子育て中に、いろいろなことがありましたから、私の両親にとっても、四人の男の子を育てていて、様々な思い出があったことでしょう。父は、「手帳」には、日々の覚えておくべきことや、すべきことの記載はしても、「日記」をつける習慣はありませんでした。ですから、どんなことを父が思い、何を考え、何をしたのか知る術がありません。それでも、『俺の小さい頃は・・・』とか、『中学に入学するときには・・・』とか、『おやじは・・・』とか、『たつえさんは・・・』とか言いながら、話を聞かせてくれたことがありました。明治の終わりに生まれたのですから、大正期の出来事であったことになります。
時々、「古写真」をネットの中に見つけてみたりしますが、戦後の平和な時代に育てられた私には、想像もつかないほどに、多くの事々が起こった時代だったことを歴史から知らされます。飛行機は軍用はあったのでしょうが、民間で旅客に利用されることもありませんし、新幹線も自家用車だってない時代です。蛇口をひねると水がで、コックをひねるとガスがで、温水がでてくることもありませんでした。夏場に西瓜を冷やしておく冷蔵庫も、肉や魚を凍らせて貯蔵する冷凍庫もありません。無い無い尽くしの時代でしたが、人と人との距離が、とても近かったのではないでしょうか。父の育った家は「躾(しつけ)]が厳しかったようで、畳には踏んでよい場所と、そうでない場所もあったのだそうです。年寄りと生活をしていない私は、細々としたことを注意しない両親のもとで、自然児のようにして生きていたのです。
日本の新暦の「正月」には、まだこちらにおり、こちらの「正月(春節)」には、それが終わってから戻りましたので、今年も、「正月気分」を味わうことがありませんでした。あの独特な空気が感じられる「元旦」は、もう何年もご無沙汰しております。元旦には、母が暮から、破れた障子や襖を張り替えながら作り始めた「おせち料理」と「関東風雑煮」で、家族全員で朝食を食べるのが常でした。『雅、いくつ喰う?』という声が思い出されます。コメ屋から配達された持ちを、父が定規をあてて、ほとんど同じ大きさに切った餅を、七輪に編みをのせて焼くのが、父の役割でした。鶏肉と小松菜のだし汁に、焦げ目の入ったその餅を入れての「雑煮」でした。「田作り」、大根と人参の紅白の酢の物の「なます」、「黒豆」、牛蒡や里芋や人参などを一つ一つ煮分けた「煮物」、母の故郷から送られてくる「野焼き蒲鉾」、紅白の「蒲鉾」、「伊達巻き」、それに「ハム」などが添えられて、「重箱」に盛り込まれていました。
ああいうのを、「明治の味」とか「大正の味」と言って、江戸時代から伝えられてきた日本古来の味なのでしょうか。「昭和」が終わって、もう二十五年になりますから、「昭和の味」も、遠のいていってしまうのでしょうか。三月になっているのに、今日は、「正月の味」、つまり「父の味」と「母の味」とが思い出されて仕方がありません。その味で養われたのですから。食いしん坊だからでしょうか、ロマンチストだからでしょうか、いえ甘えん坊だからでしょう。「母の味」を知ってるのが、母を四十年も面倒みてくれた、すぐ上の兄嫁なのです。『私は、お義母(かあ)さんの味を教わったんです!』と、この一月に帰国した時に、義姉が話していました。今日の昼食に、家内の学生たちに、《特性サンドウイッチ》を作ってみました。美味しいそうに、大きな口で食べてくれたのです。牛肉と玉ねぎの炒め物、卵の薄焼き、チーズ、トマト、キュウリを、トーストしたパンにバターを塗ってはさみました。それに、「金柑」を添え、紅茶を入れました。そんな28度の春の昼でした。
(写真は、母が作ってくれたのに似ている「雑煮」です)