栃木の街は、巴波川の舟運で開けたと言われます。河岸の起源は元和年間 (1615~1623年)、この頃から日光社参の〈御用荷物〉を輸送したそうで、江戸からの〈上り荷物〉は、日光御用荷物をはじめ、塩・鮮魚類・ろう・油・黒砂糖・干しいわしなどが、江戸川~利根川~思川を経て、栃木の河岸に陸揚げされ、栃木からの〈下り荷物〉は、木材・薪炭・米・麦・麻・木綿・野菜・たばこ・猪鹿の皮・石灰・瓦などでした。
舟は、〈都賀船(米50俵積み)〉で、「部屋(藤岡町)」まで下り、そこで高瀬船(米200~300俵積み)に積みかえ、渡良瀬川、利根川、江戸に向かいました。江戸までの船路は、約43里(172㎞)あり、急ぎで3日ほど、普通は七日かかったそうです。帰りは帆を使ったり、かこ水主 2~3人で舟につけた綱を、川岸に設けた「綱手道」から引き上げたりしました。
舟運で街の回船問屋は栄え、明治末期から大正期にかけて、立派な土蔵や黒塀などが建てられました。 その名残をとどめる蔵が、川面に映える巴波川は、綱手道が格好の散策路となっており、ここからの素晴らしい景観は、「蔵の街・栃木」の観光名所になっています。
昨日は、その巴波川の河岸の遊歩道を、家内と娘たちとで散策しました。吹く風も弱く、太陽がいっぱいの川面を、鯉が悠々と泳ぎ、鴨が群れていました。冬の陽が川面を照らして、なかなかの風情を楽しんだのです。中国の省立医院で、元旦から一週間、飲まず食わずで体力を落としていた家内には、通院ではない、ひさびさの外出でした。
昼を、江戸期から戦前には、大賑わいだった河岸の食堂で摂ったのです。〈水〉なんとかと言うか歌手が来店して、色紙を書き置きしていていた店で、けっこう有名な店なのでしょうか。もうちょっとこ綺麗だとよかったのですが、味はよかったのです。「赤目鯛の西京焼き」の久し振りの定食に、『美味しい!』と言って満足していました。
その後、「街の駅」のお土産店に入り、昔ながらの工芸品や野菜や果物や漬物などが並べてあって、けっこうな人でした。検査の管や針、点滴の針の痛い思いから解放されての《漫ろ歩き(そぞろあるき)》でした。日曜日に、東京の大学院に留学している学生が、お見舞いに来てくれて、“チャット“で、中国の街の友人たちと、画面を覗き込みながら言葉を、家内が友情を交わしていました。
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