食事処めも

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 偶然に出会ったブログに、「゜+.(・∀・)゜+.゜伊那市近辺の食事処めもー!」があり、もう何年も愛読しています。どうして愛読してるのかといいますと、「食べ物屋さん」を、食後談と写真とで紹介しているからです。奥様と一緒にでかけて、美味しかったり、印象的だったことを記されています。おもに、長野県南部「南信」を中心に紹介されていますが、時には、京都や佐渡や東京や沖縄などにも行かれて、その記事もあります。

 どのような仕事をされている方なのかわかりませんが、写真撮影の技術が素晴らしいのです。ずいぶん高級なカメラを使っておられるのを写した写真がありました。だからといって写真屋さんではないようですが。『写真使用可!』とのことで、私のブログにも、この方の写真を使わせていただいたことがあります。最初の孫が、飯田市で生まれましたので、この地域の名物である「蕎麦」や「ローメン(羊の肉を使った焼きそば風の麺類)」や「ソースカツ丼」などを、婿殿に誘われて食べる機会があったのですが、それらを商う「食堂」が紹介されているのです。『帰国したら、「南信」で、あまり口いしたことのないフランス料理を!』と思うのですが、一人での帰国で、わざわざ出かける勇気もないまま、行かずじまいで、こちらに戻ってきてしまうのが常なのです。

 こちらにも、「日本料理店」が多くあります。私たちのアパート群の道路を挟んだ向こう側の「モール」の中には、寿司屋が二軒もあります。バスに乗ってでかければ、新鮮なネタの刺し身も食べられるのです。前期の授業が終わって、食事に招いてくださったのも、そんな店でした。大陸で、鮮度の高い生物が食べられるというのは、砂漠の旅人が「オアシス」に巡り合うような感じなのかも知れません。ときたま人が来られた時など、『「清水の舞台」から・・・』で、でかけて贅沢をしています。でも、山の中の南信の「食べ物屋さん」が作る、写真に写る「焼き魚」や「丼物」の日本料理には、目が引き寄せられて、つい涎が出てきてしまうのです。何十年も食べてきたものは、そんなものなのでしょうか。

 もちろん中華料理は美味しいのですが、「化学調味料」と「油」が強いので、サッパリ系(!?)の私は、毎回は無理なのです。それでも、この地方独特の「麺」があって、家内と帰りがけが昼には、ちょくちょく食べます。数種の野菜と肉と牡蠣と蛯などが入ったもので、好物の一つです。実は昨日の日曜日も出先から戻って、アパートの正門の近くで、食べてしまいました。どうも食べ物の話になったと思いましたら、「お昼」が近くなって来ましたので、それでは。

(写真は、このブログに掲載されている「ローメン」と「フランス料理」です)

迷宮

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 新宿も、渋谷も、都電が走っていた小学生のころから、時々、乗り降りしていましたから、駅の構内や乗り継ぎがわかっていました。ところがオリンピックが開催される前後から、町も駅も大きく変わっていったのです。新宿駅の出口がなかなかわからなくなってしまったり、乗り継ぎに苦労してしまいました。渋谷の駅も、以前は乗り継ぎが簡単だったのですが、近年、ずいぶんと複雑になってしまい、たまに行くと、もう「お上りさん」然として、迷ってしまいます。それは東京全体の事になってしまったようです。

 長男が志木市に住み、次男が代官山に住んでいます。東急東横線で渋谷に出て、そこから東京メトロ副都心線が乗り入れしてる東武東上線直通で、次男の家から長男の家に行く便利さを楽しむことができます。ところが、この3月16日から、東横線と副都心線が直通になったわけです。それはそれは便利になったので、今度帰国したら、ぜひ利用しようと思っています。

 ところで、交通工学の専門家ではないのですが、東急東横線の地下への移動し、副都心線に直結する計画があると聞いたころから、なんとなく思っていたことがありました。渋谷から乗り込む副都心線ですが、いつも乗客が少ないのです。また、副都心線の渋谷での降車客も、他の路線とくらべて『少ないな!』と感じていました。利用客数から言うと、東横線は、「銀座線」とつなげたほうが便利なのではないかと思っていたのです。そうならなかったのは、たぶん渋谷の駅の構造からして、たぶん無理だったのかも知れませんが。

 昨日の渋谷駅の「地下迷宮(めいぐう/めいきゅう)化」のニュース記事を読んで、そう思っていたことが正解だったのではないかと思ったのです。『日本の土木工学の技術でしたら、さして問題ではないのでは?』と思っているのですが。もう、「後の祭り」になってしまいました。何十年も電車を走らせてきた会社が、頭脳を働かせて計画したのですが、現実は厳しいようです。世の中が複雑怪奇になって、駅までもが、「迷宮」になってしまったら、実に面倒でついていくことができません。

 今度帰ったら、渋谷からではなく、恵比寿の駅から歩いて、次男の家に行こうと思っています。来月帰国をする家内にも、『渋谷でまごまごして迷子になるよりも、恵比寿のほうが・・・』といってあります。街は生きていて、大きく変化してしまいます。何年ぶりかに帰ってきた人にとっては、大変なことではないでしょうか。子どもたちがアメリカで学んでいた頃に、いない間に引越しをしてしまい、帰ってくる家が、何度も変わっていて、慌てていたことを思い出します。「引越し魔」の父親を持ったことの悲劇でしょうか。

 昨晩は、大家さんが、ご自宅に、食事に招いて下さり、家内といってきました。大変なごちそうを作ってくださったのです。中国人の「もてなし」には、いつも驚かされます。今度わが家に招くとき、「タコライス」をしようかと考えています。何度も作ってお客さまを迎えたことがありましたので。久しぶりなので、楽しみです。

(写真上は、「東急電鉄・渋谷駅[東横線と副都心線の駅名表示]」、下は、かつての「東横線ホーム」です)

恩師

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 「水呑み百姓」とは、gooの辞書によりますと、『江戸時代、自分の田畑を持たず、検地帳に登録されない小作・日雇いなどの下層農民。貧しい農民。無高百姓。 』とあります。一般的に、貧乏な農民を、そう呼ぶようです。そんなことを興味深く聞いたせいでしょうか、小学校の授業で、一番好きだったのが「社会科」でした。地理も、政治や経済のことも好きでしたが、最も興味を覚えたのが「歴史」でした。しかも、「日本の歴史」だったのです。興味があるので成績もマアマアだったのですが、K君にはかないませんでした。お父さんが、紳士服の仕立てをしていて、彼は、「小学◯年生」の付録に、いま習っている個所の「学習補助書(アンチョコ)」を持っていたのです。それを読んでは、いろいろな答えを誰よりもしていたのです。そのことを知る前は、『どうして、そんなことまで知ってるのか?』と感心しながら、彼の答えを聞いていたのです。ところが、だいぶたってから、「付録」からの知識だと知った時から、『何だそうだったのか!』と思ったのです。

 だからといって、私は、父に、『月刊の「小学◯年生」を買って!』と、ライバル意識を燃やして頼むことはしなかったのです。そのかわり、教えてくれたことを、興味津々で聞き続けたわけです。小学校を三月に卒業しようとしていた、年の暮れに、父が私立中に行くように言ってきたのです。兄たちと同じように、町の中学に行こうとしていたのにです。それで、「受験勉強」をし始めました。当時、私立中学に行くのは、田舎町の同級生では、国鉄の駅の近くで、工場を経営していた家の女子だけでした。彼女は、同じ学校の女子部に行きました。私の同級生には、医者、中央競馬会の調教師、大きな商店の息子たちが多くいました。入れてもらった中学の担任(三年間)だったのが「社会科」の教師だったのです。K先生は、三十代の中頃だったでしょうか、頭は薄かったのですが、髭の濃い方でした。4、5人の級友とで、お宅に押しかけた時、お兄さんの家の二階に、ご家族で居候していました。りんご箱が、机だったので、驚きました。「東大卒」と「りんご箱」が繋がらなかったのです。

 始業のベルが鳴る前に、この先生は、壁掛けの地図などの様々な補助教材を手に抱えてやってきて、必ず教壇から一歩降りて、挨拶をしていました。また復習のために、B4版のわら半紙を、4分の1に切った用紙に、問題を作って配布してやらせてくれました。当時は、「ガリ版印刷」でしたから、手間隙をかけて、丁寧に教えてくれたのです。そのおかげで、ますます「社会科」が好きになったのです。ところが、中学2年の夏ごろから、バスケット部にいたせいもあり、意志が弱かったこともあり、烟草を覚えたり、大人の世界に興味を向けて、勉強から遠ざかってしまったのです。それでもなぜか、「実力考査」の成績はまあまあだったのです。中3の最後の成績表の中に、『よく立ち直りました!』と、担任が書いてくれました。そのままズルズルと行かなかったのは、父や母の陰からの応援のせいだったのでしょうか。まあ危機を越えたのでした。

 そんなこんなで、母校の担任の同僚の先生の紹介で、仕事にありつき、教員にならせてもらったのです。しかも、担任と同じ「社会科」の担当でした。こういうのを「三つ子の魂」なのでしょうか。ところで、あの頃のライバルのK君は、どんな道に進んだのか知りませんが、私は好きな「社会科」で飯を食う事になったわけです。人生の導きというのは、実に不思議な「出会い」があってのことだと、振り返って、つくづくと思わされています。恩師の消息を聞きませんが、お元気でしょうか。そんなことを思っている週末の土曜日の朝であります。

(絵は、江戸期の農村風景です)

「尋ね人の時間」

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 日本放送協会を「NHK」と言いますが、テレビが放映されるまで、毎日の情報は、このラジオ放送と新聞が担っていました。父の家の茶の間で、炬燵の周りに座って食事をとった部屋の壁際に「物入れ」があり、その上に、「ラジオ」が置かれていました。寝る時以外、家に誰かがいる間は、何時も放送が流れていて、なんとはなく聞いていました。とりわけ病欠児童だった私は、学校にいなければならない時間帯に、咳や微熱に苦しみながら、布団の中で、耳を傾けていたのです。ですから、同世代の中で、ラジオ放送を、最も多く聞いていたのではないでしょうか。だから「ラジオが友達」といった感じでした。

 放送されていて記憶が鮮明なのは、午前中は「名演奏家の時間」でした。寝ていても、お腹だけは空いた食いしん坊の私は、「ひるのいこい」のテーマ音楽を聞いて、『お昼だ!』と知ったのです。その番組の中には、「◯◯(名前)農林水産通信員」の報告などがありました。どの番組も、 テーマ音楽が、始めと終わりに流れていたのです。あのメロディーがふと思い出されては、「胸キュン」になることが時々あります。

 そんな中で、最も印象的だったのが、午後に放送されていたと思うのですが、「尋ね人の時間」でした。その頃の放送内容が、ウイキペヂアに、次のように書き込まれてあります。

  『旧満洲国黒龍省チチハル市の○○通りで鍛冶屋をされ、「△△おじさん」と呼ばれて
  いた方。上の名前は判りませんが・・・ 』

  『ラバウル航空隊に昭和19年3月まで居たと伝え聞く○○さん、xx県の△△さんがお捜
  しです・・・ 』

  『昭和○○年○月に舞鶴港に入港し引上船、「雲仙丸」で「△△県の出身と仰りお世
  話になった丸顔の○○さん・・・ 』

  『これらの方々をご存じの方は日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は
  東京都港区内幸、内外(うちそと)の内、幸いと書いて「うちさいわいちょう」です 』
  
 父は軍人ではなく、「軍需工場」の仕事に従事していましたので、戦地には行きませんでした。また、山の奥に住んでいましたから、戦災に遭わず、母も兄たちも家にいました。それで、「尋ね人」が、よく理解できなかったのです。でも、家族や知人を捜している人が多かったことだけは分かりました。家内が育った北多摩の街には、「引揚者住宅」があって、同級生の何人もが、そこから学校に通っていたのだそうです。お腹をすかして、貧しかった時代でしたが、一生懸命に生きていたのです。わが家は、「すいとん」をよく食べましたが、食べ物に窮することはなく、恵まれていたのかも知れません。感謝なことです。

(写真は、1955年当時使われていた「ラジオ」です)

陸奥の歴史

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 上海の街中を、「黄浦江 」が流れていて、この流れの岸に、「上海国際港」があります。1月に乗った「蘇州号」が、週一の往復便で、大阪との間を航行する発着港も、その「外灘」にあります。最近の上海のニュースで、「豚の死骸」が、その上流から1万3千匹も流れてきたと報じていました。どうも、その上流の養豚農家が、病気に感染したので、処分に困って、[水に流した」のです。この「水に流す」を、goo辞書で調べますと、『過去のいざこざなどを、すべてなかったことにする。「これまでのわだかまりを―・す」』とあります。

 この言葉の意味を教えてくれたのは、国語の教師ではなく、歴史や地理の「社会科」を教えてくれた中学の時の担任でした。「陸奥」、東北地方では、冷害などで凶作に見舞われることが多かったのです。今でこそ改良に改良が加えられて、新潟や秋田などでは、「こしひかり」とか「あきたこまち」の人気銘柄が収穫されるようになってきていますが、この地域は、かつての凶作地でした。現在では、米作農家は、豊かな時代を迎えていますが、かつては極貧に甘んじていたのだと教えられました。

 農家では、赤ちゃんが産まれると、『食べていけない!』という現実に、生まれてくる子どもを処分をしてしまったのです。「間引く」という言葉も、本来は、米の成長に不要な苗を引きぬくことを言った言葉でしたが、こういった場合にも用いられた言葉でした。さて、「水に流す」というのは、その生まれてきた赤子を籠に入れて、川の流れに、流してしまったのです。先に生まれてきた子どもたちの生き死にを考えた結果、どうしても子育てが出来なかった農家の若夫婦は、その赤ちゃんを「水に流・・・」してしまったわけです。どんなにつらい決断だったことでしょうか。

 北上川という川が、岩手県から宮城県にかけて流れていて、石巻で太平洋に至ります。この川は、くねくねと蛇行していているのです。その蛇行するところに、「地蔵」が多く見かけられるようです。どうしてそうなのかといいますと、「水に流した」赤ちゃんが、その浅瀬に流れ着いていたので、地元の人たちが、亡くなった赤子のために作ったからだそうです。ずいぶんと悲しい歴史が、日本、とりわけ東北地方にあったのだと、教えられて、胸が詰まったのを覚えています。このことは、温々と大事にされて育った私にとっては、『そんな出来事が本当にあったのか!』と思わせた、衝撃的な学びだったのです。

 東京オリンピックのために、高速道路やビルのなどの土木建設が行われ、特別な産業がなかった、東北の農家の働き手が、その労働力として求められ、いわゆる「出稼ぎ」が行われたのです。今では、言葉だけが残ってしまった感がいたしますが。その労働者たちの悲哀を歌ったのが、「山谷ブルース(岡林信康の作詞、作曲、歌)」でした。経済大国になった影に、そういった過去を持つ世界があったということは、忘れてはいけないことのようです。

 そんなことを教えられた私は、東北が怖くて、なかなか旅行することができませんでした。高校の時の修学旅行が北海道でしたが、その時の列車に乗せられて、車窓から東北の夜の町を眺めたのです。その教わった悲しい過去が思い出されて仕方がありませんでした。どこにも、誰にも、人に語れない過去があるのでしょうか。いまの平和と繁栄に感謝するとき、覚えておくべきことの一つかも知れません。

(写真は、東北有数の河川の「北上川」です)

#はるがきた♭

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 すっかり春の気配をみせてきたからでしょうか、毎朝、実に綺麗な声の小鳥のさえずりが聞こえてまいります。隣のアパート群との間に、背の高い木が植えられていて、きっと以前からあったのだろうと思うのですが、その林に飛んでくるのか、その梢の巣で一夜をを明かしたのでしょうか、ひときわ抜きん出て、美声でさえずる鳥がいるようです。『朝だよ!』と、春眠から目覚めさせてくれるのです。

 このところ、街の中をバスで走りますと、木々には、みじかい冬の間、縮こまっていた蕾が、一輪一輪とほころび始めてきています。落葉した木にも、若葉が芽生えています。今朝、学校の4階の教室から、外を眺めていましたら、あわい薄緑の色の葉が、春の陽にキラキラと輝いていました。絵心のない私でさえも、その淡色の緑色の絵の具を買ってきて、画用紙の上に塗ってみたい衝動にかられて参りました。

 どの季節にも趣がありますが、寒く縮こまっていた冬の後ですから、ことのほか「春」の到来は、喜ばしく感じられてなりません。故郷の谷間から見上げた山肌の見覚えのある「青葉若葉」を思いださせるほどです。昨年の秋に出かけた、山の中は、もっと春を感じさせてくれるのでしょうか。時間があったら、街の北にある「森林公園」に行ってみたいものです。聞くところによりますと、桃の花は咲き終わってしまったそうですが、ほかの花が咲き始めていることでしょう。

 昨日の一年生の「会話」の授業で、教科書にある歌を見せられた私は、『歌ってみて下さい!』と頼まれて、つい歌ってしまいました。

   一、
    春が來た  春が來た
    どこに 來た
    山に來た 里に來た 野にも來た
   二、
    花が咲く 花が咲く
    どこに咲く
    山に咲く 里に咲く 野にも咲く

 歌い終わったら、学生のみなさんが拍手をしてくれました。みんな、春が好きなのでしょうか。もちろん、この私も「春」が好きです。きっと「夏」になっても、「秋」になっても、また「冬」が来ても、『好きです!』ということでしょう。

(写真は、梢に芽吹いた若葉です)

あめ

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     春雨のやまんとしつつ美しく   星野立子

 昔は、「霧雨(きりさめ)」、「涙雨」、「小雨」、「小糠雨(こぬかあめ)」、「慈雨(じう)」、「時雨(しぐれ)」、「驟雨(しゅうう)」、「通り雨」、「夕立」、「氷雨(ひさめ)」とか、美しい日本語で雨を表現していました。「雨」の読み方も幾通りもあって、日本語の面白さではないでしょうか。どうも俳句や短歌を作る心の余裕のある雨が降っていて、情緒があふれていました。ところが、最近では、「豪雨」、「集中豪雨」、「ゲリラ豪雨」、「ゲリラ雷雨」などといった響きの怖ろしい言葉をよく耳にしております。

(絵は、歌川広重作の「名所江戸百景」で、夕立ではないでしょうか)

 米海軍のサミュエル・J・ロックリア司令官が、最近、温暖化による影響が、気候変動を起こし、その脅威は、長期的に見て、おどろくほど激しくなるのではないかと予測しています。『それほど遠くない将来、海面上昇の影響を受ける国々が出てくる可能性はかなり高い!』、『天候のパターンが過去に比べて激しいものになっているのは間違いない。たとえば、西大西洋で発生する巨大な台風の数は、例年17こ程度だが、今年(2013年)は27~28個にもなりそうだ!』と、予測しています。フィリピンの近くで「台風」が発生し、そこからさまざまな方角に進路をとって猛威をふるっています。またビルマの周辺では、「ハリケーン」が発生していますし、最近ではインドネシアや日本で大きな「地震」が起こり、「津波」の規模も甚大になっています。

 「海と波があれどよめき・・・天の万象が揺れ動かされる」といったことが古来言われてきておりますが、雨一つみても、尋常な量ではありません。排水路が容積を超えて、地下鉄の入り口から、雨水が流れこんで、東京でもニューヨークでも、利用者の足を奪うような問題も起きています。これまでは、何かの力によって、制御されていたのではないかと思うのです。このところの、予想外の降雨量をみますと、押しとどめていた手が引っ込められてしまったかのように感じられてならないのです。何だか、人間の心が荒れて、優しさが少なくなり、思ってもみなかった「心の荒廃」」が、自然界の均衡を崩しているのではないかとさえ、思ってしまいます。

 童謡に、北原白秋の作詞、中山晋平の作曲の「あめふり」があります。

    あめあめ ふれふれ かあさんが
    じゃのめで おむかい うれしいな
    ピッチピッチ チャップチャップ
    ランランラン
    かけましょ かばんを かあさんの
    あとから ゆこゆこ かねがなる
    ピッチピッチ チャップチャップ
    ランランラン
    あらあら あのこは ずぶぬれだ
    やなぎの ねかたで ないている
    ピッチピッチ チャップチャップ
    ランランラン
    かあさん ぼくのを かしましょか
    きみきみ このかさ さしたまえ
    ピッチピッチ チャップチャップ
    ランランラン
    ぼくなら いいんだ かあさんの
    おおきな じゃのめに はいってく
    ピッチピッチ チャップチャップ
    ランランラン

 この童謡が発表されたのが、1925年、大正14年の11月だったそうですから、社会がゆったりして、人情の熱い時代だったことになります。優しい男の子の心遣いがなんとも言えませんね。去年の秋だったでしょうか、町こちらの街をブラリと歩いていましたら、「番傘」、つまり、この歌の中に出てくる「蛇の目」が売られていたのを見かけました。竹と紙で作られた雨傘です。子供の頃には、雨降りの日に、この傘をさして小学校に通っていたことを覚えています。もちろん下駄履きでした。その蛇の目に落ちてきた雨も、『ピッチピッチ チャップチャップ!』の優しい雨だった記憶がありますが。

のびる(野蒜)

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      みちのくの ひとはかなしや 野蒜掘る      山口青邨

 「みちのく」とは「道の奥(僻地や田舎のことでしょうか)」で、漢字表記にしますと「陸奥」ですが、東北地方を、古来、そう呼んでいます。よく気候異常で、凶作や不作に見舞われた東北のことが、日本史の中に出てきて学びました。盛岡生まれの山口青邨(せいそん)は、凶作で食べ物に事欠いた東北のみなさんが、米は採れないが、畔道には、冷害に見舞われても生い出る「野蒜」を掘って、食糧にした悲しい歴史があったことを詠んだのでしょうか。

 日本語では、「いなか」を「田舎」と漢字で書きますが、中国語は「郷下(乡下xiangxia)」と言います。日本語よりも、「いなか」の雰囲気が強烈に伝わってくることばではないでしょうか。その反対の「都会」を、「城市chengshi」と言い、大きな街を「大城市」と言うようです。私たちが住んでいる所は、省都でありますので、「大城市」になります。新しく開発された地域に住んでいますので、「◯◯市◯◯区◯◯路」と住所表記をするのですが、どうも以前は、「◯◯市◯◯县◯◯镇建新村」と呼ばれていたようです。「县xian」は県(縣)、「镇zhen」は県の下にある町を言うようです。その名残の表示が、壁に記された表示に見られるのです。

 昨日の集合場所は、予定変更で、師範大学の一停留所手前のバス停の近くで、待ち合わせて、バンに乗せて頂きました。そこから1時間半ですと、郊外よりも遠い、「田舎」になるわけで、昨日は、その「乡下」へ週末の小旅行をしてきたわけです。今日(日曜日)、一緒に出かけた方たちと会いましたら、「野蒜(のびる)」を頂いたのです。昨日、腰掛けて談話をしていたので、野蒜摘みに行かなかった私たちのことを覚えていて、分けて下さったわけです。「味噌汁」の具にすると、春の香りがして美味だと、ウイキペディアに書いてありましたので、夕食には、作ってもらうことにしています。この「のびる」は、私の育った街では「のびろ」と呼んだように記憶しているのですが。

 天津にいた時に、北の方の人たちが好んで食べるものに、小麦で焼いて作った「饼bing(お餅と煎餅の〈餅〉」がありました。日本で言う、「お好み焼き」の簡単なもの、韓国料理ですと「チヂミ」でしょうか。あまり具だくさんでないので、かえってシンプルで美味しいのです。華南の地では、小麦粉を「麺(中国語は〈面〉で〈麦〉をとってしまっています)」にして、煮込んだり、焼きそば風にしものの方が好まれるようですが。こちらに来てから、この「饼」を自分で作ってみたことがあり、結構いけたので、今晩は、「野蒜」もありますので、久しぶりに焼いてみようと思っています。野蒜の玉(球根)と葉の部分を細かく刻み、長葱ときゃべつも同じようにし、肉のミンチを小麦粉を溶いたのに入れて、フライパンで焼いてみようと思っています。きっと美味しくでき上がることでしょう。今日は半袖で大丈夫な「全くの春」の日曜日であります。そこで一句。
   
      源格の 野蒜もらいて ビンをやく     廣田雅仁 

(写真は、「野蒜」です)

「源格村」への春の一日

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 春晴れのもと、バスと自家用車に分乗して、総勢五十人ほどのグループで、車で1時間半ほどの「源格村」に出掛けてきました。咲き誇った菜の花の黄色が、青空に映え、春のそよ風が頬を撫でていく田舎の村でした。空気は美味しいし、「木苺」がなっていて、それを摘んで、口に含んだら、幼い日が蘇ってくるほどでした。清の時代に、県知事に任命された人の「記念の石版」が、訪ねた家から15分ほど小高いい丘を登り切ったところにある作業小屋の入り口に、踏み板になって使われていました。きっと、この家の何代も前の方のものなのでしょうか。『そんなに由緒ある「石版」を、こんな使い方をしていいのかしら?』と思わされましたが、何もいいませんでした。

 こういった季節と自然を感じられる小旅行が、毎年春と秋に行われていて、いつも誘われて、時々参加させてもらっています。この家の若婦人が、もち米を蒸して、それに「野沢菜(日本の物とまったく同じです)」の漬物と、「ぜんまい」の茹でたをのせて、その上に、またもち米をのせたのを、歓迎の意味で振舞ってくれました。昼にはだいぶ早かったのですが、空気は美味しいし、小腹も空いていたので、実に美味しかったのです。まるで日本の味でした。歌ったり、ゲームをしたり、また語り合ったりしてから昼ごはんには、用意して持っていった食材、牡蠣とアサリと豚肉と青菜等の入った麺を作ってくれて、食べました。村中が見下ろせ、山も迫り、自然がイッパイでした。すぐ近くの「豚舎」から、きつい匂いがやって来ましたが、それも自然の内、苦もなく美味しくいただくことができました。

 食後には、見栄えは悪いのですが、この時期に取れるのでしょうか、甘い「夏ミカン」のような柑橘類を食べ、丘の中腹にある「オリーブの木」から、木の枝に登ってゆすり落とす実を拾いました。子どももいましたから、大歓声を上げて拾ったのです。都会から脱出して、田舎に出かけるというのは、「原点回帰」になるのでしょうか。子どもの頃に、兄たちの跡を追って山の中に分け入ったことがありましたから、山村生まれの私にとっては、「故郷回帰」のようでありました。植生も、山の姿も、人情も、村人の表情も、日本と全く同じでした。
  
 私と家内が乗せていただいた車は、「面包車mianbaoche」というバンで、運転は穏やかなのです。ところが、ただ行きも帰りも、ハラハラの連続でした。対向車も後続車も、追い越し禁止の道路で、酷く危険な追い越しをしているのです。日常的に、これが行われているのですから、運転手は大変だと思いました。日本よりも道路の幅員は広いのですが、『こちらでは絶対に運転しない!』と、改めて思わされるほどでした。以前は、今ほど車が多くなかったので、こういった危なさを感じなかったのです。しかし今年は、その危なさに度肝を抜かれた感じでした。車の数の増え方が、ものすごいのです。しかも、高性能な外車(日本やドイツやアメリカ製です)の割合が非常に高いのです。それなのに、運転が荒すぎるのには驚きです。今後事故が頻発する予感がしています。これさえなければ、郊外への小旅行は楽しいのですが。

 別れ際、歓迎してくださった夫妻、若夫婦と7ヶ月のチビちゃんが、笑顔で挨拶をしてくれたのが印象的でした。無事に帰れて、よい春の一日でした。外は、そろそろ暮れなずんできたようです。

(写真は、「菜の花」の咲き誇る畑です)

三寒四温

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 「三寒四温」とは、よく言ったものです。goo辞書でみますと、『冬季に寒い日が三日ほど続くと、その後四日間ぐらいは暖かいということ。また、気候がだんだん暖かくなる意にも用いる。 』とあります。ここ華南の地でも、暑いと思ったら、その反動で「寒さ」を感じる日があります。今日も、夕方は、涼しいと言うよりは、『寒い!』と言った感じがしています。午後から、二人のお客さんが見えて、日本語と中国語で交わりをしました。お二人とも、日本留学の経験者で、一人は大きな企業の社長さん、もう一人は大学の先生でした。

 せっかく来られるので、朝はスーパーにデザートを買いに行き、昼過ぎにはバスに乗って、街中の「ケーキ屋」さんに出かけて、チーズケーキを買って来ました。珈琲と紅茶を淹れたのですが、ケーキには手を付けられなかったのです。結局、客人の分は冷凍庫に入れ、われわれの分は、二人で食べてしまいました。客人は、話の間に、ジャンバーを着たり脱いだりされていました。ストーブをつける程ではなかったのですが、ちょっと薄着では、ゾクッといった感じがしていました。

 おとといの水曜日の夕方には、雷光が閃いたと思いましたら、雷鳴が轟き、強い雷雨が降り始めました。日本の私たちが過ごした街でも、同じでしたが、それは「春到来」の告知なのです。しかし、こちらの「春」は極めて短いのです。『わあ春だ!』と喜ぶのもつかの間、もう30度の夏がやってくるのです。週初めには、31度の日がありましたし、明後日は28度の予報が出ていました。『春眠暁を覚えず!』と言われる、寝坊をしたいような季節になって来ました。それでも明日は、ハイキングに誘われていて、7時過ぎには家を出て、バスで師範大学の前の集合場所に行かなければなりませんので、朝寝坊はできそうにありません。

(写真は、ブログ「おおば屋」の「雷光」です)