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「一芸は道に通ずる」という言葉があります。人間性の高さも兼ね備わっていることも言うのでしょうか。この私が、一芸に通じているとします。そして、その道では誰よりも優れて、優秀なのだと最高に評価をされるのです。そんな、ある日、「人間国宝」の推薦を受けてしまいます。それを私が聞いた瞬間、舞い上がってしまって、南半球のハブエノスアイレスまで飛んで行ってしまうに違いありません。人間性が備わっていないからです。
陶工の河井寛次郎という方が、「人間国宝」に推挙された時に、何と言ったかご存知でしょうか。寛次郎は、『地方に行けば自分よりも立派な腕を持って宝物を作っている方がおられる。自分の順番はまだ・・・』と言って、そんな誉ある機会を蹴ってしまったのだそうです。
それではと言って、今度は、「文化勲章」に推薦されたのです。その選考委員をしていた、当時の松下電器の松下幸之助が、使いを立てて、河井のもとを訪ねさせたのです。当時、発売されたばかりの<トランジスターラジオ>を持参させたのだそうです。そうすると河合は、『このほうが受賞ものですよ!』と言って、トランジスタラジオだけはもらって、勲章は鄭重にお断りをしたのだと言う話が、残されています。
『男は、一般的に、金仕掛け、色仕掛け、名誉仕掛けに弱いので、十分に気を付けて生きなさい!』と、若い頃に何度も、恩師とその友人たちに、《釘を挿す》様に言われました。大先輩たちが、その誘惑に晒されながら、教訓を胸に、生きてきた証詞を聞かせてくれたのです。
アラブ系アメリカ人の方は、『机を飛び越えて、ドアーに向かって突進して難を逃れることができた!』と言っていた顔と、何十年も前の忠告が思い浮かんできたのです。そう言った誘惑に抵抗できる力を、人は誰も持ち合わせていないからです。ただ一つできる事は、グズグズしていないで《逃げる事》なのです。
多くの人を見てきて、お金のできた人は、色に走り、色を手に入れると、次は、名誉なのです。「人間国宝」とか「文化勲章」と言うのは、日本の国では最高に栄誉ある褒賞でした。河井寛次郎は、それを欲しなかったのですから、すごい人だった事になります。
小学校6年生の時に、街の文化祭で、描いた絵と創作した工作品が銅賞をもらっただけの私には、文化庁が間違っても機会などありません。街の文化展への出展だって、きっと担任が間違えて選らんで、街に提出してしまったのでしょう。兄たちや子どもたちは級長をしましたが、どの学年も、私には無縁のことでした。
<ないない尽くしの人生>でしたが、けっこう楽しく、面白く、納得して生きてこられたのだと、今思うのです。覚えていない〈些細な事〉が、天に積まれているのかも知れません。それで満足とすべきでしょうか。借家ですが住む家があり、貰い物ですが履く靴や被る帽子だけはたくさんが持っています。それに食べる物、日毎の糧があるだけで、それで人は満足できるものです。
妻がいて、子がいて、婿や嫁がいて、孫がいて、友人や兄弟がいるのですから、こんな幸せ者ではないでしょうか。この河井寛次郎ですが、島根の安来の大工の子で、お嫁さんは宮大工の娘で、京都で創作に明け暮れた人でした。栄誉や褒賞を求めない名人だったのです。地方にいる私は、無名人ですが、孫たちには、ジイジです。アッ、忘れていました。もう一つ《永遠の命》の約束を握りしめております。
(河井寛次郎の作品です)
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