彌生三月

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 三月を「弥生」と言います。これを語源由来辞典でみますと、『「弥生(いやおい」が変化したものとされる。「弥(いや)」は、「いよいよ」、「ますます」などの意味。「生(おい)」は、「生い茂る』と使われるように、草木の芽吹くことを意味する。草木がだんだんに芽吹く月であることから「弥生」となった。』とあります。

 松尾芭蕉が、「奥の細道」の紀行文を記していますが、その「旅立」の書き始めに、

   弥生も末の七日、明ぼのゝ空 朧々(ろうろう)として、月は在明
 (ありあけ)にて光おさまれる物から、不二の峰幽か(かすか)にみえて、
  上野・谷中(やなか)の花の梢、又いつかはと心ぼそし。
   むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゅと云う所
  にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに
  離別の泪(なみだ)をそゝぐ。
   
と記しています。これは、中学の国語の時間に暗記させられたものですが、何となく覚えているというのは、「三つ子の魂百までも」なのでしょうか。「日本歴史」で学んだ時代区分の中に、「縄文時代」の次ぎにくるのが、「弥生時代」です。その時代の住人は、『われわれは弥生時代人であって・・・』と言ったわけではないのです。1884年(明治17年」に、東京の文京区で、土器が発見され、その土器を「弥生土器」と命名し、その土器が使われていた時代を「弥生時代(BC3世紀~AD3世紀ほど)」としたわけです。発見された町が「弥生町」だったからです。もし、「本郷町」で発見されたなら、「本郷時代」になっていたことになりますね。
 
 三月は、私の両親の生まれ月ですから、特別な感慨があります。自分が、「師走」の真冬に生まれていますから、暖かな春に生まれた父や母が羨ましく感じられたのです。これも、生まれる者の願いや、生んでくれた両親の思いでもないのですから、ありのままで受け入れる以外に仕方が無いことになります。父や母は、男の子四人に、「端午の節句(五月五日)」に、鯉幟(こいのぼり)を上げてくれていた時代がありましたが、女の子がいなかったので、「桃の節句(三月三日)」を祝うことはありませんでした。私は、偏屈オヤジでしたので、男二人、女二人の子どもたちのために、「鯉のぼり」を上げたり、「雛壇」を飾ったりしませんでした。それでも四人の子どもたちの無事の成長、人や◯に愛されて生きるようにと、家内と二人で手を合わせて育ててきました。
 
 「春立(たて)る霞みの空に、白河の関こえんと・・・・」と芭蕉が、「序章」に記していますが、「白河の関」の以北は、3.11以降、芭蕉の時代には考えられない状況下にあります。故郷を壊されたみなさんの望郷の思いをヒシと感じます。良き思い出の中で、素晴らしい季節、「弥生」をお過ごしください。

(写真は、春の一つの象徴の野辺の「つくしんぼう」です)