広島県呉市中央1丁目付近に咲く、「イヌノフグリ」です。今では絶滅危惧種なのだそうですが、市街地に咲いていると、[HP/里山を歩こう]が知らせてくれました。

十代の母をときめかせた、凛々しい青年が、この呉(くれ)の隣にあった江田島海軍兵学校にいたのです。私が青年期を過ごしていた時に、少女の頃を思い出したのでしょうか、眩しそうに母が話してくれました。

母親は「母親」なのに、自分の母が「女」なのだと気付いた一瞬でした。憧れたり、慕わしく思ったり、そばに居たいと言った衝動を覚える思春期、青年期を過ごしていたわけです。

息子たち、娘たちが、自分の母親が、「女」なのだと言うことを、何時、何処で、どんなきっかけで知ったんだろうかと、思ったりしている朝です。

今日の栃木は快晴です。現実は、ごみ出しの日、朝一番で、集積場に出して、ソファーに座って、愛読書を開き、人を思いながら、そんな思いにふけっております。

北関東の山を遠くに眺める、この地は、朝焼けと夕焼けが、やけに綺麗です。家内も私も子どもたちも魅了させられているのです。面会できてもできなくとも、次女の運転の帰途につく車から眺められる夕焼けは感動ものです。

長女と次女家族がやって来て、40日になります(長女は一旦仕事で任地に戻り、主人を連れて再来しました)。毎日、入院中の母でありバアバであり妻を見舞いに通った道は、近道も見つけたり、渋滞を避けたりした日々でした。

明日、それぞれの街に帰って行きます。オセンチにならないようにしよう、そう決心している朝です。そう言えばレンゲが、昨日の帰り道、道路脇の畑で咲いているのを見つけました。

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一羽のすずめ


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今週、私たちに、滞在先の友人の奥様が、ピアノ演奏をしてくださって、その音色と歌唱に驚かされてしまいました。先週はハープの演奏と歌唱をしてくださったのです。音楽学校で、中学から大学まで学ばれた方ですから、音も声も素晴らしいのです。5メートルほどの距離の席で、お聴きましたので、その迫力は感動的でした。

歳を取ってからですが、音楽とか花とか絵に目が開かれてきた私は、『どうして若い頃に関心を向けなかったのだろう?』と、仕方のない悔いをしているのです。そんな私が、体調が優れなかったり、心が重かったりすると、決まって家内に教えてもらい、『歌って!』とお願いして、歌ってもらった歌があるのです。

「一羽のすずめに」と言う歌です。時々、キーボードを弾きながら歌ってくれることもあるのです。『うまくないの!』と言いながら、何時も弾いたり、歌ってくれるのです。ピアノを正規にを学んだことがない家内ですが、私は、穏やかに叩くピアノやキーボードの鍵盤の音と声が好きなのです。

その曲、“”Why Should I Feel Discouraged,Lyrics Mrs.C.D.MartinMusic Charles H.Gabriel”を、この日曜日に、友人の奥様が歌ってくださって、聴くことができたのです。念のため、お願いをしたのではありません。

入院中、まるで「一羽のすずめ」のようにして、一人で病室で闘病している家内、その家内のこと、今後のことを考えていることが多い、これまた「一羽のスズメ」のような私に、『背を伸ばして、元気を出して!』とでも言うように、強弱高低をはっきりした声とピアノを聴かせてくださったのです。

ほんとうに背筋が伸びたようでした。頭をもたげ、将来にに望みをつなぎ、永遠を思うことができたのです。人とは何者でしょうか。気高く、高貴なものとして、地に足を据えて生きているのです。「永遠の御手」に支えられているのですから。

(「徒然庵の俳句日記」から雀です)

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ときめき

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大分県に、「日田(ひた)」と呼ばれる街があります。江戸幕府の直轄領で、明治の初期には、皇室に属する「天領」でした。そこは盆地で、巡りが山で、長く盆地で生活した私には、少し地形的な想像がつきます。と言うのは、街の情報を聞いただけで、一度も訪ねたことがないのです。久留米と大分を結ぶ、〈JR久大線〉の沿線にある街です。

14年ほど前に、熊本で会議があって、出かけた帰りに、この久大線に乗って、由布院温泉に行ったことがありました。実は、その年の春に右腕の腱板断裂の縫合手術をして、リハビリが必要だったからです。それで、その湯布院に、久留米在住の友人のお父様の別荘があって、使わせてくださるとのことで、鞄を家内に持ってもらって、1週間、湯治をしながら過ごしたのです。

Vその別荘は、温泉が引かれていて、温泉三昧の時でした。その時に通過したのが、「日田」でした。美しい街だったのです。そこは、私には思い入れのある街だったのです。当時、母校の恩師の推薦で、ある研究所に勤めていました。柳川の高校で研修会があって、それに出席したのです。その時、私をときめかせた女性が、そこにいました。

念のため、家内と出会う前の話です。背がすらりとして、いわゆる「日田美人」でした。東京弁の旅の人に、この女性が恋をしたのです。いえ御免なさい、こちらがでした。ある時、休暇をとって、東京に出て来てくれたのですが、女性の気持ちを分からない自分は、結婚を迫られそうで、それ以上の付き合いを避けたのです。

『ずるい、卑怯者!』と女性に言われてしまうのを覚悟で書いています。でも、その頃、まだ24歳でした。70パーセントはまだ〈子ども〉で、30パーセントは〈ませた青二才〉でした。そんなこんなで、今、二度目にときめいて、48年も結婚生活を共にして来た家内、《糟糠之妻》がいるのです。苦労をさせ続けた彼女の前では、頭の上がらない男です。

今日も病院に、入院中の家内の着替えを持って、一人で出かけて来ました。何度も、何日も怪我で入院した私に、着替えを運んでくれた家内へのお返しの日々なのです。20℃もある日の午後でした。昨日は、大人数で、入院先に出かけた私たちを、満面の笑みを浮かべて迎えてくれました。帰りしな孫たちとは握手とハグをしたりしていました。ところが今日の午後は、気分が優れず、会うことが叶いませんでした。ただ快復を願う、春を感じさせた日の夕べです。

(日田名物の「日田羊羹」です)

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もう一つの出会い

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今、私たちを受け入れ、まるで兄弟のような愛をお示しくださるのは、過去を遡ってみますと、共通の知人の《親交のネット》につながる方なのです。3年前の帰国時に、滞在場所を探していた時に、この方が快諾くださって、その帰国時に、以前奥様のご両親がお住まいだった家で、過ごさせていただいたのです。

昨秋、帰国時の住まいを探していて、北関東のかつての県都・栃木市に滞在する許可を、再びいただいたのです。東武鉄道やJRの鉄道網を使って、東京や新宿や浅草、町田までつながる便利さと、空気と水の美味しさ、朝焼けと夕焼けの美しさ、何よりも《人の優しさ》を楽しもうとしていました。

そして、これまで数年に亘って、次男の推薦で、日赤広尾病院で、家内が診察をしてもらって来た、その代わりに、獨協医科医学病院(栃木県壬生町)が、先端医療と地域をカバーする医療をしていることを知って、ここで継続診察や治療をしようと決めたのです。

ところが十二月に入って、降誕節の後に、体調を崩して、元旦に、膵炎のCT検査をして、そのまま入院してしまったのです。その治療を終える頃、肺に影があると言われ、省立医院の主治医に、日本での治療を勧められました。

その医院を退院した足で、飛行機の搭乗手続きをしていたら、空港の医師から、搭乗不可を申し渡され、やむなく家に帰ることになったのです。その帰宅は、家内にとっては、一息つける時で、かえってよかったのです。翌朝、搭乗許可を得て、成田空港に向かい、出迎えてくれた長男の車で、栃木にまいりました。

その日から今日まで、六週の間、様々な助けを、ご夫妻でして下さって、家内は入院生活を続けることができています。私の愛読書に、「友はどんな時にも愛するもの。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。私と家内を、友のように、兄弟姉妹のようにしてさせてくださっています。

その彼が、今週、交通事故で救急搬送され、幸い打撲で家に帰ることができ、この週末の土曜日に、CT検査を控えています。ちょっと、私たちに気を使ってお疲れになって、怪我に遭ったのではないかと、ちょっと自分を責めてみたりしてしまいました。でも無事に回復するのを願っています。

互いに若い日に出会って、私を指導してくれた恩師の、その恩師の義弟に当たる方を、この友は自分の師と仰いだのです。《同根同種》と言ったらよいのでしょうか。春のような陽気の先週、自転車に跨って、彼の好物の「揚げ餅」と「いちご大福」と「どら焼き」をもって、お見舞いに行って来ました。痛みがあるようですが、回復を願って、彼の家を辞しました。

主(ぬし)を待つ

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こちらに来ましてから、専用のコーヒーカップを、新たに買いました。家内用には小型の花柄、自分用には無地のマグカップです。箸は、中国の家で使っていた物を、入院用に、また退院してから使おうと、持って来たのです。

ところが、入院中の食事は、箸付きで不要とのことで、滞在先の家に、主の帰りを待ちながら置いてあります。マグカップは、落としても割れてもよいように、プラスチック製の物を使っていて、家に残してあります。

この家には、高価な茶碗やお皿やコーヒーカップや湯呑みが、壁一面の茶箪笥に、飾るようにして置かれてるのです。きっとご両親が、趣味で蒐集された物なのかも知れません。

さて、主のいない間、マグカップは次女の婿殿が、箸は孫娘が使っています。孫たちが喜んでいることがあります。好物の納豆を毎食、ワンパック全部、自分で食べられるからです。その納豆を、その箸で上手に、辛子と出汁を加えてかき混ぜて、炊きたてのご飯にのせて、またかき回して、箸で美味しそうに食べるのです。やはり爺の血なのでしょうか。

婿殿たちは、妻が日本人なので、二本の小枝のような箸を使って、食事をしていて、二人とも上手に、何でもつかむことができます。手の指を開いた形のフォーク、指を閉じた形のスプーンで育ったのに、けっこう技術を要する箸を使えるというのを楽しんでいるのです。

桜の咲く頃までに、家内は、病を克服して退院してくるのを、心から願っています。そして、多くの友人たちが待つ、中国の華南の街に、帰れると願っております。

出会い

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若い頃からの知り合いで、私を啓発してくれた友がいます。彼の読書量、蔵書量は、学術研究者や文学者の様で、先般の熊本大分地震の折には、その蔵書が、書斎や廊下、家中に散乱してしまったのだそうです。その整理に多くの時間を要したと言っていました。

彼は、ほぼ同世代で、共通の器から、生き方や考え方を学んだ時代がありました。ところが、読書量は比べることができません。英語も堪能ですから、洋書を読まれるのです。私など太刀打ちすることができません。だからと言って彼は、〈頭デッカチ〉ではなく、このたびの家内の闘病には、遠くから支え続けてくれています。

この友人は、一年一年、毎週書き残したものを製本されるほど、自分の思想の遍歴を残しておいでなのです。その書物が読みたくて、今、入院し闘病中の家内のそばにいるために、もう一人の友人の家の滞在先から、『読みたいのですが!』とお願いしましたら、数年分を、先週送ってくれたのです。

彼ほどの〈本の虫〉ではない私も、時々、人の思想に触れたくなるときがあります。その送っていただいた論集の中に、イギリスの詩人のテニソンの詩の一節を、彼が引用していました。

私は過去に出会ったすべての人の一部分である

 I am part of all that I have met. 

「私」が形造られるために、多くの人と「出会い」があり、その感化を受けて、今の自分があるのだと言うのです。父母兄弟と先生たちと友、様々な人との出会いを経て、〈一人の人〉になれるのだと言うのです。人の書き残した書物や新聞や手紙も、それに含まれるでしょうか。

良い人とも、そうでない人とも出会ってきたので、その多くの出会いが、心の中の《記憶庫》から思い出されるのです。父や兄たちの全てを真似し、友人や先輩の喋り方を真似をし、憧れの映画スターの仕草や服装を真似をした日を思い出します。唐詩や宋詩、古今東西の金言や格言などを覚えました。でも「人」との面と面と向き合った出会いから、人格的、精神的な多くの影響をいただいたのです。確かに、その人たちなしには、今の自分がないことが分かります。

そんな出会いや交流した日々を、今静かに思い返しています。まだ独身の頃に読んだ本の中だったと思うのですが、『男児《妻(さい)》を得て始めて人となれり。』とありました(うる覚えですが)。今春四月で、結婚生活が、満48年を迎えるのです。まさに《糟糠之妻》との「出会い」こそ、最高のそれであります。

その年月の様々を思い返して、感謝のあふれる夕べであります。

(鳥取県日野町が撮影した「鴛鴦(おしどり)」です)

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スカーフ

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今まで、人から聞いたことばの中に、一番多かったのは、〈頑張れ〉だったでしょうか。中学校に入った時に、担任に呼ばれて、『東大目指して一生懸命学びなさい!』と言われました。またバスケットボール部に入って、上級生や先輩たちから、『母校の名誉のために勝て!』と言われたのです。

同じ学校の高等部に進んだ時、先輩から受け継いだ渾名の〈オジイ〉と呼んだ、私のクラスの担任は、もう諦めたのでしょうか、檄(げき)を飛ばすことはありませんでした。それで、ハンドボール部に入って、ボール投げに興じたのです。

インターハイや国体で、何度も優勝してきている伝統ある名門でした。練習が厳しくて、部員が少なく、当時11人制の定員ギリギリでした。それでも東京都では準優勝し、インターハイも国体も、私たちの時代には行けませんでした。〈頑張らざるを得ない〉時でした。

父が、『金は残さないが教育だけは受けさせてやる!』と言って、大学に行かせてくれました。アルバイトに集中で、あまり一生懸命に学業に励みませんでしたが、社会経験は、一応積んだのです。人生の先輩たちから、良いこと、もちろん悪いことも学ばされ、取捨選択能力も培ったのです。

結婚して、家内と4人の子を、養い育てるために、懸命でした。食料は運んだのですが、実質的な子育ては母親である家内がしてくれました。私は、一生懸命に副業を持ちながら、仕事に励んだのです。風邪など引いたりする暇はありませんでした。息抜きは、山の温泉や都会の入浴施設に行くことだっただしょうか。

退職で、長年して来た仕事に一区切りつけて、若い日から、『僕も行くから君も行け 狭い日本にゃ住み飽いた 海の彼方にゃ支那があり・・・』と歌わされたのですが、〈馬賊〉になるためではなく、『来て下さい!』、『行って下さい!』、静かな細い声で、『一つの街に、あなたを引いて行くから!』と聞いて、その声に応答するために、中国大陸に渡りました。

人生経験の長い年配者がいることを喜んでくださる中国のみなさんと、《若き友情》を育み、国や民族や歴史の経緯(いきさつ)を超えて、ここまで13年を、その一つの街で過ごしてきたのです。もう全く、〈頑張る〉ことはありませんでした。開くドアー、流れる水、動く車に身を任せての生活でした。

昨日、家内の助けをしてくださっているご婦人が、『夢を見ました!』と言ってこられました。『実は昨日、お昼頃、飛行機の中で、ご夫婦が私の街に帰ってきた夢を見ました。私は会いに飛んで行きました。師母がマフラーをかけて身軽に踊っているのをはっきり見ました。美しい姿、また嬉しそうな顔‥‥‥』とです。

私の願いは、家内と二人で、また華南の街で、愛する若いみなさんと一緒に交わり、生活することなのです。

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助け

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今朝、3時頃、まだ早暁の電話の呼び出し音に、『何が起こったのだろう?』と飛び起きたのです。お借りして、滞在している家の持ち主、奥様から電話でした。ご主人が、新聞配達中に交通事故で、医大病院に搬送され、手術をしなければならないかも知れないとの知らせでした。

そこで次女を起こして、車の運転をしてもらい、奥様と一緒に病院に駆け付けました。ところが救急外来の診察で、打撲ですんだそうです。CT検査は土曜日にとのことで、即刻、帰宅できるとのことで、お家までお連れして、帰宅したところです。

事故で怪我をされたと聞いたとき、最悪の事態を、電話の声にお聞きしたので、覚悟をしたのですが、大怪我でなかったのは幸いでした。事故の状況は、交差点の中で、相手は全国紙、友人は地方紙、双方とも配達をされておいで同士の衝突で、お二人とも救急搬送されたそうです。

とても驚いてしまったのですが、この事態に次女がいてくれて助かりました。まだ「丑三つ時?(うしみつどき/真夜中)」なのに、起きてくれたのです。彼女は毎日、面会禁止の中を、ナースステーションに行って、看護士さんに家内の状況をお聞きし、着替えを届け、そして洗濯物を持ち帰るのを繰り返して来て、その次女の送迎の助けは大きいのです。

送り出してくれた彼女の家族、彼らの親族やクラブの友人たち、同級生の親御さんたちが、母親の留守の家に、料理を運んだり、車の送り迎えをしてくれたり、連携して支えて来てくれているのです。次女は三度の食事の用意をしてくれて大忙しです。次女の主人も二人の子もやって来てくれていますー。

長女は、初めは単身で、家内の助けのために帰国してくれました。西海岸の本社に、転勤するために任地に戻り、万端をすませて、先週の土曜日に、主人同伴で再来日してくれています。長男夫妻も駆けつけてくれ、長男の役割を果たしてくれています。次男が決まって週末に顔を出してくれています。特に次男は、母親の治療のために、主治医が感心するほどに、病状判断をしてくれ、家内の状況を、私たちに知らせてくれています。

何よりも、友人、家族、親族のみなさんに支えられているのを感謝しております。一月初めに助けてくれた、中国の街の家内の友人たちが、ビザの発給申請をして、三月に入ってからの来日を計画し、家内を見舞うと知らせてくれました。大きく助けられ、少しの助けをさせて頂いている、そんな今日この頃です。

陽光

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もう、ここ栃木の陽の光の中に、春が見えます。朝晩は、まだまだの寒さが見られますが、2月も18日、今朝は、快晴、一日中が好天気のようです。次女の婿が、『明日は雨の予報が出てます!』と言ってくれました。

次男が、一昨日の昼前には見えたのですが、残れませんでした。それで昨日は、午前中、日曜倶楽部を、友人夫妻と息子さん家族と、彼らの友人と、私の家族で持ち、夕方、11人で隆子を、病院に見舞いました。インフルエンザの面会禁止の中、日曜日の担当看護師の配慮ででしょうか、大勢に威圧されてでしょうか、4日ぶりに面会が叶いました。

子や孫や婿や嫁と握手やハグをしながら、家内は目を輝かせて喜びを表していました。『短時間で!』とのことで、あえって中身の濃い交流ができたのでしょうか。昔、テレビに《全員集合》との番組があったのですが、まさに東京にいる次男夫婦もひっくるめて《全員集合》の時でした。

来週の土曜日は、本当に《全員集合》が叶いそうです。家内は、幼い日から読み続けている「愛読書」を読んで、友人や家族や親族のことを思いながら、時を過ごしているのです。《万事働きて益》の月曜日の朝です。

ちょっと運動不足のようで、次女に急かされて、久し振りに、今朝散歩をしました。市役所の建物の横から、巴波川(うずまがわ)の河岸の道を、上流の方に歩いて行き、古い家屋が少ないところに行ったので、折り返して帰って来ました。

この近辺には、旧県庁舎、市立中央小学校、県立栃木高校などがあり、かつての街の中心、官庁街だったのでしょう。現在では、県庁は宇都宮に移り、市役所も移転して、空き地や空き家が目立っています。

その市立中央小学校の校庭に、先日の散歩で、「二宮金次郎」の像を見つけたのです。私が入学した中学校の校舎の玄関の脇に、同じように、薪を背負った金次郎の像があって、『金次郎の様に学びなさい!』と、創立者の校長は言いたくて、置いたのだと思います。

金次郎は、後年、尊徳と呼ばれ、内村鑑三によると、「代表的日本人」の一人として取り上げています(⇨「青空文庫」のサイトで読むことができます)。小田原の栢山(かやま)という村の農民の子として、1787年に誕生しています。幼い日に、近くを流れる酒匂川(さかわがわ)が決壊し、父の田圃が流失してしまいます。

そう行った過去があってでしょうか、荒廃した村に行っては、「村興し(むらおきし)」をし、農業を振興させさせた、金次郎の貢献は多大だったのです。両親と子どもの頃に死別していて、祖父に育てられています。本を読む油を無駄だと言われ、自分でアブラナを植えて、燈油を採って利用する賢い人だったそうです。

学校にある「金次郎像」には、次のような経緯があるようです。「これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金治郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとすることで、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金治郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われ・・・(ウイキペディア)」とありました。

単に、学業に励むという意味ではなく、国に役立つ人間を作るのに、金次郎は利用されたのです。教育者は政治家とは違う動機があったのでしょうか、でも中学生の私たちに、『東大へ進学し、校名を高めよ!」との鼓舞(こぶ)があったのかも知れません。

今の教育者は、金次郎に、何を語らせようとしているのでしょうか。私を指導してくださった、学校や私塾の恩師たちからは、素晴らしいことを教えていただき、人として生きる道を確かにされた感謝は、実に大きいのです。

(次女が撮った校庭の隅の「金次郎像」です)