ちょっと運動不足のようで、次女に急かされて、久し振りに、今朝散歩をしました。市役所の建物の横から、巴波川(うずまがわ)の河岸の道を、上流の方に歩いて行き、古い家屋が少ないところに行ったので、折り返して帰って来ました。

この近辺には、旧県庁舎、市立中央小学校、県立栃木高校などがあり、かつての街の中心、官庁街だったのでしょう。現在では、県庁は宇都宮に移り、市役所も移転して、空き地や空き家が目立っています。

その市立中央小学校の校庭に、先日の散歩で、「二宮金次郎」の像を見つけたのです。私が入学した中学校の校舎の玄関の脇に、同じように、薪を背負った金次郎の像があって、『金次郎の様に学びなさい!』と、創立者の校長は言いたくて、置いたのだと思います。

金次郎は、後年、尊徳と呼ばれ、内村鑑三によると、「代表的日本人」の一人として取り上げています(⇨「青空文庫」のサイトで読むことができます)。小田原の栢山(かやま)という村の農民の子として、1787年に誕生しています。幼い日に、近くを流れる酒匂川(さかわがわ)が決壊し、父の田圃が流失してしまいます。

そう行った過去があってでしょうか、荒廃した村に行っては、「村興し(むらおきし)」をし、農業を振興させさせた、金次郎の貢献は多大だったのです。両親と子どもの頃に死別していて、祖父に育てられています。本を読む油を無駄だと言われ、自分でアブラナを植えて、燈油を採って利用する賢い人だったそうです。

学校にある「金次郎像」には、次のような経緯があるようです。「これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金治郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとすることで、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金治郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われ・・・(ウイキペディア)」とありました。

単に、学業に励むという意味ではなく、国に役立つ人間を作るのに、金次郎は利用されたのです。教育者は政治家とは違う動機があったのでしょうか、でも中学生の私たちに、『東大へ進学し、校名を高めよ!」との鼓舞(こぶ)があったのかも知れません。

今の教育者は、金次郎に、何を語らせようとしているのでしょうか。私を指導してくださった、学校や私塾の恩師たちからは、素晴らしいことを教えていただき、人として生きる道を確かにされた感謝は、実に大きいのです。

(次女が撮った校庭の隅の「金次郎像」です)

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