ちた麦や米が、芽を出し、実をつけたのです。『6月の下旬頃であったが、実りの季節がきたとき、私がその大麦の穂をていねいにつんだことはいうまでもない。1粒1粒大切にしまっておいたのも、もう一度それを全部まいて、パンを作るのに充分な収穫をやがてはあげたいと願ったからだった。』とロビンソンは言っています。それを収穫して保存した麦を、次の種蒔きの時期に、畑に蒔いて、より多くの小麦を収穫して行くのです。

 それはイングランドのヨークシャーの中産階級が抬頭していく様子を表しているように描かれているのです。行き当たりばったりの不安定な生活ではなく、実に計画的に生活がなされていきます。ロビンソンは、そういった生活のために、残された資材や道具を上手に活用して行くのです。

 ロビンソンは、「時間」も管理していきます。孤島に上陸した。1659年9月30日の上陸日に、上陸地点に、一本の四角に削った柱を立てます。あおの柱に、一日一日をナイフで刻んでいくのです。日曜日毎には、刻みの長さを倍にし、月の第一日には、さらに倍の長さにして刻んだのです。日、週、月をはっきり記録し管理したのです。365日が経った時、彼は、その日を特別な日して記念します。断食し、礼拝までしています。敬虔な信仰者の生き方をするのです。

 内村鑑三の弟子で、マックス・ウェーバー経済の学者であった大塚久雄も、「近代化の人間的基礎」の著の中で、『ロビンソン・クルーソウの孤島での生活ぶりは、まさしく、当時のイングランドの初期産業ブルジョアジー(小ブルジョア層)のそれにほかならかったと私には思われる。』と言っています。こういった生活を28年間の長きに亘って、彼がすることができたのには、驚かされたわけです。さらに彼の生活の基軸に、聖書朗読や祈りや礼拝があったのです。ですから冒険談だけではなく、創意工夫にあふれた堅実な生き方のモデルがありそうです。

 若かった日の、ロビンソンの〈一か八か〉の投機的な荒稼ぎの生き方から、父が教え諭し、訓戒していた《中産階級的な生き方》に、孤島で戻って行く物語なのです。生き生きとして、ロビンソンが生きている姿は魅力的です。合理的であるのが素晴らしいのです。現状が打開されて行くために、孤独を跳ね返して生きて行くたくましさも感じられます。

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モンタナ

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 100年ほど前のアメリカのカントリーサイドにある、小さな街の家族を描いた映画を観た私は、大変大きな感動を呼び起こされたのです。きっと、自分の原風景と似たものが、そこに映し出されていたからなのだと思われます。映画の題名は、” A River Runs Through It “ でした。1993年に、日本で公開されたものです。” wikipedia “ に、次の様にあらすじがあります。

 『舞台は1910 – 1920年代のアメリカ合衆国モンタナ州ミズーラ。第30代大統領クーリッジ(在位1923年~1929年)、T型フォード全盛の時代である。スコットランド出身で厳格な父のマクリーン牧師、真面目で秀才の兄ノーマン、陽気な弟ポール。三人に共通する趣味はフライ・フィッシングだった。ノーマンはやがてマサチューセッツ州ダートマスの大学に進学して街を離れる。ポールはモンタナ州の州都ヘレナで新聞記者をしつつ、ポーカー賭博にのめり込んでいた。
大学を出て街に戻ってきたノーマンは独立記念日にジェシーと知り合い、二人は付き合うようになる。やがてノーマンにシカゴ大学から英文学の教員の採用通知が届き、ノーマンはジェシーに求婚する。ノーマンが就職のためにシカゴに向かう直前、ノーマンとポールは父親とともにブラックフット川に釣りに出かけ、ポールは大物を釣り上げる。だが翌朝、警察から連絡があり、ポールが何者かに殺されたことをノーマンは知らされる。』

 お父さんは、厳格なピューリタン系の牧師、すべてを包み込んでしまう様な優しいお母さん、この両親の間に男の子二人の兄弟の家族が登場します。兄のノーマンが回想して著した、小説の映画化なのです。彼と弟の「ふるさと」での少年期から青年期に至る情景が描かれています。性格や願いの違う兄弟が、それぞれに成長して、自分の道を生きて行くのです。
 
 お父さんの唯一の趣味が、フライ・フィッシングで、息子たちに釣りの手ほどきをお父さんがし、三人一緒に、ミズーラの川に出かけるのです。成長と共に、お父さんを凌ぐ腕前になった弟のポール、それを暖かく見守るお父さんの優しい目が印象的でした。家では、お母さんが作る質素な食事の食卓を囲んで、食事の感謝の祈りがなされる、典型的な百年前のアメリカの家庭風景が見られます。

 アメリカ人起業家の恩師が、ご自分の母国で育った家庭での話を聞いたことがありますが、そんな背景があって、大変、この映画に感銘を受けたのかも知れません。恩師は、裕福な家庭で育った方でした。大学から帰省すると、お父さんが、地下にある冷蔵庫に吊り下げられている牛の一番良い部位を、ステーキにして焼いて食べさせてくれたのだそうです。

 そんなことで、この家族が過ごしたモンタナに行って見たくなった私は、当時、娘たちが学んでいた、アメリカ西海岸の街のオレゴン州に出かけた折に、二人を誘って自動車旅行に出かけたのです。ワシントン州、アイダホ州、モンタナ州、ワイオミング州と一週間ほどでした。ロッキー山脈を越えて、結構長い距離を、娘たちが運転してくれました。

 都会には、さほど興味がないのですが、アメリカのほとんどの部分は、小さな街で、そこで堅実な生活を、みなさんがして、アメリカを支えているのが、よく分かったのです。ある街で、レストランに入り食事を注文しました。ウエイトレスが運んできたスープがぬるかったのです。娘たちは、言い訳する彼女に、はっきり交換を要求していました。しっかり自己主張をしながら、異国に文化圏で生きているのを知って、安心したのを覚えています。

 もちろん、映画に描かれたモンタナは、時代の違いこそあれ、映画の描いた当時の息吹を感じられるほどで、満足でした。アメリカ中にある風景、いえ全世界で見られる田舎の風景だったのです。ある街の人気のない公園で、スーパーで買った燭台で、バーベキュウをしたのですが、火を心配したパトカーがやって来たりしても、娘たちは上手に対応していたのに感心しました。

 繁栄の国の屋台骨を見て回った一週間でしたが、清教徒の願いから建国された国で、娘たちも、息子たちもある時期、教育を受け、生活をしたことへの感謝も湧き上がった時でもありました。義母は終戦後に、母は少女期に、この国やカナダからやって来た人たちと、出会って、人生の祝福に預かっているのです。その国の大統領選挙が迫っています。相応しい最善の器が選ばれ、娘や孫たちの暮らす国が、再び輝きます様に!

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何を残すか

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 1880年(明治13年)に、日本で"YMCA"が、東京で始まめられています。1894年夏、箱根で、全国から数多くの学生が参加して、このYMCA主催の「第六期夏期学校」が開催されました。この時の講師が内村鑑三でした。この講演の初めに、内村は、頼山陽の詩を紹介しています。

 十有三春秋
 逝者已如水
 天地無始終
 人生有生死
 安得類古人
 千載列青史

 これは、山陽が13歳の時に詠んだものです。その意味は、『自分が生まれてから、すでに十三回の春と秋を過ごしてきた。水の流れと同様、時の流れは元へは戻らない。天地には始めも終わりもないが、人間は生まれたら必ず死ぬ時が来る。なんとしてでも昔の偉人のように、千年後の歴史に名をつらねたいものだ。』でした。

 13歳とは中学一年生でしょうか。死を語り、千年後に名を残したいとの願いを、山陽が持つていたのには、驚かされます。箱根の高嶺で、頼山陽の詩を聞き、33歳の内村の講話を聞いたのは、主に十代の青年たちだった様です。内村は、若い日に、「千載青史に名を列したい願望」を抱いていたのですが、16歳の折、札幌農学校に学ぶ中で、違った価値観や人生観や世界観と出会って、変わってしまいました。いったい、明治の青年たちに、内村は何を語ったのでしょうか。

 第一に取り上げたのは、《後世へわれわれの遺すもののなかにまず第一番に大切のものがある。何であるかというと金です。われわれが死ぬときに遺産金を社会に遺して逝く、己の子供に遺して逝くばかりでなく、社会に遺して逝くということです、』と言って、《金を残せ》と言ったのです。

 ピポディーと言う人を取り上げて、『そのピーボディーは彼の一生涯を何に費したかというと、何百万ドルという高は知っておりませぬけれども、金を溜めて、ことに黒人の教育のために使った。今日アメリカにおります黒人がたぶん日本人と同じくらいの社交的程度に達しておりますのは何であるかというに、それはピーボディーのごとき慈善家の金の結果であるといわなければなりません。』
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 話を、次の様に続けています。アメリカでの留学体験から、『私は金のためにはアメリカ人はたいへん弱い、アメリカ人は金のためにはだいぶ侵害されたる民であるということも知っております、けれどもアメリカ人のなかに金持ちがありまして、彼らが清き目的をもって金を溜めそれを清きことのために用うるということは、アメリカの今日の盛大をいたした大原因であるということだけは私もわかって帰ってきました。』と言っています。正しく、清い目的にために、お金は残すべきです。

 誰でもがお金を残せないので、では何を残したらいいのか、第二には、『それで私が金よりもよい遺物は何であるかと考えて見ますと、事業です。事業とは、すなわち金を使うことです。金は労力を代表するものでありますから、労力を使ってこれを事業に変じ、事業を遺して逝くことができる。』と言って、《事業を残せ》と言ったのです。

 それで彼はアフリカで探検をした人物を例に引いています。『私はデビッド・リビングストンのような事業をしたいと思います。この人はスコットランドのグラスゴーの機屋の子でありまして、若いときからして公共事業に非常に注意しました。「どこかに私は」……デビッド・リビングストンの考えまするに……「どこかに私は一事業を起してみたい」という考えで、始めは支那に往きたいという考えでありまして、その望みをもって英国の伝道会社に訴えてみたところが、支那に遣る必要がないといって許されなかった。ついにアフリカにはいって、三十七年間己れの生命をアフリカのために差し出し、始めのうちはおもに伝道をしておりました。けれども彼は考えました、アフリカを永遠に救うには今日は伝道ではいけない。すなわちアフリカの内地を探検して、その地理を明かにしこれに貿易を開いて勢力を与えねばいけぬ、ソウすれば伝道は商売の結果としてかならず来るに相違ない。そこで彼は伝道を止めまして探検家になったのでございます。彼はアフリカを三度縦横に横ぎり、わからなかった湖水もわかり、今までわからなかった河の方向も定められ、それがために種々の大事業も起ってきた。しかしながらリビングストンの事業はそれで終らない、スタンレーの探検となり、ペーテルスの探検となり、チャンバーレンの探検となり、今日のいわゆるアフリカ問題にして一つとしてリビングストンの事業に原因せぬものはないのでございます。コンゴ自由国、すなわち欧米九ヵ国が同盟しまして、プロテスタント主義の自由国をアフリカの中心に立つるにいたったのも、やはりリビングストンの手によったものといわなければなりませぬ。』、正しい目的を持って、《事業》を起こし、残すことです。

 お金も事業も、誰でも残せるものではありません。それで第三について続けて語っています。『それでもし私に金を溜めることができず、また社会は私の事業をすることを許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持っています。何であるかというと、私の思想です。もしこの世の中において私が私の考えを実行することができなければ、私はこれを実行する精神を筆と墨とをもって紙の上に遺すことができる。あるいはそうでなくとも、それに似たような事業がございます。すなわち私がこの世の中に生きているあいだに、事業をなすことができなければ、私は青年を薫陶して私の思想を若い人に注いで、そうしてその人をして私の事業をなさしめることができる。すなわちこれを短くいいますれば、著述をするということと学生を教えるということであります。』と言って、《思想を残せ》と言います。

 内村鑑三の弟子、孫弟子に教育者が多くいます。例えば矢内原忠雄、南原繁、松前重義(東海大学)、森戸辰男(広島大学)、天野貞祐(独協大学)、斎藤宗次郎(小学校教師)などがおいでです。人を、一生涯にわたって薫陶すると言うのは、驚くべき影響力です。日本の社会の中で、「良心」を堅持した人の中に、内村や、その朋友の新渡戸稲造の感化を受けて、文学者、社会改良家、医師、慈善家など、「地の塩」となって、名こそ残さなかったのですが、人々を薫陶し、よく導いた人は、数え切れないほどおいでです。

 それでは、お金も事業も、そして思想も残せないなら、どうしたらいいのでしょうか。この三つを内村鑑三は、「最大遺物」とは言いませんでした。それでは何かを、彼は続けるのです。『しかしながら日本人お互いに今要するものは何であるか。本が足りないのでしょうか、金がないのでしょうか、あるいは事業が不足なのでありましょうか。それらのことの不足はもとよりないことはない。けれども、私が考えてみると、今日第一の欠乏は Life、ライフ、生命の欠乏であります。』と言います。クロムエル、トーマス・カーライル、二宮金次郎、メリー・ライオン、徳川家康などの人を語りつつ、次の様に話しています。

 『それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。』、誰もが残すことができるものは、《勇ましい高尚な生涯》だと言い終えています。

『われわれが何か遺しておって、今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、しかしそれよりもいっそう良いのは後世のために私は弱いものを助けてやった、後世のために私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた、後世のために私はこれだけの品性を修練してみた、後世のために私はこれだけの義侠心を実行してみた、後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、という話を持ってふたたびここに集まりたいと考えます。この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯は決して五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水の辺りに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌き枝を生じてゆくものであると思います(中略)・・・われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。(拍手喝采)』(引用は青空文庫の「後世への最大遺物」です)

(内村鑑三、1890年代に箱根の田舎道です)

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願い

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 今朝は、7℃の気温で、今秋一の寒さです。6時前、太陽が輝き昇って、街を温め始めてきました。夏の終わり頃から、美味しい果物に恵まれています。まさに味覚の秋、食欲の秋、灯火親したしむ候、芸術の秋、なによりも収穫の秋の到来です。

 農夫のみなさんは、地を耕し、種を蒔き、水をやり、消毒をし、肥料を与えて、まるで子を育てるように見守り、勤しみながら、この時節を迎えています。リンゴやおでんや鍋が美味しくなりました。ちょっと物思いに沈みながら、来し方に思い巡らす季節かも知れません。

 今朝も、感謝と期待とを持って目覚めました。間も無く11月を迎え、アメリカでは大統領選挙が行われます。《地に平和》、《人に赦しと愛》を願う朝です。

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仕事

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 日本新聞協会が募集した「新聞配達に関するエッセーコンテスト」で、先頃〈審査員特別賞〉を受賞した、廣瀬絢菜(あやな/長崎海星高2年)さんの記事が掲載されていました。

 『私には亡くなった祖母との思い出がたくさんある。その中でも、新聞配達の思い出が一番印象に残っている。
 私の祖母は昔から新聞配達をしていて、近所の人達からも慕われていて、多くの人は私の祖母が新聞配達をしていることを知っていた。大みそかの夜は、配達する新聞の量が多くなるので、毎年私たち家族も手伝っていた。私は小さかったので母と祖母と一緒にいて、兄たちと二組に分かれて配っていた。多くの人は寝ていたが、祖母と話をするために起きて待っている人もいた。しかし、祖母が体調を崩して配達を他の人に代わってもらうことがあった。その翌日、たくさんの人が祖母のことを心配して家を訪ねてきた。
 そのとき、母が私に「たくさんの人が困っているときに助けるから、みんなからも優しくしてもらえるんだよ」と言った。そのときに、私は優しくて、みんなから頼られ親しまれている祖母のようになりたいと思った。』

 こんな《新聞おばあちゃん》を持つ孫は、「仕事」とか「労働」と言うものの意味をしっかり学んでいることでしょう。1965年に、作詞が八反ふじを、作曲が島津伸男で、山田太郎が歌った「新聞少年」がありました。

僕のアダナを 知ってるかい
朝刊太郎と 云うんだぜ
新聞くばって もう三月
雨や嵐にゃ 慣れたけど
やっぱり夜明けは 眠たいなア

今朝も出がけに 母さんが
苦労をかけると 泣いたっけ
病気でやつれた 横顔を
思い出すたび この胸に
小ちゃな闘志を 燃やすんだ

たとえ父さん いなくても
ひがみはしないさ 負けないさ
新聞配達 つらいけど
きっといつかは この腕で
つかんでみせるよ でかい夢

 小学生の私を職場に連れて行ってくれた父がいて、そこで《仕事》をしていて、自分たち家族を養っていてくれていることを知ることができたのは、よかったと思い出します。自分が仕事を得て、一社会人として生き始めた時には、その出来事は、意味のあるものでした。

 中学生だった息子たちが配達できなくて、新聞の朝刊を、しばらく配っていた時期が、私にもあります。5階建ての集合住宅の階段の上り下りは、まだ若かったのですが、けっこうキツかったのを思い出します。学習塾に行きたくて、新聞を配達をしたのですが、県立高校や大学受験名門の私立高校には行かないで、友人が受け入れてくれると言って、ハワイの学校に行った長男でした。次男も、新聞少年を経験し、それぞれよい経験になっています。

 娘たちもスーパーマーケットの会計の仕事を、夏季や冬季の休みにしていました。新しい店ができると、開店セールに動員されて、店長に重用されていたのです。労働の対価としてのお金が、どんなに尊いかが学べるのは、実に有益に違いありません。

 私の愛読書に、『また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。 』とあります。《勤勉》であることは、働く者の心を満足させてくれるのです。新聞配達をした朝には、清新な空気がありました。《落ち着いた生活》ができることは、一つに生活の美点でしょうか。

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試される

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 家の窓から、巴波川の流れを越えた向こう岸で、旧旅館を解体した跡地に、総二階の四世帯の集合住宅が建設中です。大家さんが住み、他の部屋を賃貸されると、犬を散歩してるご婦人から、散歩中に、家内が情報を得てきています。

 4階建ての旅館の解体ぶりを、しばらく眺めていて、ずいぶん頑強に作られていたのが、分かりました。鉄筋の4階建てで、それを砕き落とす作業は、大変そうでした。ことの外、土台の作業は難儀していたのです。周りに住宅が無ければ、爆薬で作業ができるのでしょうけど、一階一階と解体してからの土台の作業に、ずいぶん時間を要していました。

 その更地になった敷地に、パイルを打ち込んで、その上にコンクリートの土台を作った、「木造建築」が立ち上がったのです。最近は、この木造りの家が人気なのだそうです。〈新しさ〉を売らないと売れないから、猛烈なキャンペーンを建築業界が仕掛けるのでしょう。顧客は、『やはり日本の建物は木に限ります!』に郷愁を感じて、『では!』と言うことになるわけです。

 ブームは、繰り返される、しかも意図的に繰り返させられるのでしょう。『夏は涼しく、冬は暖かいです!』、『子どもが落ち着きます!』などと利点を売り込むわけです。本社の作業所で、各部位が作られて、それが運ばれ、現場では、クレーンで吊り上げられ、組み立てるだけです。
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 中学の修学旅行で、法隆寺に行った時、その想像を絶した大きさに驚かされたのを覚えています。仏像の大きさには驚かなかったのですが、それを入れる器としての建物の大きさに度肝を抜かれたのです。そんなに大きな物は、それまで見たことがなかったからです。これを作ったのが、それ外国人の木工だったと知ったのは、大人になってからでした。朝鮮半島の百済の国の工匠の一人が、金剛氏でした。彼らの建てた建物が、千数百年経った今も、この人を祖として、会社と共に現存するのです。

 近代的な道具のない時代、あれだけの大きな物を建て上げ、しかも狂いのない、耐朽性のある堅牢な建物を作り上げたのは、驚きです。しかも木造で、そこまでするのは、凄いことです。それに引き換え、現代では、木材も、輸入材が多いのでしょうか。カナダ産の木材を輸入して、それを、“ 2 by 4“ で建てるのが流行していたことがありました。

 トンネルを出て、坂道の曲がり角で、外国人が大きな看板を出して、営業していました。どうも日本の業界に食い込むことができなかったのでしょうか、しばらくして廃業したのか、社屋と作業場が、もぬけの殻になっていました。

 すべて人が作った物は、「試される」のです。地震や風雨や火焔によって、どれだけ持ち堪えられるかが、事後に明白になります。人も、試されるのです。ユダヤの諺に、『銀にはるつぼ、金には炉があるように、人は他人の称賛によって試される。』とあります。褒められるよりも、けなされている方が、人には良いのかも知れません。人の真価は、褒められた時に表されるからです。試されて残っているのには、なおさらの驚きです。

(昔からある大工道具の「釿〈ちょうな〉」、百済人の絵です)

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良心

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 『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。 』、ユダヤの知恵の書の中に、こうあります。

 江戸時代の末期、1843年に、上州は安中藩の江戸屋敷で、下級武士の子として、新島七五三太(蘘)が誕生しました。蘭学修行を、藩主に命じられた三人の若者の一人として、満十四歳まで学んでいました。その学びの中で航海術に関心を持った、この新島襄は、密出国の願いを持ち、蝦夷の箱館(函館)で、その機会を待っていました。

 1864年、米国籍の船に、船長の好意で乗船し、上海で別の船に乗り替えて、この新島はアメリカに行きます。アマースト大学などで、高等教育を受けます。朱子や孔子から学ぶといった教育事情が、当時の実情でしたが、新島が、蘭学に触れたことが、西洋社会への憧れを生んだのでしょう。それが成就して、1874年には帰朝しています。宣教師の資格を得て、その働きをしつつ、京都で、私学教育を開始します。そこで創設したのが、「同志社英学校」でした。

 現在、京都にある同志社大学の正門に、「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」と刻まれた石碑があります。新島が教育をしたのは、一つには、「良心の充満した青年」の育成だったことの証左です。アメリカでの生活と、受けた教育、触れた文化や思想の中で、彼が、日本社会の中で実現しようと願ったのは、「文明国」の建設でした。

 明治維新政府は、「富国強兵」を目指して、経済的に富むことと、軍事的な強国を作ろうとしたのですが、新島は、「使命感」、「人格(character)」、「良心」をしっかり持つ若者を育成することを掲げました。独立した、「自由」と「良心」に裏打ちされた個人をもって、新しい日本を作ろうとしたのです。

 十七歳の時、この同志社に行きたいと願った日が、私にはありました。親しい友人と、『一緒に京都に行って学ぼう!』と促し合ったのですが、それぞれの事情で、その夢は叶えられずに、在京の学校に行ってしまったのです。この新島襄に、次の様な逸話が残されています。  

 『一八八〇年四月の初めごろ、同志社英学校では、学校当局の取った措置に不満を抱いた九人の生徒が学校に抗議したが、その趣旨が受け入れられなかったため、集団欠席するに至った。当時の学校の規則では、集団欠席した者は処罰されることになっていた。

 しかし彼らの集団欠席の原因となった学校側の措置にも落ち度があった。新島校長はこの問題で深く心を痛め、四月十三日、朝のチャペルの時間に、全校の生徒と教員の前でこの問題に触れ、自分は生徒諸君を責めるわけにはいかない、それにまたその措置を決めた幹事たち(前年卒業したばかりの、三人の若手の教員)を責めるわけにもいかない、しかし校則は守らねばならない、ゆえに校長自身を処罰します、と宣言して、用意した固い木の小枝で、自分の左の掌を力いっぱい打ち始めた。むちは折れ、掌に血がにじみ出た。

 あまりの気魄に圧倒されてすすり泣く生徒もあった。ついに前列にいた生徒が飛び出して行って校長にしがみつき、「止めてください」と叫んで懇願した。校長はなおも打ち続けようとしたが、ついに折れ、「諸君は同志社の規則の重んずべきは御解りになりましたか、又今回の事件に就き、再び評論をしないと約束なさるなら止めます」(本井康博『新島襄と徳富蘇峰』、二十五頁)と言って、チャペルの時間を終わった。 』

 これは、「自責の杖」と言う話で、三十七歳の新島の気迫や愛が伝わってきます。この逸話には、複雑な背景があって、これだけの話ではまとまらないそうです。しかし、新島襄の心の思いは理解できそうです。明治の世に、この様な人がいたのです。「一国の良心ともいうべき人物を養成する」と言うのが、新島襄が切に願ったことでした。

(「上毛かるた」の「に」の札です)

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ニコニコ

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 先週、高校や中学の課外の部活についての提言を、ラジオで聞きました。もう60年も前の部活の経験で、この議論に関わるには、時代錯誤の感もないではありませんが、部活をしてきた自分としては、こんなことを思うのです。

 先輩たちは、インター・ハイや国体の優勝の栄誉を得た名門の学年でした。近隣の中学の有望選手を勧誘するような時代ではありませんでしたから、併設の中学の進学組と、都立受験を失敗した入学組との混成の学校でした。何か運動がしたくて、運動部に入りたくても、厳しい練習をするので敬遠がられていました。私たちの上の学年は、粒が揃わず、私たちの学年も、それに似た様で、それでも、東京都では、一点差で準優勝してますが、全国大会には出られませんでした。

 私は、センターフォワードでしたが、2年時に、母が、交通事故にあって、大怪我をしてしまい、一年弱入院生活を強いられました。当時、兄たちは家を出ていて、家のことを父と分業しなければならず、やむなく家庭の事情で休部してしまったのです。それも、都大会で勝てなかった一つに理由だったかも知れません。秋の練習は、薄暮の夕闇の中、ボールに石灰を塗ってやるほどでした。冬場は、ランニングやうさぎ跳びでした。

 60年前の名門の誉れを得ていた運動部でした。部活の日数や時間数など、なんの考慮もなされず、ひたすら練習に明け暮れました。優秀な先輩たちは、一部リーグの名門大学に推薦で入って、活躍していましたが、当時はプロのない運動部でしたし、メジャーなスポーツでもなかったのですが、隣で練習する野球部より、実績があって肩身は広かったのです。
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 オリンピックでも、どんなスポーツでも、今はビジネスです。大金がかかっていて、それが激しく動くのですから、政治や行政でさえも動かすほどの勢いがあります。強くて、勝つための手段は、有能選手を集め、練習を積み重ね、スキルを上げるのです。今でも第一は、有望な選手の獲得です。野球などでは、何百億もの収入を得た選手がいますから、みなさん、取り巻きも目の色を変えて、このビジネスに没入しておられるのでしょう。

 スポーツマンシップよりも、ビジネスに偏りすぎています。野球選手、テニス選手、バスケット選手など、アメリカでは天文学的な数字のお金の世界になってしまっています。そんなアメリカで、私の孫が、カントリーサイドの街で、スポーツを楽しんでいます。今のコロナ禍で、ご多分に漏れず、以前の様な勢いはありませんが、それでも、サッカー、バスケット、ゴルフ、野球などのシーズンスポーツを、大いに楽しんでしています。プロになろうという思いなどない様です。

 〈スポ少〉で活躍した彼の母親の方が、熱くなっているでしょうか。もう一度、私が十代に戻れたら、ニコニコとボールを追いかけて、投げてみたいものです。ただ一つの自慢は、高校時代、早大で野球をした同級生のいた硬式野球部で、キャッチャーをしていた男の次に、遠投距離の記録があったことなのです。これまで勝ち負けを競わない、〈硬式テニス〉を、今頃の季節の清里のテニスコートで、おじさん仲間と、ニコニコしながらしたのが、一番楽しかったでしょうか。テニスコート脇で食べた、秋の果物が美味しかったのもありそうです。

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