ここ栃木市は、宇都宮市が県庁所在地になる以前、栃木県の県都でした(明治16年まで)。徳川家康の墓所が久能山でしたが、日光に改葬されてから、この街は、徳川幕府開祖の家康の墓を詣でる人の往来で、賑わった街でした。そればかりではなく、〈日光東照宮御用〉のために、資材などを運び入れるため、また、それに携わる人々の生活物資を商う、商業都市として栄えて行きます。
京都の朝廷は、家康の墓所詣でのために年一度、「勅使(ちょくし)」が、日光東照宮参りをしました。この使いを「例幣使(れいへいし)」と呼びましたので、その通り道を、「日光例幣使街道」と呼んでいました。いわゆる、その〈落とし金〉でも、この街は潤ったことでしょう。そのせいででしょうか、〈下野商人(しもつけしょうにん)〉は豪商が多かった様です。
そんなことから、ここは「小江戸」と呼ばれ、喜多川歌麿と関わりがあったそうです、その記念館もあります。また、「路傍の石」で名を馳せた、山本有三の出身地でもあります。栃木市を中心に、街興し、観光客誘致で、〈SLの蒸気機関車デゴイチ(D51)〉を、東武電鉄が走らせる計画があるそうです。
とくに巴波川(うずまがわ)の流れを利用して、舟運が盛んになり、江戸を往来する物資が運ばれたそうです。江戸の木場あたりには、木材、野菜、特産品が運ばれ、帰りの舟には、様々な物が、江戸から運ばれて来たのです。よく時代劇に、川辺を『御用、御用!』と言って、奉行所の役人の捕物が、行き来する場面に、この巴波川の河岸が使われるのです。
どうしてかというと、江戸に風情を残す蔵が、そこに残されているからです。それで栃木市の観光の一大スローガンは、「蔵の街」なのです。蔵の白壁と木枠と瓦の黒色が対照的なのです。まさか、こんなところで映画やテレビに劇のロケが行われるとは、江戸期の住民は思いもしなかったことでしょう。
落ち着いた雰囲気と、ほどほどの田舎な感触、人の優しさ、男体山(なんたいざん)や那須の山々が間近に見られ、夕焼けが綺麗なのを、家内が大好きなのです。今まさに、闘病の日々ですが、一昨日は、私たちに中国滞在をバックアップしてくださっている方の夫人で、日本にやって来て、二人の子どもさんたちの進学を考えているお母様が、こちらの大学に行く準備中の息子さんを連れて見舞ってくれました。
家内は、静かで落ち着いた時を過ごしています。孫の見舞いを楽しみにしていたり(明日も来てくれるそうです)、中国の友人たちのことを思ったりの日々です。昨日は、長男の嫁の父君のふるさと・鹿児島で、ご兄弟がついた餅を頂いていたので、関東風の〈お雑煮〉を、今夕食には、魚の煮付け、しじみの味噌汁、シーチキンといんげん入りの炒り卵、舘山寺味噌(出来合い)、桃とみかんの缶詰を食べました。美味しそうでした。
(栃木市内を流れる「巴波川」です)
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