今、滞在しています栃木県ですが、ここに「栃木ふるさと学習」と言うサイトがあります。そこに、「田中正造」と言う栃木県人の項目があります。田中正造は、天保12(1841)年11月3日に、栃木県佐野市小中町(旧旗川村)で、旗本六角家の名主である富蔵、サキ夫妻の長男として生まれています。名主になった正造は、明治10年代には自由民権運動家として、また栃木県議会の指導者となっていった。第一回の衆議院選挙に当選し、衆議院議員になっています。
[田中正造は足尾購読問題の解決にためにどんな努力をしたのか]
(1)国会で演説
被害状況を調査した田中正造(当時51歳)は、あまりの被害のひどさに、鉱毒の解決のために、自分は一生をささげようと決心しました。そして、翌年、国会で、「政府は、すぐに銅の生産をやめるように命令すべきである。」と演説しました。これは、我が国の公害問題を取り上げた最初の出来事でした。しかし、政府は、富国強兵策(ふこくきょうへいさく)など国の事情もあり、被害の原因が、鉱毒によるものかどうかわからないとして問題にしませんでした。
(2)被害状況の調査を専門家に依頼
正造は農科大学(現在の東京大学農学部)の助教授に頼んで原因を調査してもらったところ、『銅山から流れ出る水には、銅・鉄分・硫酸が非常にたくさん含まれている。それが原因で動植物に被害が出る。』という結果が出ました。
政府もその結果を受けて、ようやく鉱毒を起こさないために新しい機械を取り付けるよう命令しました。ところが、その機械では、鉱毒をくい止めることはできませんでした。その後も正造は、何度も国会で訴えましたが、鉱毒問題は一向に解決しませんでした。
(3)明治天皇(めいじてんのう)に直訴
農民が願い出ても、国会で訴えてもだめだと知った正造は、明治天皇への直訴しかないと、命がけの覚悟を決めて議員をやめました。
明治34年(1901年)12月、国会開会式の日、正造は黒の羽織、はかま姿の正装で被害の様子を書いた直訴状を高く差し上げながら、明治天皇の乗る馬車めがけてかけよりました。正造は、すぐに警官に捕まってしまいました。しかし、この事件がきっかけとなって世論が盛り上がり、とうとう、政府は鉱毒調査会を作ることになったのです。
この調査会が示した計画は、渡良瀬川(わたらせがわ)・思川(おもいがわ)・巴波川(うずまがわ)の合流する地点の谷中村をつぶして遊水地を作り、洪水を防ぐというものでした。しかし、これでは本当の解決にはならないため正造たちはこのやりかたに反対しました。
何回も国や県に訴えましたが、そのたびに取り下げられ、明治44年(1911年)には谷中村に遊水地がつくられました。昭和48年(1973年)、日本の公害問題の原点といわれる鉱毒問題を起こした足尾銅山が閉山となりました。
田中正造は、この問題を解決するために、73歳で息をひきとるまで身をささげて運動を展開し、正義を貫き通したのです。人として、志操堅固であって、正義を愛し、それを生涯貫いた方です。この方の財産は、鉱毒反対運動などのために使い果たしたそうです。死去したときは、無一文でした。死亡時の全財産は、信玄袋1つで、その中には、書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法と馬太伝の合本だけだったのです。
どうして小石が信玄袋に入れられていたのでしょうか。彼の日記にこう記されてあります。『正月九日 うつの宮ニ来泊す。思うニ予正造が道路ニ小石を拾うハ、日なる小石の人ニ蹴られ車ニ砕かるるを忍びざればなり。海浜に小石の日なるを拾ふハ、まさつ自然の成功をたのしみてなり。人の心凡此くの如シ。我亦人と同じ。只人ハ見て拾わず、我ハ之を拾ふのみ、衆人の中ニハ見もせずして踏蹴る行くもの多し。(田中正造全集十三巻384頁 日記 大正2年(1913)1月)』、生まれ、没した佐野市は、ここ栃木市の隣町です。
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