銀漢

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   「中秋月」  蘇軾

暮雲収盡溢清寒
銀漢無聲轉玉盤
此生此夜不長好
明月明年何處看

「日本語の読み]
暮雲収め尽くして清寒溢れ
銀漢声無く玉盤を転ず
此の生、此の夜、長くは好からず
明月、明年、何れの処にて看ん

[意訳]
日暮れ方、雲がなくなり、さわやかな涼気が満ち、
銀河には玉の盆のような明月が香もなくのぼる。
この楽しい人生、この楽しい夜も永久に続くわけではない。
この明月を、来年はどこで眺めることだろう。

 この詩は、中国宋代の詩人、蘇軾の作です。この人は、蘇東坡とも呼ばれていて、「唐宋八大家」の一人に数えられています。22歳で弟の蘇轍と共に「科挙(官僚登用試験/日本の国家公務員試験に似ていますが、蘇軾の時は、3人だけの合格でした)」に合格したほど優秀でした。

 国政の混乱の中、二度も左遷させられる様な憂き目にあった人でもありました。そんな事態を生き抜くことができる、天性の楽天的なものの考え方のできた人だったそうです。だから、後代に、詩を多く残せたのでしょう。

 「天の川」を、銀河というのは知っていましたが、「銀漢」と呼ぶのを知ったのは、葉室麟が書き表した、「風の峠〜銀漢の賦〜」を読んだ時でした。地の上のやかましい人の声とは真反対に、中秋の名月も天空に広がる銀漢も、語りかける声もなく煌いているだけなのです。

 そんな静けさの中に、蘇軾は生きていたかったのかも知れません。現代人だって、やかましい人の声を避け、思いの内に湧き上がってくる邪念を打ち払って、明鏡止水の心境に入りたいのかも知れません。秋の夜長は、そんな願いが一番相応しそうです。

 とは言うものの「食欲の秋」でもあります。美味しい「月餅」を、友人が華南の街から持ち帰って来てくださると約束して、帰って行かれました。手広くパン店を経営して、この時節の「月餅」の製造販売が、会社経営の大きな事業時期なのです。人に任した事業のテコ入れに戻って、辣腕を奮って、月餅の製造に拍車をかけたことでしょう。間もなくお仕事を終えて、日本に戻って来られるでしょう。その時、きっと銘菓をいただける、そんな楽しみが待っていそうです。

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今季最終

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 五月に種を蒔いて、プランターに苗を植えて、今朝、一輪の朝顔が咲きました。6ヶ月にわたる生育と開花を楽しんできたことになります。10月1日、多分、最終の朝顔かと思われます。毎年毎年、小学生がする様に、植物実験を繰り返して来ています。華南の街では、バス通りに面した7階のベランダで咲いていました。

 色とりどりの花を、朝ごとに咲かせて、楽しませてくれたことに感謝でいっぱいです。この月曜日に、家内と長男とで、獨協医科大学病院に出掛け、4週ごとの診察を受けてきました。経過は良好でした。服用しています薬も、徐々に少なくなって来ています。みなさんの応援のおかげです。ありがとうございます。

 図書館に出かけたり、買い物に行ったり、人を訪ねたりして、日を過ごしています。前回の血液検査で、腫瘍マーカーの数値が大きく上がっていましたが、今回の検査で、元の低さに戻っていました。子どもたちも一喜一憂していますが、感謝な日々を過ごしています。

 先週は、家内の発案で、炊事洗濯などの家事から、私を解放させたいと、日光にある、スポーツ用品会社の保養所に出かけて、3泊四日を過ごしました。会社から出向されている方が案内してくださって、鬼怒川大橋を見学させてくれました。帰りにご婦人たちが運営している蕎麦屋さん行き、昼食を摂りました。

 温泉にも浸かることができ、支えられ、守られて過ごしております。みなさんの祷援や、激励のおかげです。ありがとうございます。この欄で、感謝しつつ、経過報告をいたします。

 コロナ禍ですが、爽やかな秋がやって来た様です。みなさんのご健康を、心から願っております。

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ズボン

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 行きつけの医院に行った時のことです。いつものように、同世代の医師が、この過ぎた4週のことを聞いてくれ、看護師が血圧と体重を測ってくれ、けっこう世間話とか、これまでの経験とかを聞かれたり、個人的なことまで立ち入って聞かれる、気さくな方なのです。

 頭髪のハゲ加減は、医師の方が後退していて、こちらの勝ち。若く見える度も、『年齢としては若いですね!」と、毎回の様に言われるので勝ちなのです。ところが、履いているズボンが、違うのです。こちらは、スーパーの衣料品売り場に吊るして売ってる、1980円の少々寸足らずなのに、先生の方は、宇都宮のデパートででも、奥様が買ったのでしょうか、2、3万円はする様な代物(しろもの)なのです。

 収入の度合いの違いで仕方がありません。帰国してから、もう2年近くなるのですが、下の兄が奔走してくれて受給できた、わずかな年金と、家内のお見舞いにいただいたり、友人たちや兄弟姉妹たち、華南の街の倶楽部が支えてくれたものとが、まだ底をつくことなく残っているのです。その他に、子どもたちが心配してくれて生活しているのです。ですから先生との違いは歴然としています。

 どなたかが、『ボロは着てても 心は錦 どんな花より・・・』と、昔歌っていた歌手がいましたが、家内も私も、ボロなど着ることなどありませんし、“ go to Nikkou ” で、3泊4日も温泉のある保養所で過ごすことができて、文化的な生活が過ごせています。私たちは、人に物をねだることをせずに、今日まで生きてこれました。
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 華南の街で生活を始めた頃、中国の友人たちは、豊かな国から、豊かな援助を得て来ているのだと思っていた様です。ところが、いつだったでしょうか、帰って行く家が日本にはなく、帰国のたびに違った所に居候していることを知られてしまいました。また、日本の少数の友人たち、家族が援助して来てくれてることを知って、私たちのことを感謝してくれたのです。

 大学の外国語学部の講師として働くことができ、70歳で退職後は、倶楽部のみなさんが、毎月援助してくれたのです。初めお断りしたのですが、『あなたたちは私たちの家族ですから!』との善意をお受けしたのです。そんな中、家内が病んで入院した時、入院費や治療費、帰国の飛行機代なども払ってくれました。そして、信じられないほどの助けをいただき、帰国後は、遠路を、何組もの方がお見舞いにまで来てくれたのです。

 溢れるほどの恵みをいただいて、老いを、しかも病の中を生かされております。「敬老の日」には、孫たちが長寿を愛でてくれ、生かされている喜びを感じる今日この頃です。ズボンの値段や質などは、問題ではありません。そろそろ夏物から、秋冬物に、ズボン替えの時期の様です。

 今日は10月1日、中国では、「中秋節」で、「国慶節」でもあります。一個一個の「月餅」を、人数分に切り分けて、少しずつ分け合って、食べた日々が懐かしいのです。

(標準的な「月餅」です)

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