陸奥の歴史

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 上海の街中を、「黄浦江 」が流れていて、この流れの岸に、「上海国際港」があります。1月に乗った「蘇州号」が、週一の往復便で、大阪との間を航行する発着港も、その「外灘」にあります。最近の上海のニュースで、「豚の死骸」が、その上流から1万3千匹も流れてきたと報じていました。どうも、その上流の養豚農家が、病気に感染したので、処分に困って、[水に流した」のです。この「水に流す」を、goo辞書で調べますと、『過去のいざこざなどを、すべてなかったことにする。「これまでのわだかまりを―・す」』とあります。

 この言葉の意味を教えてくれたのは、国語の教師ではなく、歴史や地理の「社会科」を教えてくれた中学の時の担任でした。「陸奥」、東北地方では、冷害などで凶作に見舞われることが多かったのです。今でこそ改良に改良が加えられて、新潟や秋田などでは、「こしひかり」とか「あきたこまち」の人気銘柄が収穫されるようになってきていますが、この地域は、かつての凶作地でした。現在では、米作農家は、豊かな時代を迎えていますが、かつては極貧に甘んじていたのだと教えられました。

 農家では、赤ちゃんが産まれると、『食べていけない!』という現実に、生まれてくる子どもを処分をしてしまったのです。「間引く」という言葉も、本来は、米の成長に不要な苗を引きぬくことを言った言葉でしたが、こういった場合にも用いられた言葉でした。さて、「水に流す」というのは、その生まれてきた赤子を籠に入れて、川の流れに、流してしまったのです。先に生まれてきた子どもたちの生き死にを考えた結果、どうしても子育てが出来なかった農家の若夫婦は、その赤ちゃんを「水に流・・・」してしまったわけです。どんなにつらい決断だったことでしょうか。

 北上川という川が、岩手県から宮城県にかけて流れていて、石巻で太平洋に至ります。この川は、くねくねと蛇行していているのです。その蛇行するところに、「地蔵」が多く見かけられるようです。どうしてそうなのかといいますと、「水に流した」赤ちゃんが、その浅瀬に流れ着いていたので、地元の人たちが、亡くなった赤子のために作ったからだそうです。ずいぶんと悲しい歴史が、日本、とりわけ東北地方にあったのだと、教えられて、胸が詰まったのを覚えています。このことは、温々と大事にされて育った私にとっては、『そんな出来事が本当にあったのか!』と思わせた、衝撃的な学びだったのです。

 東京オリンピックのために、高速道路やビルのなどの土木建設が行われ、特別な産業がなかった、東北の農家の働き手が、その労働力として求められ、いわゆる「出稼ぎ」が行われたのです。今では、言葉だけが残ってしまった感がいたしますが。その労働者たちの悲哀を歌ったのが、「山谷ブルース(岡林信康の作詞、作曲、歌)」でした。経済大国になった影に、そういった過去を持つ世界があったということは、忘れてはいけないことのようです。

 そんなことを教えられた私は、東北が怖くて、なかなか旅行することができませんでした。高校の時の修学旅行が北海道でしたが、その時の列車に乗せられて、車窓から東北の夜の町を眺めたのです。その教わった悲しい過去が思い出されて仕方がありませんでした。どこにも、誰にも、人に語れない過去があるのでしょうか。いまの平和と繁栄に感謝するとき、覚えておくべきことの一つかも知れません。

(写真は、東北有数の河川の「北上川」です)

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