スカーフ

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今まで、人から聞いたことばの中に、一番多かったのは、〈頑張れ〉だったでしょうか。中学校に入った時に、担任に呼ばれて、『東大目指して一生懸命学びなさい!』と言われました。またバスケットボール部に入って、上級生や先輩たちから、『母校の名誉のために勝て!』と言われたのです。

同じ学校の高等部に進んだ時、先輩から受け継いだ渾名の〈オジイ〉と呼んだ、私のクラスの担任は、もう諦めたのでしょうか、檄(げき)を飛ばすことはありませんでした。それで、ハンドボール部に入って、ボール投げに興じたのです。

インターハイや国体で、何度も優勝してきている伝統ある名門でした。練習が厳しくて、部員が少なく、当時11人制の定員ギリギリでした。それでも東京都では準優勝し、インターハイも国体も、私たちの時代には行けませんでした。〈頑張らざるを得ない〉時でした。

父が、『金は残さないが教育だけは受けさせてやる!』と言って、大学に行かせてくれました。アルバイトに集中で、あまり一生懸命に学業に励みませんでしたが、社会経験は、一応積んだのです。人生の先輩たちから、良いこと、もちろん悪いことも学ばされ、取捨選択能力も培ったのです。

結婚して、家内と4人の子を、養い育てるために、懸命でした。食料は運んだのですが、実質的な子育ては母親である家内がしてくれました。私は、一生懸命に副業を持ちながら、仕事に励んだのです。風邪など引いたりする暇はありませんでした。息抜きは、山の温泉や都会の入浴施設に行くことだっただしょうか。

退職で、長年して来た仕事に一区切りつけて、若い日から、『僕も行くから君も行け 狭い日本にゃ住み飽いた 海の彼方にゃ支那があり・・・』と歌わされたのですが、〈馬賊〉になるためではなく、『来て下さい!』、『行って下さい!』、静かな細い声で、『一つの街に、あなたを引いて行くから!』と聞いて、その声に応答するために、中国大陸に渡りました。

人生経験の長い年配者がいることを喜んでくださる中国のみなさんと、《若き友情》を育み、国や民族や歴史の経緯(いきさつ)を超えて、ここまで13年を、その一つの街で過ごしてきたのです。もう全く、〈頑張る〉ことはありませんでした。開くドアー、流れる水、動く車に身を任せての生活でした。

昨日、家内の助けをしてくださっているご婦人が、『夢を見ました!』と言ってこられました。『実は昨日、お昼頃、飛行機の中で、ご夫婦が私の街に帰ってきた夢を見ました。私は会いに飛んで行きました。師母がマフラーをかけて身軽に踊っているのをはっきり見ました。美しい姿、また嬉しそうな顔‥‥‥』とです。

私の願いは、家内と二人で、また華南の街で、愛する若いみなさんと一緒に交わり、生活することなのです。

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