上海

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 上海の福州路(以前の四馬路です)の道の端に、小さなホテルがあって、上海と大阪を結ぶ航路の「蘇州号」に乗船するために、出航の前夜、そこに投宿したことがあります。建物も部屋の造りもnostalgicで、戦前からあるホテルに違いありません。そこは、かつての上海の一大中心地で、日本租界も近くにあり、長江からの黄浦江の流れの岸を「外灘waitan」と呼んで、今では河岸公園になっています。

 そこから少し離れたところに、上海港(马头matou)があって、多くの船が往来しています。この上海を舞台に作られた、「上海の花売り娘」が、日本統治中の1940年に流行りました。戦前、大陸に夢をつなごうとした人たちが、この港を乗り降りしたのを歌ったのでしょうか。作詞が川俣栄一、作曲が上原げんと、歌唱が岡晴夫でした。
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(一)
紅いランタン 仄かに揺れる
宵の上海 花売り娘
誰のかたみか 可愛い指輪
じっと見つめて 優しい瞳
ああ上海の 花売り娘

(二)
霧の夕べも 小雨の宵も
港上海 花売り娘
白い花籠 ピンクのリボン
繻子(しゅす)も懐かし 黄色の小靴
ああ上海の 花売り娘

(三)
星も胡弓も 琥珀(こはく)の酒も
夢の上海 花売り娘
パイプくわえた マドロス達の
ふかす煙りの 消えゆく影に
ああ上海の 花売り娘

 幕末には、函館や横浜や神戸には、外人居留地がありましたが、中国には、中国の治外法権で、手出しのできない一角が、「租界」と呼ばれて、あちこちに作られていたのです。そして虎視眈々と中国を我が物にしようとする、欧米列強や日本が、策略を練っていたわけです。
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 覇権を競い合う欧米列強、それに日本が加わって、〈眠れる獅子〉と、その潜在能力を持っていた中国は、太平天国に乱、アヘン戦争後の混乱に乗じて、様々な思惑が働く国でした。とくに上海は、東洋の魔界の様に、欲望の渦巻く街だったと歴史は伝えています。私は、何度か上海の港を利用したのですが、中国らしくない街で、興味深かったのを感じたものでした。

 教え子のご両親が、その老舗のホテルの近くで、ご自分のホテル経営をしていたのです。ネット予約をした後に、そのことを知ったので、そこは利用しないままでした。ちょうど上海に、その教え子が帰省していて、友人と二人で、中国新幹線の駅に、私を迎えに出てくれました。遠距離寝台バスを利用することが多かったのですが、新規に作られた新幹線は、とても便利で快適でした。

 東アジア最大の街の上海は、exoticで、私たちは長く過ごした華南の街とは、雰囲気が、また違っていたのです。紹興出身の魯迅が、活動した街で、日本人の内山完造(内山書店の店主)との間に素晴らしい関わりがあった様です。この書店も、上海の日本街の「虹口hongkou)」にあって、10万人もいた日本人と中国の文化人との文化的交流の場だったと言われています。

 この上海は、東京に対する大阪的な存在感を持つ街の様に、北京から離れた商業都市と言えるでしょうか。大阪は訪ねたことがありますし、家内の誕生地です。他人との付き合いもざっくばらんで、人情味に熱いのを感じます。上海に思い入れがある様に、私には大阪もそんな街でしょうか。日本人は、戦前は上海に憧れ、戦後はハワイに憧れがありましたが、多様化の二十一世紀の現在の憧れはどこなのでしょうか。

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