日本放送協会を「NHK」と言いますが、テレビが放映されるまで、毎日の情報は、このラジオ放送と新聞が担っていました。父の家の茶の間で、炬燵の周りに座って食事をとった部屋の壁際に「物入れ」があり、その上に、「ラジオ」が置かれていました。寝る時以外、家に誰かがいる間は、何時も放送が流れていて、なんとはなく聞いていました。とりわけ病欠児童だった私は、学校にいなければならない時間帯に、咳や微熱に苦しみながら、布団の中で、耳を傾けていたのです。ですから、同世代の中で、ラジオ放送を、最も多く聞いていたのではないでしょうか。だから「ラジオが友達」といった感じでした。
放送されていて記憶が鮮明なのは、午前中は「名演奏家の時間」でした。寝ていても、お腹だけは空いた食いしん坊の私は、「ひるのいこい」のテーマ音楽を聞いて、『お昼だ!』と知ったのです。その番組の中には、「◯◯(名前)農林水産通信員」の報告などがありました。どの番組も、 テーマ音楽が、始めと終わりに流れていたのです。あのメロディーがふと思い出されては、「胸キュン」になることが時々あります。
そんな中で、最も印象的だったのが、午後に放送されていたと思うのですが、「尋ね人の時間」でした。その頃の放送内容が、ウイキペヂアに、次のように書き込まれてあります。
『旧満洲国黒龍省チチハル市の○○通りで鍛冶屋をされ、「△△おじさん」と呼ばれて
いた方。上の名前は判りませんが・・・ 』
『ラバウル航空隊に昭和19年3月まで居たと伝え聞く○○さん、xx県の△△さんがお捜
しです・・・ 』
『昭和○○年○月に舞鶴港に入港し引上船、「雲仙丸」で「△△県の出身と仰りお世
話になった丸顔の○○さん・・・ 』
『これらの方々をご存じの方は日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は
東京都港区内幸、内外(うちそと)の内、幸いと書いて「うちさいわいちょう」です 』
父は軍人ではなく、「軍需工場」の仕事に従事していましたので、戦地には行きませんでした。また、山の奥に住んでいましたから、戦災に遭わず、母も兄たちも家にいました。それで、「尋ね人」が、よく理解できなかったのです。でも、家族や知人を捜している人が多かったことだけは分かりました。家内が育った北多摩の街には、「引揚者住宅」があって、同級生の何人もが、そこから学校に通っていたのだそうです。お腹をすかして、貧しかった時代でしたが、一生懸命に生きていたのです。わが家は、「すいとん」をよく食べましたが、食べ物に窮することはなく、恵まれていたのかも知れません。感謝なことです。
(写真は、1955年当時使われていた「ラジオ」です)