弁え

 

 

紫の綺麗な色をつけた「こすみれ(小菫)」と「ビオラ〈すみれのラテン語読みだそうです〉」です。一昨日配信していただいた[HP/里山を歩こう]に、呉市の裏山に咲いていたそうです。植物の世界は、季節の動きに正直に応答して、咲くべき場所と時とを、自ずから弁(わきま)えているのです。

自分は、大輪の花を咲かせようとする野心がなかったのか、才能がなかったのか、はたまた場所と時を得なかったのか、そうできませんでした。でも、これから咲き出そうと思うのです。遅咲きで、小さくていい、誰に見られなくともいい、天に向かって小さく咲くだけでいいのです。ある詩人が、『真っ黒な土やドブの中から、どうしてあんなに綺麗な色の花が咲くのだろうか?』と思って、作詩をしていました。

展覧会で賞賛を受ける花もあれば、無残にも踏みつけられる花もあります。『えっ、ちょっと弱気過ぎないの!』と言われそうですね。諦めたのではないのです。身の程を弁えているからです。ほとんどの人が行き、来た道です。それでも、独特に、個性的に、自分独自の色と香りの花を咲かせてみたいのです。

いえ、これから何かをしようとしているのではありません。咲かせたいのは、人生の仕上がりをし、総決算をしたいと言う「花」なのです。呉の裏山の石垣と岩の間の薄い土の中から咲いている、この花のようにです。

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いのち

 

 

人のいのちの価値とはどれほどで、どのように判断し、誰が決めるのでしょうか。もし自分が電 車の運転手だとして、ブレーキの故障した電車を運転しています。しかも、その電車に前方に線路上では、五人の作業員が働いているのです。このまま直進すれば、五人の命を奪うことになってしまいます。

ところが、行く手の線路の右方向に、「待避線」があるではありませんか。その線路上には、一人の作業員が働いているのです。手にしているハンドルは操作が可能です。まっすぐに進むか、右に曲がることができます。こう言った状況で、直進するの が正しいのか、右へ曲がるのが正しいのか、運転手は、どうすべきなのでしょうか。

この質問の答えを、日本語科の「作文」の講義を履修している3年生に、考えてもらい、作文を書いてもらったことがありました。〈二者択一〉で、多数決原理をとって、右折するか、いや人間は一人の命も複数の命も同じだから、直進すべきだ、そう言った「道徳的ジレンマ」を感じる、意地悪な問いかけでした。

また、直進の線路上には、街の名士がいて、これまで慈善活動に励んでこられ、多くの人たちを助けてきた働き盛りの人がいます。ところが、右側に線路上には、体が不自由で、みすぼらしい身なりの老人がいます。どちらかしか助けることしかできません。

さらに、出産時のお母さんに、異変が起きました。このままだと母親も胎児も死んでしまいます。しかし、どちらかが助かることができるのです。母親を選ぶか、胎児を選ぶか、夫(父親)は選ばなければなりません。これらも、同じくジレンマに陥ってしまいそうな問いかけです。

『生きるとは選択だ!』、私たちは事あるごとに、〈二者択一〉の状況に置かれるのです。作文を書いた後に、「ディベート(その主題につき肯定側・否定側に分かれて討議すること)」をして欲しかったのですが、2年少しの学びで、まだ日本語での〈討論〉は、まだ無理でした。でも、〈問題意識〉だけは持って欲しかったし、『人間の価値とは何によるのか?』と言うことを考え続ける動機付けになればと思ったからです。

私の愛読書には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とあります。一国の首相になるのも、一市民で終わるのも、双方ともが《同価値》だとの意味です。憎悪も蔑視も、好き嫌いでさえも、人の価値を認めないことに起因しています。さあ、自分はどう選択するのでしょうか。これって、今昔を問わず、かなり難しい人生の問い掛けです。

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寄留者

 

 

ロビンソン・クルーソーが、孤島に漂着して、そこで自活する様子を描いた「漂流記」を、子どもの頃に、興味津々で読んだことがありました。そう言った生活に憧れて、「秘密基地」を、林の中や地を掘って作ったこともありました。父の家には、押し入れ以外には自分の場所がありませんでしたから、〈自分だけの空間〉を持ちたい願望の疑似体験でした。

『もし、絶海の孤島で生活をしなければならなきなったら、何を持って行くかと?』と言う質問があって、色々な物が挙げられていました。自分だったら、「大辞林」か、今では「ジョルダン(路線案内)」がありますからあまり使わなくなっている「時刻表(交通公社発行)」、世界のベストセラー「Bible」を持って行くのがいいかも知れません。 

孤島での生活を余儀なくされたロビンソンが、無くて困った物と代用品のリストがあります。

〈蝋燭〉山羊の脂を粘土の皿にとり灯芯をつけてランプに、〈石臼〉砂岩質の石しかなく木臼で代用、〈ふるい(篩)〉更紗の襟巻きを使って自作、〈シャベル〉堅い木を削って作った、〈農具〉大きな重い木を引きずって鍬の代わりとした、〈つるはし〉梃鉄を流用、〈鎌〉短剣を鎌のように直して麦刈りに使った、〈下着類〉すぐにそのようなものなしで過ごすことに馴れたその他に〈針〉、〈ピン〉、〈糸〉

大陸で、13年を過ごしてきた生活の本拠地の街から、3つのスーツケースだけを持って帰国し、友人の別宅に居候(いそうろう)させてもらっているところです。家内は、6人の病室の〈二畳〉ほどのスペースで入院生活を続け、私は、この家で、3ヶ月ほど生活をしているのです。

人って、そんなに〈物〉がなくても、ちょっとの不自由さを我慢すれば、《住めば都》になるのでしょう。所詮、人は「旅人」で「寄留者」なのでしょうね。13年前に出かける時、それまでの37年間の結婚生活の所帯道具、所持品のほとんどを処分してしまいました。

帰る場所と物を残しておいたら、帰りたくなったら帰れるという思いを捨てたのです。ただ、少しずつ買ってきた本だけは、残しておきたかったのですが、捨ててしまわれました。却って〈物への執着〉を捨てられてよかったのかも知れません。

家内から、昨日、『私のスーツケースの化粧道具入れにある、小バサミとカミソリとを持ってきて!』と頼まれました。どうも少しオシャレをしたくなってきたようです。病人から《女性》に戻ろうとしているのでしょうね。担当して下さる看護師さんに、実によくしてもらっているのを感謝していました。さらに友人夫妻によくしていただいている、そんな三月です。

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サンシュユ

 

 

今頃、広島県呉の灰ケ峰に咲く「サンシュユ(山茱萸)」です。実に美しい黃色の花ですね[☞3月18日配信 HP/里山を歩こう]。このサンシュユの木の枝を、牛乳の中に入れておくと、ヨーグルトができるのだそうです。朝鮮半島を経由して、江戸時代に日本に入ってきたそうで、木なる実を乾燥させて作る漢方薬となるのだそうです。

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惹く

 

 

ここ栃木に滞在中の今、東は小山(おやま)、西は佐野と足利(あしかが)に出掛けたことがあるだけで、ほとんど栃木と隣街の壬生とを、電車で往復する範囲内で生活をしています。ここは北関東、栃木県の県南の狭い範囲内です。

今回、冬物の防寒ズボンしか持ち帰りませんでした。つとに暖かくなってきましたので、春物が必要になって、毎週決まって、母親の見舞いにくる息子の車で、先週、両毛線の佐野まで行き、彼の車で郊外のアウトレットに連れて行ってもらったのです。

折良く、特売のズボンが、GAPにあって、一本1900円で、色違いで二本と、Tシャツ2枚を買って帰りました。暖かくなる頃のことなど考えられない、慌ただしさで帰国してしまったからです。ちょっとオシャレな家内も、オシャレができずに、パジャマ姿で過ごして、もう3ヶ月になろうとしています。

淡い色彩を、家内は好むのですが、春の装いをする機会もなく、治療を受ける日を、狭い病室のベッドで続けています。このところ、恢復することに思いを向けて、そんな話題で話すようになっています。これまでの楽しかったこと、素敵な出会いなどを、一つ一つ数えるように思い出して、人に思いを向けているそうです。

家内に、《恋文》を書き送ったことのない私は、それを償おうと、毎日せっせと書いては、家内に渡しているのです。若い頃に、倶楽部で、一緒に歌った歌の歌詞に “♭“を付け、また愛読書の中の一節を書いて、ああでもない、こうでもないなどを書き添えて、家内の気を惹(ひ)いているのです。

昨夕は、病院からの帰りしなに、とり肉と小松菜、牛乳とヨーグルトとチーズと清見(みかんの一種)を、近くにスーパーマーケットで買って帰りました。それで「お雑煮」を作ったのです。娘たちがいた頃に買って残ってあった〈しめじ〉がありましたので、友人が持ってきてくれた出汁(だし)の醤油ベースででした。〈ぼっち雑煮〉でしたが、けっこう美味しかった!

お見舞いの時、『今晩、お雑煮!』と家内に言いましたら、『喉にひっかからないように、少しずつ食べてね!』と注意されたのですが、『栃木の独居老人、餅を喉に詰まらせて・・・』と、ニュースにならないように、注意して食べたのです。

この数日、「三寒四温」の如くに、寒の戻りでしょうか、気温が低くなっています。今朝は、少し薄い雲が広がっています。好い一日であることを願い、時折、車のタイヤ音のするだけの閑静な家の居間、兼寝室のソファーの上で、認(したた)めようかなの朝です。

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ぼっち

 

 

『どこかで春が』は、作詞は百田宗治、作曲は草川信で、1923年(大正12年)に発表されています。

どこかで「春」が 生まれてる
どこかで水が 流れ出す

どこかで雲雀が 啼いている
どこかで芽の出る 音がする

山の三月
そよ風吹いて
どこかで「春」が 生まれてる

もう、どこからでも春の声や音や匂いがしてきます。今朝方は、冷下に気温が下がったのでしょうか、寒い朝を迎えました。それでも陽の光に、強さが込められているのが感じられます。駅からものの五分ほどの所に、1月の10日から滞在し、孫娘が、『もう終業式なの!』と言う、年度終わりが近づいています。

去年の暮れに、するつもりでいたのが、家内の病院通いがあったりで、しないまま、慌ただしく新しい年を迎え、もう3月も中旬です。その〈しなかったこと〉とは、「餅つき」でした。〈餅をついて〉と言っても、帰国される知人からいただいた電気餅つき機でするので、造作無いことなのですが。このし忘れたことを、春三月になって、「揚げ餅」を口にして思い出したわけです。

それでも、嫁御のお父上のご兄弟がついた、鹿児島の餅米のお餅は、お裾分けで頂いたのですが。もう二、三個冷凍庫の中にあります。〈ぼっち飯〉のこの頃、今夕にでも、そのお餅で、『〈ぼっち雑煮〉でもしてみようかな!』と思っています。とり肉と小松菜と、あと何でしたっけ。

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次女の街に咲いた花の写真を送ってくれました。雪が溶けると、水になるだけではなく、「春になる」のですね。北半球に、春の到来です。中国の私たちの街に咲く花を、友人が送ってくれました。

作詞が野口雨情、作曲が草川信の「春の唄」です。

1 桜の花の 咲く頃は
うらら うららと 日はうらら
ガラスの窓さえ みなうらら
学校の庭さえ みなうらら

2 河原(かわら)で雲雀(ひばり)の 鳴く頃は
うらら うららと 日はうらら
乳牛舎(ちちや)の牛さえ みなうらら
鶏舎(とりや)の鶏(とり)さえ みなうらら

3 畑に菜種(なたね)の 咲く頃は
うらら うららと 日はうらら
渚(なぎさ)の砂さえ みなうらら
どなたの顔さえ みなうらら

「うらら」とは、「麗らか」なことです。病院帰りの東武宇都宮線の乗客はまばらでした。春の陽を受けて、みなさん、春のポカポカの陽を浴びて、「みなうらら」になって、船を漕ぐように、何人もの方が昼寝、電車寝をしていました。

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ことば

 

 

『人は生きている限り、可能性に満ちている。』、私が4年間学んだ学校で、まだ若い専任講師時代の恩師が、頬を紅潮させ、情熱的に講義の初めに話したのです。「公的扶助論」という講座でのことでした。

淡々として、教壇から語る教師がほとんどでしたが、まだ二十歳の私たちに、同じように感じて欲しかったのでしょうか、訴えかけ、喚起させるように話したのが、昨日の出来事のように思い出されます。

この講師は、その前週に、滋賀県の「近江学園」を見学して帰ってきたばかりでした。そこは、糸賀一雄と言う人が、重度の心身に不自由を持つ児童の世話しようと、開設したホームでした。そこでの体験談を、熱く話してくれたのです。

『何一つできないのに、入浴している時や、日光浴をしている時に、あの子たちは、なんとも言えない喜びの表情を表すんだ!』と、そう言ったのです。それを聞いた私は、何でもできる身体と思いを持ちながらも、不平だらけで生きていたのです。

そんな私への聞き流せなかった、《鉄槌のことば》でした。それで、自分が持っている《可能性》に目が開かされたのです。そればかりではなく、すべての人が《可能性》に満ちて生きているのだということが分かったのです。それで教師になろうと決心したのです。

スポーツをして、男っぽく生きてきた自分が、重度の障碍を持って生まれてきた子に関心など向けたことが、それまでありませんでした。でも、その講師のことばは、私の心の目を開いたのです。たくさん聞いてきた《ことば》の中で、私が聞くべき《ことば》だったのです。

それ以来《ことばの重さ》を感じ続けています。人を生かしも殺すもするのが、《ことば》なのです。軽率に語って、何度人を、私は傷つけてきたことでしょうか。《人を生かすことば》を語り、人の《可能性》を引き出してみたいと思う早暁です。

(琵琶湖の景色です)

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旅立ち

 

 

三月は「旅立ちの春」と言われています。「別離の月」でもあり、小学校、中学、高校、大学、あれっきり、会うことのない級友たちは、どんな年月を過ごして、今日を生きているのでしょうか。

10円をカンパし、廊下に立たされ、肩を組み合い、隠れてタバコを吸い、名画座にジェームス・デーンを観に行き、九州旅行を共にし、殴り合い、ポケットに恋文を入れ、『じゃあな!』と言ったり、無言のまま別れた彼らは、どうしてるのでしょう。

みんな昨日の日のように思い出されてきます。島崎藤村が、「惜別の歌」を詠みました。歌にもなったのです。

遠き別れに 耐えかねて
この高殿に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣を ととのえよ

別れと言えば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢はずかしき 涙かな

君がさやけき 目の色も
君くれないの くちびるも
君がみどりの 黒髪も
またいつか見ん この別れ

君がやさしき なぐさめも
君が楽しき 歌声も
君が心の 琴の音も
またいつか聞かん この別れ

この歌を、よく歌っていた級友もいました。卒業して、結婚式に呼ばれて、一度、新婚世帯を訪ねたっきりです。また教師をしていましたので、「旅立って行く教え子たち」を送り出した経験もあります。涙や笑いや、様々な感情の交錯する季節ですね。

でも「出会い」も「再会」も、人生にはあります。いつでしたか、通り過ぎようとしていたバスから、わざわざ降りて、懐かしい顔を見せ、語り掛けてくれた教え子がいました。結構、満員電車に中で、背中合わせになる人の中に、懐かしい人がいるのかも知れません。あの広い中国で、そんなことが2、3回ありました。

場所と時を共にした人というのは偶然ではありませんし、再会だって、けっこう必然であったりするのでしょう。そんな再会の期待感で、『今日も電車に乗ってみようかな!』と思っている朝です。

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八年

 


2011年3月に、中国のみなさんが、「東日本大震災」の被災者に、書き送ってくださった「寄せ書き」がありました。そこには、中国のみなさんは、日本人を含めて、「我们就是家人」と書いてあったのです。それは、『私たちは家族の一員です!』と、親愛に満ちた言葉です。兄のように慕い、弟のように慈しんだ関係が、中日の間に、まだ根強くあるのだとの語り掛けです。

私の父は、若き日に、東シナ海を渡って大陸に赴き、そこで生活をしたと言っています。現在の中国東北部、遼寧省の瀋陽(奉天)です。大陸は、当時の日本に青年たちにとっては、《憧れの地》であったのでしょう。自分の人生を切り開こうと、みなぎる青春の血を燃やそうとしたのです。

悲しい歴史が両国の間にはありましたし、まだ感情的には受け入れにくいことも多くはあるのですが、この13年の中国でに生活の間、『あなたには罪がありません!』と何度言われたことでしょうか。でも父の時代の歴史的事実は、変えることができないのに、寛容さを持って接してくださり、敬愛の情までお示しくださったことは、忘れられません。

あの東日本大震災のあった日、家内と長男の家に滞在していました。胆嚢の摘出手術を控えていた日でした。突然の揺れに驚かされ、隣の生協の店の駐車場に、家内と共に避難したのです。地震がおさまって、家に帰ると、テレビは、仙台近郊の川を、津波が遡上して行く様子を、放映していました。

しばらく経ちますと、福島原子力発電所が、津波によって、大きく崩壊している様子も伝えていたのです。遠くで起こった災害が、劇場で眺めるように、地震の被害が伝えられていて、父から聞いていた「関東大震災(1923年9月1日発生)」の被害の様子を彷彿とさせるようでした。

戦後の主要な災害の一つが起こった後、中国のみなさんがお示しくださった「善意」の一つが、その「寄せ書き」でした。「加油」ともありました。『頑張って!』との意味です。あれから、もう八年が過ぎたことになります。

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