流感

 

 

日本語名は、「流行性感冒(流感)」である〈インフルエンザ〉が猛威を振るっています。学級閉鎖や学年閉鎖が、多くの学校であり、内孫たちの学校でもでもあったそうで、それを幸いに、こちらに、見舞いに来てくれたのです。

このインフルエンザを、江戸時代は、「タニカゼ(谷風)」と言いました。江戸の山谷から吹いてくる風が、〈インフルエンザ菌〉を運んできたのではありません。江戸期の相撲取りに、「谷風梶之助」と言う人がいて、酷い風邪をひいて、亡くなってしまったのです。屈強な男、角力(すもう)のチャンピオンを滅ぼしたのが、〈インフルエンザ〉だったのです。

それで誰言うともなく、〈流行性感冒」を「タニカゼ」と言う様になったそうです。その経緯が次の様に語られています。

『(谷風梶之助は、)身長6尺2寸5分(≒189cm)、体重43貫(約161kg)というあんこ型の巨人。容貌・人格共に温和で人望を集め、小野川との取組が評判であったそうだ。仙台伊達家のお抱え力士。1795(寛政7)年1月9日(新暦2月27日)、はやり風邪(インフルエンザ)に罹り、現役中に逝去(45歳)。このときの流行り風邪を「谷風」と呼んだ。しかし、谷風が天明 4年頃に「土俵上で儂を倒すのは無理。儂が横になっているのを見たければ風邪に罹った時に来い」と豪語した時に流行った風邪が「タニカゼ」と称されていたもので、横綱・谷風の死因となった当時のはやり風邪は、正しくは、「御猪狩風」と呼ばれていたものだが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。兎に角こんな体力のある凄いお相撲さんでも、病気には勝てない時があり、そこで悪性のはやり風邪(インフルエンザ)のことを「風」にひっかけて「谷風」と呼ぶようになった。「無敵の風邪」という意味だろうね。そして、この谷風の命日が「風邪の日」となった。(HP「今日のあれやこれや」から)』

毎年、香港や中国大陸から、決まってやって来る、渡り鳥の様な〈流感〉には、中学せいの時に、一度かかったことがありました。体の節々が痛くて、近くの開業医に見てもらって、ものすごく高額の注射を打たれたのを覚えています。それなのに効きませんでした。今年も、早く流行がおさまります様に。

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漫ろ歩き

 

 

栃木の街は、巴波川の舟運で開けたと言われます。河岸の起源は元和年間 (1615~1623年)、この頃から日光社参の〈御用荷物〉を輸送したそうで、江戸からの〈上り荷物〉は、日光御用荷物をはじめ、塩・鮮魚類・ろう・油・黒砂糖・干しいわしなどが、江戸川~利根川~思川を経て、栃木の河岸に陸揚げされ、栃木からの〈下り荷物〉は、木材・薪炭・米・麦・麻・木綿・野菜・たばこ・猪鹿の皮・石灰・瓦などでした。

舟は、〈都賀船(米50俵積み)〉で、「部屋(藤岡町)」まで下り、そこで高瀬船(米200~300俵積み)に積みかえ、渡良瀬川、利根川、江戸に向かいました。江戸までの船路は、約43里(172㎞)あり、急ぎで3日ほど、普通は七日かかったそうです。帰りは帆を使ったり、かこ水主 2~3人で舟につけた綱を、川岸に設けた「綱手道」から引き上げたりしました。

舟運で街の回船問屋は栄え、明治末期から大正期にかけて、立派な土蔵や黒塀などが建てられました。 その名残をとどめる蔵が、川面に映える巴波川は、綱手道が格好の散策路となっており、ここからの素晴らしい景観は、「蔵の街・栃木」の観光名所になっています。

昨日は、その巴波川の河岸の遊歩道を、家内と娘たちとで散策しました。吹く風も弱く、太陽がいっぱいの川面を、鯉が悠々と泳ぎ、鴨が群れていました。冬の陽が川面を照らして、なかなかの風情を楽しんだのです。中国の省立医院で、元旦から一週間、飲まず食わずで体力を落としていた家内には、通院ではない、ひさびさの外出でした。

昼を、江戸期から戦前には、大賑わいだった河岸の食堂で摂ったのです。〈水〉なんとかと言うか歌手が来店して、色紙を書き置きしていていた店で、けっこう有名な店なのでしょうか。もうちょっとこ綺麗だとよかったのですが、味はよかったのです。「赤目鯛の西京焼き」の久し振りの定食に、『美味しい!』と言って満足していました。

その後、「街の駅」のお土産店に入り、昔ながらの工芸品や野菜や果物や漬物などが並べてあって、けっこうな人でした。検査の管や針、点滴の針の痛い思いから解放されての《漫ろ歩き(そぞろあるき)》でした。日曜日に、東京の大学院に留学している学生が、お見舞いに来てくれて、“チャット“で、中国の街の友人たちと、画面を覗き込みながら言葉を、家内が友情を交わしていました。

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暴走

 

 

今朝、配っていただいた「下野新聞」は、《郷土愛》が溢れる記事が、一面を飾っています。「那須塩原A 三連覇・・・往路優勝、大田原A2位」とあります。〈県郡市町対抗駅伝競走大会〉の順位です。九面には、〈県小学生駅伝〉で「よろしく真岡R 6連覇」とあります。

スポーツで各市町村が対抗して、郷土への愛着を増そうとしているのでしょうか。スポーツが、とても盛んな県なのだということが伝わってきます。健康志向とか、青少年への激励や応援が感じられてきて、北関東の良さをアピールしているのでしょう。この二週間ほど、読ませていている新聞が、掲載している記事からしますと、衝撃的な事件が少なく、健全さが見られます。

ついぞ関心を寄せたことのない地方都市で暮らして、駅前も、主要道路沿いも、長閑(のどか)で、ゆったりして、落ち着いた感じがするのです。天候も良く、このところの日照時間は、とても多そうです。空気も水も、そして果物も野菜も美味しく、健康県な感じでいっぱいです。

新聞を熟読しているのではないのですが、この今朝の新聞の十九面に、気になる記事があります。作家の藤原智美さんが書かれた「暴走老人!」からでしょうか、「キレる高齢者」と言う寄稿欄です。~虚栄心と孤独で「暴走」~とあります。昔の青年が、今や高齢者になって、ななかなか生きにくくなってしまった時代なのでしょう。

「暴走せずに生き甲斐ある老後を迎えるための提案」がなされています(「この先をどう生きるか」より)。

1.現役時代の価値観を捨て、人生の「初期化」をする

2.過去を見つめ、自己を再生させる「リボーン・ノート」を書く

3.「上下の話法」から「対等の話法」に切り替える

4.「目的」よりも「行為」に価値を見出す

5.日々の「暮らし」を第一のテーマにする

老いの現実を認められないで、昔の夢に酔ってもいけませんし、将来への思い煩いで心を満たしてもいけない、そう言ってるのでしょう。美貌もふくよかさも溌剌さも失せてしまうと言うのは、信じたくない現実です。髪の毛の多かった、私の若い時の写真を見た孫が、『ジイジにこんなに髪の毛があったんだ!』と意外さを言っていたそうです。

イスラエルの人の価値を測る度量衡があって、それによると、もはや13歳になった孫とは逆転して、〈低価値〉の自分を、笑って朗らかに、ありのままで受け入れたいと思うのです。それでも、幼かった子や孫の世話をしていた頃の写真を見ては、一人ほくそ笑(え)んでいます。

あかぎれ

 

 

〈お涙頂戴〉ではありませんので、念のため。結構厳しい寒さを、ここ栃木で経験したからでしょうか。または、炊事の機会が増えたのでしょうか、娘が駆けつける前に、2人の食事の支度と茶碗洗いや洗濯や掃除で、濡れた手を吹かないままにしたので、〈あかぎれ〉ができてしまいました。

子どもの頃に、冬になるとできた覚えがありますが、もう何十年ぶりの〈あかぎれ〉なのです。その痛痒さが懐かしいのです。作詞が窪田 聡、作曲が窪田 聡の「かあさんの歌」がありました。

1 かあさんは夜なべをして
手ぶくろ編んでくれた
こがらし吹いちゃ つめたかろうて
せっせと編んだだよ
故郷(ふるさと)の便りはとどく
いろりの匂いがした

2 かあさんは麻糸つむぐ
一日つむぐ
おとうは土間(どま)で 藁(わら)うち仕事
おまえもがんばれよ
故郷の冬はさみしい
せめてラジオ聞かせたい

3 かあさんのあかぎれ痛い
生味噌をすりこむ
根雪もとけりゃ もうすぐ春だで
畑が待ってるよ
小川のせせらぎが聞える
なつかしさがしみとおる

お母さんが、〈あかぎれ〉ができた手の甲か指に、生味噌を塗り込んでいます。水道も洗濯機も炊飯器もない、それほどの家事をした時代なのです。4人の子育てで冬季、〈あかぎれ〉のできていた母は、もう亡くなってしまいましたので、自分で、生ミソの代わりに、〈メンターム〉を塗ったのです。

これは近江兄弟社が製造した薬で、小さな頃からの父の家の常備薬だったでしょうか。私の家庭にも、いつも、この薬があり、中国にも持って行き、今回帰国に際しても、持って帰って来ています。

学校を出て、最初の職場の出張で、滋賀県に行き、この近江兄弟社の高校で研修会がありました。校長先生と一緒に食事をしたのですが、実に温和な方だったのです。まるで、〈メンターム〉の様でした。この薬に似た、シンガポール製造の〈タイガーバーム〉を、長男の嫁が持って来て、風呂上がりの私の腰に、長女の指示で、次女が塗ってくれました。ちょっと腰が痛いと、私が言ったからです。

病と戦える《体力》と《気力》の増強こそが、これからの家内の課題なのです。主治医と次男が、ちょっと弱気になっている家内に、そう挑戦してくれました。〈あかぎれ〉ができるほどに、母業や妻業をこなすことなのでしょうか。そんなことで帰国二週が終わろうとしています。なんと、昨日の治療費は、《0円》でした。40分もの主治医の話でしたのに、驚いております。

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ここ栃木の地方紙、「下野新聞」が、いちご生産農家が、基準値以上の農薬を使用したことを、この数日取り上げています。ことの発端は、ダニの発生だった様です。ダニ駆除のために、〈焦って〉しまった農家が、希釈率を無視してしまったと報じています。

私たちが住んできた華南に、農業大学があります。その子大学院で学んでいたり、教師をしている方たちの交わりがあって、品種の改良、農地の土づくり、適地生産物研究、農薬問題などに取り組んでおいでです。

まだ法整備が十分ではないのでしょうか、農薬や肥料などに、そのいちご生産農家の様な、農薬使用の問題があります。生産者の大敵が、天気と水、とくに病害虫ですから、けっこう強い農薬を使用してしまうのだそうです。

形状や色など、目映えの良い農産物を作ろうとして、つい昼問罪などのしようもあるそうです。私たちが三十数年暮らした、日本の中部山岳の街も、農業、とくに果物の生産農家が多くあり、美味しい果物を生産ました。知り合いの農家から、その果物をいただくことも多かったのです。

『これ自家用に食べる気からとったので、低農薬ですから安全です!』と言われていただくのそうしますと、市場に出回っている物は、生産農家では食べない、食べる荷を避けている、農薬の強いもにだということで、ちょっと複雑な気持ちにされたことがありました。

県の農協では、厳しい指導をしていますが、害虫被害で売れなければ、『死活問題になってしまうので!』、という落とし穴があって、より強い農薬使用になるのでしょう。耐性が病害虫にできてしまって、〈鼬(いたち)ごっこ〉になってしまって、ダニとの対決が、〈収入減」との闘いになってしまうのでしょうか。

昔は、「久能さんのいちご」が有名でしたが、今や、栃木県は、いちご生産量日本一を誇っています。主要なのは《とちおとめ》で、とても甘くて美味しいいちごなのです。こちらにきた当初、この家の持ち主で友人が、そのいちごを届けてくださってから、家内の好物になっています。

それで、そのニュースを聞いてから、『これ何処産かしら?』と聞く様になってしまいました。一軒の農家の失態が、県全体のいちごの生産のイメージ、評判を壊しかねない事件だったわけです。汚名挽回に、必死さが伝わってきます。

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母親

 

 

ロシア民謡の「一週間」は、次のような歌詞です。

日曜日に市場へ出かけ 糸と麻を買って来た
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャー
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

月曜日にお風呂をたいて 火曜日はお風呂に入り
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャー
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

水曜日に友達が来て 木曜日は送っていった
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャー
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

金曜日は糸巻きもせず 土曜日はおしゃべりばかり
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャー
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

友達よこれが私の 一週間の仕事です
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャ
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

こんな一週間を過ごす人とは、どんな階層の人、職業人なのでしょうか。この歌詞のような毎日を、〈これが私の一週間の仕事〉だとすると、一見して、貴族のような悠々自適な、生活苦を感じられない人のようですが、庶民なのでしょうか。

社会的な責任を託されて働いて、これまで生きてきて、今、病んだ妻のそばにいる、何度かの一週間は、今までにないものです。そんな日を送っているところに、異国に嫁いだ2人の娘が、母を支えようとして帰ってきました。実家のない子どもたちのうち次女が、家族写真を保管していて、それを持参したのです。

その中に、家内の小学校一年生に時の遠足の集合写真があります。昭和二十年代のセピア色の写真に、敗戦後の復興の兆しが感じ取れるものです。家族が付き添いでの遠足で、おじいちゃんやおばあちゃんも写っていたりで、時代を感じさせられます。食べる物に乏しい時代に、次代を担う子どもの教育をなおざりにしなかった、戦後の復興政策の姿勢が感じられます。

ふくよかな健康にあふれた家内の写真が目立ちます。高校、専門学校時代、職場、結婚後の家族写真を見ながら、時の流れを感じてしまいます。「一葉の葉」という高校時代の英語劇の写真があります。家内が主人公で、ベッドの中に寝ている少女を演じています。〈残された一枚の葉が落ちたら死んでしまう!〉のに、画家がガラスに葉を上手に描いて、友の愛に希望を与えられて、病魔に打ち勝つ物語なのだそうです。

アメリカでも、中国でも、ここ日本でも、家内への祷援があります。みんなに愛されて、支えられているのを、ヒシと感じています。窓から入り込む冬の陽が、ベッドの布団を温めています。youtubeからのインストルメントの曲が、Boseで部屋の中に溢れています。

静かな時が流れています。お腹を痛めて産んだ子というのは、母親にとっては宝物なのでしょうか。そして愛されて育てられた子どもたちが、その母親の愛を感じて、母親を、今取り囲んでいます。明日の検査には、4人全員集合になるのでしょう。長女の主人は、遠くニューヨークで感謝の手を挙げてくれています。次女の残された家族は、来月中頃にやって来ます。長男家族は、明日の通院の送迎のために来てくれ、次男夫妻は、病院に駆けつけると言っています。

そんなに物質的には豊かではなかった家庭で育った子どもたちが、自分たちの母親の試練の時に、犠牲を払って共にいて上げようとしてくれています。

(男体山です)

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ここ栃木は、やって来た前日、雪が舞っていたと聞いて以降、ずっと晴天の連続です。夜半の空は満天の星、今朝も雲一筋ない空が広がっています。早暁はマイナス2度だったそうで、外はキリッとした寒さですが、日当たりの良い居室は、オイルヒーターとコタツで、まるでハワイのような心地よさです。

一昨日は、長男がいることを確かめた友人が、義母が使い、ご自分が怪我をしたときに使った〈電動ベッド〉を出して来て、家内のために子どもたちとセットしてくれたのです。今そのベッドに上で、家内は歌を歌っています。

昨晩は、再々度の検査を、昼間、主治医に電話で告げられて、夕食時に、家内は心を乱していたのですが、医師でさえも限界があることが、今朝は認められて、歌っているのです。娘たちの前で、受け入れたくない現実に、リアクションして、正直な感情を表現していたわけです。娘たちは、ついぞ見たこと、感じたことにない母親の一面を知って、驚いたり、納得したりでした。

一晩熟睡して、人としての医師の弱さもわかり、人への信頼ではなく、いにちの付与者への信頼を表して、歌っているのです。今朝は、トーストしたパンを食べたいと言って、娘に告げて、美味しそうに食べていました。食事作りを娘たちに任せて、私はちょっと楽をしています。

昨日は、その友人が、家に中で、時を過ごしている家内のために、〈Blue toooth〉につながるBoseのスピーカーもってきてくれ、スマホで〈youtube 〉で、家内に好きな曲をダウンロードして、聴かせてくれたのです。 そのBoseの〈Blue toooth〉を置いて行ってくれています。

この人が、極選の卵や出汁の素やリンゴなども持って来てくれています。中国の街でもここでも、多くの人の愛に囲まれて、祝福の時を過ごしています。

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望み

 

 

昨日の朝は、この家の二階から、朝焼けが茜色(あかねいろ)に雲を染めている様子を見ることができました。その神秘的な美に感動しました。人の筆や絵に具では描くことのできない自然界の美しさに、人はただ圧倒させられて、息を飲むのみです。昨夕の夕焼けも見事でした。

自然の美しさに感動する《人》こそ、創造の最高傑作だと言われています。父が飼っていた犬も、娘たちが飼っていた猫も、子どもたちが飼っていたウサギも、空を見上げて放心状態で、美しさに酔いしれるような姿を見せていたことはありません。人だけができる能力なのです。

70年も働き続けてきた心臓も肺も、その他の臓器一切が、少し弱くなるのでしょうか。英語で、“オーヴァーホール”の時期なのでしょう。機械に油を加えるように、人の体にも、油の注入が必要に違いありません。家内は、悔いなく生きてきたのですが、まだすべきことが残されていたら、まだ生きられますし、使命を果たし終えたら、造物主の元に帰れるのです。

どちらにしろ《永生の望み》に、心を満たしていますので、闘病をしている今、結構上を向いて、積極的な告白をしています。先日やって来た二人の娘が、家内を、あれこれと世話をやいています。長男家族も、次男夫婦も助けてくれています。一昨日は妹が、友人の運転の車で見舞いに来ると言っています。

昨日の朝9時、獨協医科大学病院から電話が入り、明日の検査のための来院時間や注意事項の確認をしていただきました。ななんと、『喂wei!』と言って、電話にとっさに出てしまいました。これって、中国語の『もしもし!』なんです。それが、自然に、私の口を突いて出てしまったわけです。そんなに中国風が身についてししまって、びっくりしたのは私です。

昨日、次男は仕事が忙しくて来れませんでしたが、長男が、時間がとれたと言って駆けつけてくれ、病院への送迎などをしてくれ、2人の娘が家内に連れ添ってくれました。“PETーCT検査”を無事に終えました。家内の顔がホッとして、笑顔が帰ってきました。みなさんの愛を受けて、満ち足りているのでしょう。30日に検査結果を待つことになりました。

中国の友人たち始め、みなさんの応援に感謝します。

(広島県呉市、穏やかな冬の休日、黒瀬川沿いに咲く「白梅」です[HP里山を歩こう])

新聞

 

 

毎朝ポストに、「下野新聞(しもつけ)」が配達されてきます。栃木県は「下野国」と呼ばれていました。「朝刊」って、〈朝の匂い〉がして、とても懐かしいのです。全国紙も地方紙も、同じ材質の紙に、同じインクで印刷されていますから、ほとんど同じで、朝一番で外部からもたらされる〈情報の匂い〉でもあります。

13年以前、我が家も新聞をとっていました。初めは「讀賣新聞」でした。父は〈読売巨人軍」を贔屓(ひいき)にしていましたから、自ずと新聞も、そういうことになり、4人の子たちも、父に倣ってしまったわけです。ところが私だけは、脱落して「毎日新聞」に変えてしまったのです。

それは友人の息子さんが、毎日の記者になったからでした。〈川柳〉と〈コラム〉が面白くて、先ず初めには、そこに目が向いてしまうのです。中国に行きましてからは、友人が切り抜きを、時折持ってきてくれるだけで、「◯◯晩報」を、路傍の新聞掲示板を、たまに覗き見るだけでした。

 この地方紙の一面は、 [~外国人材活用で情報共有~県、「促進協」設置へ]とのトップ記事でした。地方の企業体の就労を、外国人に頼らざるを得ない現状があるからでしょうか。さらっと読みながら、この地方紙の果たしてきた役割を感じ取っています。

この新聞を、私たちの住まいを提供してくださっている友人が、こちらに参りましてから毎朝、ポストに入れて下さるのです。早朝に働いておられながら、家内の出迎えまで、先日の退院時にしてくださったのです。小学生の時にも、彼は新聞少年で、雨や雪や風の中を配達をしてきた方です。息子も娘も、そして私もしてきた新聞配達です。

昨日は、この方と奥様と私たちとで、一緒に歌いながら、語らいの時を持ち、その後、一緒に食事をしました。ここでも大きな愛に囲まれながら過ごすことができ、幸せを噛みしめているところです。今朝も快晴、北関東の朝は、キリリと寒く、身が引き締まる感じで始まりました。

 

小江戸

 

 

ここ栃木市は、宇都宮市が県庁所在地になる以前、栃木県の県都でした(明治16年まで)。徳川家康の墓所が久能山でしたが、日光に改葬されてから、この街は、徳川幕府開祖の家康の墓を詣でる人の往来で、賑わった街でした。そればかりではなく、〈日光東照宮御用〉のために、資材などを運び入れるため、また、それに携わる人々の生活物資を商う、商業都市として栄えて行きます。

京都の朝廷は、家康の墓所詣でのために年一度、「勅使(ちょくし)」が、日光東照宮参りをしました。この使いを「例幣使(れいへいし)」と呼びましたので、その通り道を、「日光例幣使街道」と呼んでいました。いわゆる、その〈落とし金〉でも、この街は潤ったことでしょう。そのせいででしょうか、〈下野商人(しもつけしょうにん)〉は豪商が多かった様です。

そんなことから、ここは「小江戸」と呼ばれ、喜多川歌麿と関わりがあったそうです、その記念館もあります。また、「路傍の石」で名を馳せた、山本有三の出身地でもあります。栃木市を中心に、街興し、観光客誘致で、〈SLの蒸気機関車デゴイチ(D51)〉を、東武電鉄が走らせる計画があるそうです。

とくに巴波川(うずまがわ)の流れを利用して、舟運が盛んになり、江戸を往来する物資が運ばれたそうです。江戸の木場あたりには、木材、野菜、特産品が運ばれ、帰りの舟には、様々な物が、江戸から運ばれて来たのです。よく時代劇に、川辺を『御用、御用!』と言って、奉行所の役人の捕物が、行き来する場面に、この巴波川の河岸が使われるのです。

どうしてかというと、江戸に風情を残す蔵が、そこに残されているからです。それで栃木市の観光の一大スローガンは、「蔵の街」なのです。蔵の白壁と木枠と瓦の黒色が対照的なのです。まさか、こんなところで映画やテレビに劇のロケが行われるとは、江戸期の住民は思いもしなかったことでしょう。

落ち着いた雰囲気と、ほどほどの田舎な感触、人の優しさ、男体山(なんたいざん)や那須の山々が間近に見られ、夕焼けが綺麗なのを、家内が大好きなのです。今まさに、闘病の日々ですが、一昨日は、私たちに中国滞在をバックアップしてくださっている方の夫人で、日本にやって来て、二人の子どもさんたちの進学を考えているお母様が、こちらの大学に行く準備中の息子さんを連れて見舞ってくれました。

家内は、静かで落ち着いた時を過ごしています。孫の見舞いを楽しみにしていたり(明日も来てくれるそうです)、中国の友人たちのことを思ったりの日々です。昨日は、長男の嫁の父君のふるさと・鹿児島で、ご兄弟がついた餅を頂いていたので、関東風の〈お雑煮〉を、今夕食には、魚の煮付け、しじみの味噌汁、シーチキンといんげん入りの炒り卵、舘山寺味噌(出来合い)、桃とみかんの缶詰を食べました。美味しそうでした。

(栃木市内を流れる「巴波川」です)

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