味方

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春の海

 子どもたちが小さかった頃の話です。「夫婦喧嘩」に、子どもたちが巻き込まれて心を痛めていたことがあったようです。家内は、おっとりでのんびり、いえ慎重に生きる人です。それに反して、私は、せっかちで、気短で、衝動的で短絡的なのです。男ばかりの間で育ったからと言うよりは、「わがまま」に育ったから、そうだったのでしょう。夫婦でも、家族でも、親しい友人の間でも、隠れた思いを隠れ持っていて、苦い思いが心を満たして、何時か〈大噴火〉するよりは、ときどき〈小噴火〉をしたほうがいいと、単純で、気の短い私は、そう思いながら生きてきました。

 あるとき、上の娘が、お風呂に一緒に入りながら、家内にこんなことを言ったそうです。

 『おかあさんをいじめるから、おとうさんきらい?』
 『きらいじゃあないよ。おかあさんは、「あば(?!)」にあいされているから、おかあさんもおとうさんをあいしてるよ!』

 寝る前になって娘が、

 『おとうさん、おかあさんはおとうさんをあいしてるんだよ。おかあさんはおとうさんのみかたなんだよ。おとうさんもおかあさんのみかただね!!』

 そう念を、娘は私に押したのです。子どもたちは、両親が、どう互いを見ながら、評価しながら、一緒に生きているのかを、大きな目を開きながら見て、心全部を向けていたようです。願ったようにしてもらえなくて文句を言い、非難する短気な父親を見ながら、家内の味方をして、両親の間をとり持とうと、悩みながら、考えながら、最大限に知恵をふり絞りながら、執り成そうと努力していたのです。攻撃型の父親と、防御型の母親の衝突は、一方向の争いでした。取っ組み合いの喧嘩をしたことなどありませんでした。もし彼女がヒステリーだったら、「金切り声」を上げて、鳥小屋のような家庭だったことでしょう。

 勝っているのに、私には勝利感がないのです。しかし負けているのに、家内の方は勝利感に溢れているわけです。彼女のほうが大人で、『駄々っ子と一緒に生活をしてきた!』という感じだったのでしょうか。いつでも、子どもたちは母親の味方でした。子どもたちが、みんな出て行ってしまってからは、結局、夫婦の私たちは、「振り出し」にもどってしまったわけです。これまでを総括すると、「オリーブの冠」や「軍配」は、家内、四人の子どもたちの母親に上がるようです。

 後、どれだけ一緒にいられるのでしょうか。もう一つの「振り出し」、どちらかが独りになる時が来るのでしょうね。短い一生で、出会って結婚の契を交わしたのですから、もっと変えられながら、異国の空の下を一緒に生きていくことになります。そんなことを思っている弥生三月も、今日明日で終わろうとしております。こんな両親を、四人は、それぞれ、どう思っていることでしょうか。

(写真は、和(な)いだ「海」です)

「三村マサカズ」

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「やまぶき」

 『日本語ってむずかしいです!』と、こちらで日本語を専攻する学生のみなさんが言います。確かにそうだと思います。「助詞」、「敬語」、「時制」、同じ表記の漢字の意味の違い(「手紙」は、中国語は〈トイレットペーパー〉。「勉強」は、〈嫌々ながら、無理をして〉)、などをあげています。

 今朝、家内と話をしていて、一つの単語が話題になりました。「強力粉」でした。小麦粉に、パンなどを作るときに使う小麦粉を「きょうりきこ」、山小屋の生活用品や登山者や、その荷を担ぎ上る人のことを「ごうりき」と読みます。この他に、「つよ(い)」とも読むわけですから三種類の読み方があるのです。また「力」は、「りょく」と「りき」と「ちから」と三種類あるわけです。「粉」も、「こな」と「こ」と「ふん」とよみます。こんなやややこしい発音で話される言葉を、「強」と「力」と「粉」の三文字で表すわけです。このように発音をする国語・言語は、世界でも珍しいのではないでしょうか。

 日本には、古来、この国の中で話されていた、「やまとことば」があったわけです。「さわやか」とか「あでやか」とか「はぐくむ」といった言葉です。ところが、私たちの国には、文字がなかったわけです。それで、おとなりの中国の文字を借用したわけです。「漢字」が、それでした。それを「音読み」と「訓読み」で発音して文字で描き表してきています。一番ややこしいのは、「姓名」です。同じ文字でも発音が違うからです。これは中国語では殆どありません。「三村マサカズ」という人気お笑いタレントがいますが、この「三村」という「姓」は、「みむら」と読む場合も、「みつむら」と読む場合もあります。どちらなのかは、本人に聞かなければなりません。外国人の学習者にとっては、これもは最上級の難しさなのだそうです。

 その上に、日本語には、「漢字」から創りだした「仮名」があります。しかも「ひらがな」と「カタカナ」があるのです。これら三つの文字で、日本語を書き表し、西洋数字やアルファベットや記号だって加えて使うわけです。また、たとえば「つ」には、小文字の「っ」があるように、小文字表記だってあります。そんなにややこしいので、明治の御代には、時の文部大臣の森有礼が、英語表記や、国語を英語にしようという考えを持っていたと聞いております。もしそうなっていたら、今頃、日本語は消えてしまって、ブラジルやハワイなどの移民先の外国に残っているだけだったかも知れませんね。

 いつでしたか、ソウルに行った時に、『日本語は詩のように美しい言葉ですね!』と褒めて頂きました。そしてこの方は、『韓國語が演説や講演に向いた言葉なのです!』と語っておられました。たしかに、そうです。小学校の国語の時間に教えてもらった「和歌」を、覚えています。太田道灌が雨の「鷹狩」の中で、雨宿りした家で、一輪の花を少女から受けとったという逸話があります。「蓑(みの、昔の雨避けの合羽)」を借りようとしたのに、花が出てきて、道灌は怒って去ったのだそうです。ところが、歌の心得のある部下が、『蓑がない貧しさを、「山吹(実のない花)」にかけて、その一輪を少女が渡したのです。それは、兼明親王が詠まれた和歌にゆらいするのです!』といったそうです。その和歌とは、

      七重八重 花は咲けども 山吹の 
      実のひとつだに なきぞかなしき

でした。山奥の農家の少女は、それほどの学才があったことになります。これを教えられた時に、『日本語ってすごく面白い言葉だ!』と思ったことでした。それなのに、国語の先生にも学者にもならなかったのは、実に残念なことであります。和歌の真意の解することのなかった無骨の道灌は、それ以来学問にも励むようになったそうです。

(写真は、「山吹(やまぶき)」です)