生きよ

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 日本人が好きなものの一つが、「復讐劇」です。浄瑠璃でも歌舞伎でも大衆劇でも、それが人気演目なのです。江戸の昔から、令和に至るまで、日本人は好んで観劇してきています。英国のシェークスピアの「ハムレット」までもが、日本人は好きなのです。日本では、江戸での親の仇を、長崎にまで追って行って、打ち果たすのですから、その「恨み骨髄」の復讐心は凄まじいものがあります。

 お隣の国も、同じ様に、過去の出来事を赦せない、「恨(韓国語한ハン)」の強烈な思いをお持ちです。秀吉の朝鮮出兵で陣頭指揮をした武将の子孫の罪を、今になって糾弾したり、戦時下、強制的に連行した少女の像を作り、その前に、戦後75年を経た、日本の首相を土下座させる像を置いて、強烈な復讐心を表すのには驚かされます。事の真相はともかく、戦後、長らく、日本は国として謝罪を繰り返し、それを形にした復興援助をし続けて来て、今の韓国の繁栄があるのです。

 テレビを、家に置かないのですが、TBS制作、放映の「半沢直樹」の人気が凄かったそうです。〈倍返し〉、最後では〈1000倍返し〉にして、復讐をしたのだとかです。日本人の系譜でしょうか、復讐が成功することで得られる、なんとも言えない〈ケジメ〉がいいのでしょうか。義に立つ者には、天が味方をするのですから、後は、赦さないと、生涯恨みを負い続けねばなりません。
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 私の愛読書には、「あなたは復讐してはならない。あなたの民の人々に恨みを抱いてはならない。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。わたしは◯である。」とあります。恨みの感情や復讐心というのは、非建設的なものであって、何一つ、好いものを生み出しません。恨みの思いが感情を異常にさせ、体も蝕んでしまうのです。私は、これまで、数人の方の〈赦せない思い〉に煩わされました。

 憎んだり、恨まざるを得ないその方の思いを理解して、心の向きを半身にして、恨みをかわすことにしたのです。義を選んで、ヒュマニズムに立たなかったからです。自分には落ち度がなかったと思っていますが、自分の決意を汚すことなく、結果として恨まれたのですから、どうということはありません。ただ、その方たちの〈その後〉が気掛かりでなりません。

 復讐劇を観て、拍手喝采してしまって、その思いを積み上げて行くと、不健全な事態を生んでしまいます。池宮彰一郎が「最後の忠臣蔵」を著し、役所広司主演で映画化されています。大石内蔵助に仕える瀬尾孫左衛門は、四十七士として、主君の仇を打つ代わりに、内蔵助の隠し子を養育する務めを頼まれます。育て上げ、京の商家に嫁入りさせた晩、主人の位牌前で自刄して果てるのです。

 この「忠臣の死」に、足軽の孫左衛門が、武士の魂を見せるのですが、潔さよりも、私は悲しい思いで、心がいっぱいにされたのです。恥を忍んででも生きて、《命の重さ》を感じて欲しかったのです。失った年月を贖って、新しい思いで、もう半生を生きて欲しかったからです。

 数ヶ月すると年末、また、生を軽視し、復讐や死を礼賛(らいさん)する劇や映画が上演されることでしょう。それが日本人の心に、生命軽視、自殺願望を惹起させるのではないのでしょうか。自殺者が日本では突出していることと、これと無関係ではなさそうです。私の愛読書には、「生きよ」とあります。

(今季最後になる朝顔かも知れません。大平山の遠望です)

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