『人は生きている限り、可能性に満ちている。』、私が4年間学んだ学校で、まだ若い専任講師時代の恩師が、頬を紅潮させ、情熱的に講義の初めに話したのです。「公的扶助論」という講座でのことでした。
淡々として、教壇から語る教師がほとんどでしたが、まだ二十歳の私たちに、同じように感じて欲しかったのでしょうか、訴えかけ、喚起させるように話したのが、昨日の出来事のように思い出されます。
この講師は、その前週に、滋賀県の「近江学園」を見学して帰ってきたばかりでした。そこは、糸賀一雄と言う人が、重度の心身に不自由を持つ児童の世話しようと、開設したホームでした。そこでの体験談を、熱く話してくれたのです。
『何一つできないのに、入浴している時や、日光浴をしている時に、あの子たちは、なんとも言えない喜びの表情を表すんだ!』と、そう言ったのです。それを聞いた私は、何でもできる身体と思いを持ちながらも、不平だらけで生きていたのです。
そんな私への聞き流せなかった、《鉄槌のことば》でした。それで、自分が持っている《可能性》に目が開かされたのです。そればかりではなく、すべての人が《可能性》に満ちて生きているのだということが分かったのです。それで教師になろうと決心したのです。
スポーツをして、男っぽく生きてきた自分が、重度の障碍を持って生まれてきた子に関心など向けたことが、それまでありませんでした。でも、その講師のことばは、私の心の目を開いたのです。たくさん聞いてきた《ことば》の中で、私が聞くべき《ことば》だったのです。
それ以来《ことばの重さ》を感じ続けています。人を生かしも殺すもするのが、《ことば》なのです。軽率に語って、何度人を、私は傷つけてきたことでしょうか。《人を生かすことば》を語り、人の《可能性》を引き出してみたいと思う早暁です。
(琵琶湖の景色です)
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