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十代後半から二十代の初期を、どう過ごしていたかと言いますと、『アルバイトに明け暮れていた!』と言ったらいいかも知れません。もう少し勉強に身を入れるべきでしたが、学費と本代、それの遊興費を得たかったのです。けっこう楽しく過ごしたのですが、《社会勉強》ができたという言い訳は通用しそうにありません。それでお金も学びも〈虻蜂取らず〉の結果になってしまったのです。
私の青年期、世界で起こった最大の事件は、「ベトナム戦争」でした。インドシナ諸国は、欧米の植民地として支配されたり、二戦以降、そこからの独立運動が起こったり、独裁政権が起こったり、米ソの冷戦下で、火種を抱えていました。ベトナムにアメリカ軍が、1961年に軍事介入をして、長い泥沼の様な戦いが続きました。ある面では、米ソの〈代理戦争〉が、ベトナムのデルタ地帯で続いたと言えるでしょうか。
この戦争に、外国人である日本人が、戦士として戦うなら、アメリカの〈市民権〉がもらえるという誘いがありました。また、この戦闘で戦死したアメリカ軍兵士が、軍用機で、横田基地に運ばれて、棺に納められて、戦没兵士の故郷に送り届けられていたのです。友人から、『大変高額なアルバイトがあるぞ!』との誘いもありました。その戦いで、戦死した兵士の亡骸をアルコールで拭く仕事です。どんなに高額でも、他国の戦争に加担することも、死者の体に触れることも、それらは私にはできませんでした。
同世代で、同じ自由権に生まれた者でも、『インドシナ諸国が共産化して行くことを防ぐ戦いに!』との大義名分に駆り立てられても、そのために銃を取ることはできませんでした。当時、〈兵役逃れ〉のために、多くのアメリカ人の同世代の青年たちが、ある特定の仕事をしようと、世界中に出て行った様です。日本にも来ていたでしょうか。
この戦争の最前線で、報道写真家の沢田教一が、戦争と戦争に巻き込まれて行くベトナムの人々を撮り続けたのです。本来この方は、『本当は自然や子どもを撮りたい・・・平和なヴェトナムを撮りに来たい!』と、奥さんに常々話していたそうです。
そのヴェトナムでの一場面が、上に掲出した写真です。1965年9月6日、ロクチュアン村で、銃弾をあびる中を、川を渡る2組の母子を撮影したのです。「安全への逃避」と、沢田は名付けています。これは、世界写真大賞を受賞した、大変に有名な写真です。戦争が終わって、間も無くこの写真のお母さんたちは亡くなったそうですが、子どもたちは健在だそうです。
米国市民権の誘いに、自分の心が動きましたが、ベトナムで、外人部隊として戦ったとしても、生き残っていたかどうか分かりません。たとえ生き残って、市民権を得てアメリカで生活をしていても、過酷な戦闘体験で、精神的に正常を保てたかどうかも、分かりません。世界の片隅に起こった、大変で悲惨な戦争の後日譚(たん)は、兵役を果たした戦後ベビーブーマーたちの間に、麻薬や同性愛や精神疾患などを産んだと伝えられています。それは戦争のもたらした悲しい現実でした。
今日日、米中の間が、不安な動きを見せています。それが世界を巻き込んでしまうなら、大変な事態を迎えることになることでしょう。歴史を見ますと、誰もが平和を願いながら、いつの間にか、戦争が勃発してしまって来たわけです。その前線で戦うのは、いつも青年たちなのです。孫たちが軍靴を履いて、銃を担ぐことがない様にと願うばかりです。
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