人のいのちの価値とはどれほどで、どのように判断し、誰が決めるのでしょうか。もし自分が電 車の運転手だとして、ブレーキの故障した電車を運転しています。しかも、その電車に前方に線路上では、五人の作業員が働いているのです。このまま直進すれば、五人の命を奪うことになってしまいます。
ところが、行く手の線路の右方向に、「待避線」があるではありませんか。その線路上には、一人の作業員が働いているのです。手にしているハンドルは操作が可能です。まっすぐに進むか、右に曲がることができます。こう言った状況で、直進するの が正しいのか、右へ曲がるのが正しいのか、運転手は、どうすべきなのでしょうか。
この質問の答えを、日本語科の「作文」の講義を履修している3年生に、考えてもらい、作文を書いてもらったことがありました。〈二者択一〉で、多数決原理をとって、右折するか、いや人間は一人の命も複数の命も同じだから、直進すべきだ、そう言った「道徳的ジレンマ」を感じる、意地悪な問いかけでした。
また、直進の線路上には、街の名士がいて、これまで慈善活動に励んでこられ、多くの人たちを助けてきた働き盛りの人がいます。ところが、右側に線路上には、体が不自由で、みすぼらしい身なりの老人がいます。どちらかしか助けることしかできません。
さらに、出産時のお母さんに、異変が起きました。このままだと母親も胎児も死んでしまいます。しかし、どちらかが助かることができるのです。母親を選ぶか、胎児を選ぶか、夫(父親)は選ばなければなりません。これらも、同じくジレンマに陥ってしまいそうな問いかけです。
『生きるとは選択だ!』、私たちは事あるごとに、〈二者択一〉の状況に置かれるのです。作文を書いた後に、「ディベート(その主題につき肯定側・否定側に分かれて討議すること)」をして欲しかったのですが、2年少しの学びで、まだ日本語での〈討論〉は、まだ無理でした。でも、〈問題意識〉だけは持って欲しかったし、『人間の価値とは何によるのか?』と言うことを考え続ける動機付けになればと思ったからです。
私の愛読書には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とあります。一国の首相になるのも、一市民で終わるのも、双方ともが《同価値》だとの意味です。憎悪も蔑視も、好き嫌いでさえも、人の価値を認めないことに起因しています。さあ、自分はどう選択するのでしょうか。これって、今昔を問わず、かなり難しい人生の問い掛けです。