ここで今を

 

 

子どもの頃から、今に至るまで、不可解で不思議なのが、地球の存在です。土と水とマグマを内蔵して自転する惑星なのに、人間が、そこを生活の場にしていることがです。偶然や進化では納得も了解もできずに、未だにいます。ここで人は、愛したり憎んだり、泣いたり笑ったり、喜んだり悲しんだり、生きたり死んだりして来ています。

人が、ここを生活圏にして生きている、全ての均衡とは、どこから来ているのでしょうか。学校で学んだ進化論では、私は納得できなかったのです。高等教育を受けることがなかったのですが、知恵深かった母が、『準ちゃん。地球はね、創造されたの!』を聞いて、やっと納得できたのが、昨日の様です。

私が、作文指導を6、7年していた時に、よく使ったのが「詩」でした。その中に、茨木のりこのものがありました。多感な15才から19才までを、戦時下で過ごした、ご自分の経験を詠んだ、「私がいちばんきれいだったとき」がありました。

その作者に、「水の星」があります。

宇宙の漆黒の闇のなかを
ひっそりまわる水の星
まわりには仲間もなく親戚もなく
まるで孤独な星なんだ

生れてこのかた
なにに一番驚いたかと言えば
水一滴もこぼさずに廻る地球を
外からパチリと写した一枚の写真

こういうところに棲んでいましたか
これを見なかった昔のひとは
線引きできるほどの意識の差が出る筈なのに
みんなわりあいぼんやりとしている

太陽からの距離がほどほどで
それで水がたっぷりと渦まくのであるらしい
中は火の玉だっていうのに
ありえない不思議 蒼い星

すさまじい洪水の記憶が残り
ノアの箱船の伝説が生まれたのだろうけれど
善良な者たちだけが選ばれて積まれた船であったのに
子子孫孫のていたらくを見れば この言い伝えもいたって怪しい

軌道を逸れることもなく いまだ死の星にもならず
いのちの豊饒を抱えながら
どこかさびしげな 水の星
極小の一分子でもある人間が ゆえなくさびしいのもあたりまえで
あたりまえすぎることは言わないほうがいいのでしょう

醒めた作詩者の目で、思索して詩作する思いが鋭く的を得ています。人って、ここを舞台に、父と母から、いのちを受け継いで、七十年、八十年を生きて、後をバトンタッチで任せていくのです。確かに宇宙の衛星が撮った写真の地球は、寂しそうです。 でも、今日も、ここで今を生きなくっちゃ!

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花冷え

 

 

今住んでいる家の前の道路脇に咲いてる「水仙」です。駅までの道筋にある家の庭にも所々で咲いていました。北陸では「雪中花」と呼ぶのですが、ここでは「路側花」です。週始めに撮りました。

 

 

これは、家の庭の隅に咲いていて、同じ日に撮りました。1月10日に来た真冬には、一面枯れ草だけだったのに、巡り巡って、春になったと言うことでしょうか。

今朝は、自転車を借りて、温泉施設の隣にある農協の野菜即売所に行って来ました。10人ばかりの列の最後に並んで、トマト2袋、ブロッコリー2袋、ほうれん草1袋、カブ1束を買って来ました。主夫をしているのですが、新鮮で安いのです。

子どもたちがいる頃、よく出掛けて、たくさん買って帰ったのですが、今は一人、これでも持て余しかも知れません。友人の夫人から、「最強の野菜スープ〜抗がん剤の世界的権威が直伝!〜」の書籍が送られて来ました。《野菜スープ》の勧めです。

温泉施設の川岸の桜は、六分咲きほどでしょうか。今朝は、列の後ろの方が言ってた様に、「花冷え」のする寒い朝です。

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平和

 

 

今朝、二枚の写真を見ました。その一枚は、「東京新聞」の〈孤児たちの闘い〉という特集の中にあった、上野駅の地下道の写真です。戦後間もない頃のもので、一時は千人くらいの人が、街を焼夷弾で焼かれ、両親と死に別れた孤児や、家を失った人たちが、そこで雨露をしのいでいたそうです。新宿の地下道に、戦争孤児たちがいたのは覚えています。

こんな時代が、すぐにでも起こりうるので、二度と再び、あんな悲しくつらい時代がやって来ないように、したいものです。

 

 

もう一枚は、次女が散歩中に撮った、英語では、〈Lesser Celandine(レッサー・セランディン)〉という「ヒメリュウキンカ」“は、キンポウゲ科の野草です。原っぱなどに生えるキンポウゲ科の黄色い花の多くは、同じようにてかりのある花びらですが、ヒメリュウキンカは、茎が短く、葉が地面をおおうようにして生えています。花は、8枚の花弁からなり、これまたツヤのある葉は、ハートの形をしていて、中央からびっしりと大中小の葉がぐるりと取り巻いています。“と説明がありました。

なんの脈略のない二枚の写真ですが、70年余り前と、今の時代を写したものです。やっぱり《平和》が一番ですね。

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ガジュマル

 

 

今朝、あるサイトに、木を避けた道路が敷設されている写真が載っていました。自然保護なのでしょうか、自然への敬意なのでしょうか、人間の考えや便利さを優先しないで、自然の植生を大事にしようとの考えで、道路計画を変更したのは、素敵なことです。

私たちが住む華南の街には、「榕树ronshu」と言うガジュマルの木が、至る所にあります。森林公園に行きますと、《樹齢千年》の大木があって、観光名所になっているのです。街中は、この上の写真と同じで、ガジュマルが優先して、道路や交差点の真ん中に、堂々と立っている姿を、何箇所でも見られます。

日影を作って、市民に涼を与え続けてきたガジュマルは、かけ甲斐のないもので、道路のまっすぐさの方が便利なのに、人や馬車や車が、この木を避け、古来大切されて、市民の手で育てられてきているのです。懐かしく、街中の風景を思い出しております。

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けじめ

 

 

長男家族と、次男夫婦は、ほぼ毎週末、家内の見舞いにやって来ています。先週、私たちの孫が小学校を卒業しました。その前日にも来ていくれたのです。その孫に、『卒業式に何を歌うの?、〈国歌〉や「仰げば尊し〉って歌う?』と聞くと、『仰げば尊しは歌わない!』というのです。

それで、『何を歌うの?』と聞くと、合唱曲「旅立ちの日に」や「大地讃頌(さんしょう)」や「さくら(独唱)」(森山直太朗)などを歌うのだそうです。在校生の代表で、五年生が歌う歌も決まってうるそうです。60年以上も前に、小学校を卒業した世代の私にとって、〈仰げば尊し〉への思い入れは大きいのです。

あおげば 尊し わが師の恩
教えの庭にも はや幾年
思えば いと疾し この年月
今こそ 別れめ いざさらば互いにむつみし 日頃の恩
別るる後にも やよ忘るな
身を立て 名をあげ やよ励めよ
今こそ 別れめ いざさらば

朝夕 馴にし まなびの窓
螢のともし火 積む白雪
忘るる 間ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば

もう先生を「わが師」なんて呼ばないのでしょう。「わかれめ」が「お別れ/離別」という意味なのも分からないかも知れません。「さらば」については、「別れ」の挨拶語に、もう誰も使わないのです。「蛍雪の功」と言った勉学の努力も言わないようです。

この「さらば」ですが、こんな時、中国人は、『再見』と言い、アメリカ人は、“see you again ”と言って、別れの挨拶をします。ところが私たち日本人は、『さようなら!』と言います。この「さようなら」ですが、漢字で書きますと、「左様なら(然様なら)」になります。

古い言い方の、「さらば(然あらば)」も、意味としては同じです。また若い人たちは、『じゃあ!』と言うようですし、私も、学生のみなさんに、そう言ったりします。私の甥の6歳になる男の子が、いつでしたか、『あばよ!』と言ったのには驚かされました。しばらく聞かなかったし、自分でも言わなくなっていた、別れのことばだったからです。

こういった別れのことばは、日本独特な表現だと言われています。こちらの学校で教え始めて、気になったことがありました。学生のみなさんが、ほとんど例外なく、ズルズルと教室に入ってきて、ズルズルと授業を終えて帰っていくのです。それで気になった私は、彼らよりも早く教室に入って、彼らの来るのを待って、一人一人と目があうと、『おはようございます!』と挨拶をし、授業が終わると、ドアーの横に立って、『さようなら!』とか『じゃあね!』と声をかけるようにしたのです。

ですから、私の教室に出入りするみなさんは、代々、どの年度の学生も、挨拶をするようになったのです。しっかりした挨拶用語のある言語なのに、日本人のように律儀にしないのは、それは文化であり習慣であるので、好い悪いの問題にはなりません。

このことを、『どうしてだろう?』と考えてみましたら、私たち日本人は、どうも《けじめ》を付けないと、始まらないし、終わらない、そういった文化、社会なのではないかと思わされたのです。人に会いますと挨拶をし、人と別けれると、『さようならば行きます!』と言いたいわけです。つまり、会ってしばらく一緒にいて、時間が来て、ことが終わったので、帰ろうとしたり、行こうとするときに、『左様でありますから、帰ります!』が、『さようなら!』に省略されて表現されるようになったのです。

「別れ」があって、「出会い」があるこの季節を、懐かしく思い出すのは、私だけではなさそうです。『はじめまして』と言った出会いが、この「別れ」の後にあり、一生別れたくない人が、私にもいます。

 

 

 

「離合集散」、“デジタル大辞泉”には、次のようにあります。『[名](スル)人々がより集まって仲間をつくったり、また別々に分かれたりすること。』とです。三月と四月は、時期的に、人が集まり別れたりする、一年で一番変化の見られる季節だと言えます。

それを祝ったり、悲しみ惜しんだりしながら、明治以降150年、私たち日本人は、それを繰り返して生きてきました。いつも、『どうして?』と思ったことなのですが、『三月三十一日と四月朔日とが人の別れと出会いの境界日に定まった意味は?』です。

「大晦日」と「元旦」の方が、区切りがはっきりしていてよいのにと思ってきたのですが、「年度終わり」と「年度に始まり」は、三月四月に、日本は定めたわけです。“ウイキペディア”に、次のようにあります。

『現在の日本における具体的な年度の例としては、4月1日から翌年3月31日までを括る「会計年度」や「学校年度」などが一般にも用いられる。本来は、種類を特定して使用するものであるが、国の会計年度や学校年度が4月から3月までであるため、単に年度というと、4月からのものを意味するのが一般的である。国の法律でも例えば、国と地方の協議の場に関する法律第4条第1項など、この用例は多い。この区切りは明治時代から続く。』

それを《爛漫の桜花》が迎え見送って来たわけです。一年待って、咲いたと思うと、《十日ほどで散っていく花》なのに、こんなに咲くのを恋い焦がれるかのように待たれ、爛漫さを愛でられ、散るを惜しまれる花は、この日本には、桜以外にありません。

さくら さくら
やよいの空は 見わたす限り
かすみか雲か 匂いぞ出ずる
いざやいざや 見にゆかん

さくら さくら
野山も里も 見わたす限り
かすみか雲か 朝日ににおう
さくらさくら 花ざかり

きっと、「桜の花」が咲き、そして散る時期に、「区切り点」を、「桜」にちなんで定めたかったのでしょう。何時か、兄弟四人で、二人の兄と私が学んだ山奥の「母校」を訪ねたことがあります(弟は学齢前でした)。翌年には、廃校になり、その小学校に最後の校長先生に、その時、お会いしました。何と次兄の担任だった方で、次兄をよく覚えていてくれたのです。

その母校の校庭にも、桜の木が、運動場を囲むように植えられていました。開花の時期ではなかったので、花を見ることはできなかったのです。間も無く、生徒のいない、その校庭に、桜が無言で咲くことでしょう。ここ栃木でも、今週が見頃でしょうか。

 

 

 

この花は、華南のわが家の北側のベランダの「ハナキリン」です(去年の撮影です)。1月10日に、慌ただしく家を出ましたので、ベランダの花や植木を、そのままにして帰国してしまいました。雨が振ればかかりますから、もしかすると、大丈夫かな、と思ったりしています。

 

 

このアサガオは、次男が持って来てくれた種を、去年の春に、家内が発芽させて植えて、花開いた写真です。同じ町の四番目に住んだ家ですが、主人(あるじ)不在の今、どうなってることでしょう。

親しいご婦人に鍵を渡してありますので、きっとお世話してくださっているかも知れません。隣家の「ベランダ会議」のおばあちゃん(二人のお孫さんをお世話されています)にも、何時もはするのですが、帰国の挨拶をしないままでした。

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応援団

 

 

この花は、「ネモトシャクナゲ(根本石楠花)」です。福島県の県花に選ばれています。8年前、津波によって甚大な被害を被った原子力発電所は、どう処理ができたのでしょうか。それとも遥か将来にも禍根を残していくのでしょうか。住みよい県になるように切に願う、私も、福島県応援団の一人です。

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輝き

 

 

「化外」と言う言葉があります。「かがい」と読みます。かつての中国は、「中原」という中心地以外を、 「化外」としたのです。さらに、そこを「四夷(東夷〈とうい〉、北狄〈ほくてき〉、西戎〈せいじゅう〉、南蛮〈なんばん〉)」と呼んで、蛮族の扱いをしました。

若い学者の柳原恵が、「〈化外〉のフェミニズムー岩手・麗ら舎読書会のおなごたち」という著書で、書名に使っている言葉です。社会的な立場の弱い女性が、まるで遠くに追いやられた民のように、「化外」に置かれているという少々自嘲的な言い回しです。

私は、母と家内、私を教えてくださった内山先生、宇津木先生、佐藤先生、同級生たちを見て、接してきて、女性が「化外」の人などとは思ってきたことがありません。一人の人として、立派に生きておいででした。

高校で教えていた時に、3年生の「ゼミ」の授業で、「青踏社(せいとうしゃ)」の動きを高校生たちと調べたことがありました。その働きの中心にいたのが、明治、大正、昭和を生きた平塚雷鳥(1887~1971年))でした。女権を主張し、新しい女性の生き方をし始めたのですが、22歳で心中事件を起こしたり、事実婚であったり、旧来の「女性の枠」を超えられない生き方をしていた女性でした。

『原始女性は太陽であった!』を掲げながらも、恋や愛に流されて、ついには傷ついてしまう、そんな女権主張者の印象が、この方に強すぎて、デボラやルツやプリスキラやルデヤのようではなかったのは残念なことでした。世に、何も訴えようとしなくとも、一人の夫の妻として、子たちの母として、精一杯に、平凡に生きた女性の方が、さらに輝いているのを実感したのです。

不平不満を口にしない、人の悪口を言わない、噂話をしない、これが母と家内に共通しているのです。それが、どんなに素晴らしい「女性観」を、自分に形作ったか知れません。「相応しい助け手」、なんと凄い存在と務めを、女性は得ているのでしょうか。