何を残すか

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 1880年(明治13年)に、日本で"YMCA"が、東京で始まめられています。1894年夏、箱根で、全国から数多くの学生が参加して、このYMCA主催の「第六期夏期学校」が開催されました。この時の講師が内村鑑三でした。この講演の初めに、内村は、頼山陽の詩を紹介しています。

 十有三春秋
 逝者已如水
 天地無始終
 人生有生死
 安得類古人
 千載列青史

 これは、山陽が13歳の時に詠んだものです。その意味は、『自分が生まれてから、すでに十三回の春と秋を過ごしてきた。水の流れと同様、時の流れは元へは戻らない。天地には始めも終わりもないが、人間は生まれたら必ず死ぬ時が来る。なんとしてでも昔の偉人のように、千年後の歴史に名をつらねたいものだ。』でした。

 13歳とは中学一年生でしょうか。死を語り、千年後に名を残したいとの願いを、山陽が持つていたのには、驚かされます。箱根の高嶺で、頼山陽の詩を聞き、33歳の内村の講話を聞いたのは、主に十代の青年たちだった様です。内村は、若い日に、「千載青史に名を列したい願望」を抱いていたのですが、16歳の折、札幌農学校に学ぶ中で、違った価値観や人生観や世界観と出会って、変わってしまいました。いったい、明治の青年たちに、内村は何を語ったのでしょうか。

 第一に取り上げたのは、《後世へわれわれの遺すもののなかにまず第一番に大切のものがある。何であるかというと金です。われわれが死ぬときに遺産金を社会に遺して逝く、己の子供に遺して逝くばかりでなく、社会に遺して逝くということです、』と言って、《金を残せ》と言ったのです。

 ピポディーと言う人を取り上げて、『そのピーボディーは彼の一生涯を何に費したかというと、何百万ドルという高は知っておりませぬけれども、金を溜めて、ことに黒人の教育のために使った。今日アメリカにおります黒人がたぶん日本人と同じくらいの社交的程度に達しておりますのは何であるかというに、それはピーボディーのごとき慈善家の金の結果であるといわなければなりません。』
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 話を、次の様に続けています。アメリカでの留学体験から、『私は金のためにはアメリカ人はたいへん弱い、アメリカ人は金のためにはだいぶ侵害されたる民であるということも知っております、けれどもアメリカ人のなかに金持ちがありまして、彼らが清き目的をもって金を溜めそれを清きことのために用うるということは、アメリカの今日の盛大をいたした大原因であるということだけは私もわかって帰ってきました。』と言っています。正しく、清い目的にために、お金は残すべきです。

 誰でもがお金を残せないので、では何を残したらいいのか、第二には、『それで私が金よりもよい遺物は何であるかと考えて見ますと、事業です。事業とは、すなわち金を使うことです。金は労力を代表するものでありますから、労力を使ってこれを事業に変じ、事業を遺して逝くことができる。』と言って、《事業を残せ》と言ったのです。

 それで彼はアフリカで探検をした人物を例に引いています。『私はデビッド・リビングストンのような事業をしたいと思います。この人はスコットランドのグラスゴーの機屋の子でありまして、若いときからして公共事業に非常に注意しました。「どこかに私は」……デビッド・リビングストンの考えまするに……「どこかに私は一事業を起してみたい」という考えで、始めは支那に往きたいという考えでありまして、その望みをもって英国の伝道会社に訴えてみたところが、支那に遣る必要がないといって許されなかった。ついにアフリカにはいって、三十七年間己れの生命をアフリカのために差し出し、始めのうちはおもに伝道をしておりました。けれども彼は考えました、アフリカを永遠に救うには今日は伝道ではいけない。すなわちアフリカの内地を探検して、その地理を明かにしこれに貿易を開いて勢力を与えねばいけぬ、ソウすれば伝道は商売の結果としてかならず来るに相違ない。そこで彼は伝道を止めまして探検家になったのでございます。彼はアフリカを三度縦横に横ぎり、わからなかった湖水もわかり、今までわからなかった河の方向も定められ、それがために種々の大事業も起ってきた。しかしながらリビングストンの事業はそれで終らない、スタンレーの探検となり、ペーテルスの探検となり、チャンバーレンの探検となり、今日のいわゆるアフリカ問題にして一つとしてリビングストンの事業に原因せぬものはないのでございます。コンゴ自由国、すなわち欧米九ヵ国が同盟しまして、プロテスタント主義の自由国をアフリカの中心に立つるにいたったのも、やはりリビングストンの手によったものといわなければなりませぬ。』、正しい目的を持って、《事業》を起こし、残すことです。

 お金も事業も、誰でも残せるものではありません。それで第三について続けて語っています。『それでもし私に金を溜めることができず、また社会は私の事業をすることを許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持っています。何であるかというと、私の思想です。もしこの世の中において私が私の考えを実行することができなければ、私はこれを実行する精神を筆と墨とをもって紙の上に遺すことができる。あるいはそうでなくとも、それに似たような事業がございます。すなわち私がこの世の中に生きているあいだに、事業をなすことができなければ、私は青年を薫陶して私の思想を若い人に注いで、そうしてその人をして私の事業をなさしめることができる。すなわちこれを短くいいますれば、著述をするということと学生を教えるということであります。』と言って、《思想を残せ》と言います。

 内村鑑三の弟子、孫弟子に教育者が多くいます。例えば矢内原忠雄、南原繁、松前重義(東海大学)、森戸辰男(広島大学)、天野貞祐(独協大学)、斎藤宗次郎(小学校教師)などがおいでです。人を、一生涯にわたって薫陶すると言うのは、驚くべき影響力です。日本の社会の中で、「良心」を堅持した人の中に、内村や、その朋友の新渡戸稲造の感化を受けて、文学者、社会改良家、医師、慈善家など、「地の塩」となって、名こそ残さなかったのですが、人々を薫陶し、よく導いた人は、数え切れないほどおいでです。

 それでは、お金も事業も、そして思想も残せないなら、どうしたらいいのでしょうか。この三つを内村鑑三は、「最大遺物」とは言いませんでした。それでは何かを、彼は続けるのです。『しかしながら日本人お互いに今要するものは何であるか。本が足りないのでしょうか、金がないのでしょうか、あるいは事業が不足なのでありましょうか。それらのことの不足はもとよりないことはない。けれども、私が考えてみると、今日第一の欠乏は Life、ライフ、生命の欠乏であります。』と言います。クロムエル、トーマス・カーライル、二宮金次郎、メリー・ライオン、徳川家康などの人を語りつつ、次の様に話しています。

 『それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。』、誰もが残すことができるものは、《勇ましい高尚な生涯》だと言い終えています。

『われわれが何か遺しておって、今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、しかしそれよりもいっそう良いのは後世のために私は弱いものを助けてやった、後世のために私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた、後世のために私はこれだけの品性を修練してみた、後世のために私はこれだけの義侠心を実行してみた、後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、という話を持ってふたたびここに集まりたいと考えます。この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯は決して五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水の辺りに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌き枝を生じてゆくものであると思います(中略)・・・われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。(拍手喝采)』(引用は青空文庫の「後世への最大遺物」です)

(内村鑑三、1890年代に箱根の田舎道です)

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