「東洋の奇跡」

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 「東洋の奇跡」、英語では、”Japanese miracle ”と言いますが、戦いに負けた日本が、焼土の中から、驚くべき経済復興をしたことを、そうアメリカが言いました。しかし、一番の復興というのは、「生きていく自信」や「夢を持つこと」だったようです。1975年に新潮社から発売された小説に、「官僚たちの夏」という作品があります。一切のものを失ってしまったように見えた日本でしたが、『まだ戦争は終わっていない!』、つまり、武器使用の戦争は負けたが、「経済戦争」が日米の間に行われているという思いの中で、圧倒的な物量で占領支配をし、日本をアメリカ製品の「市場」にしていく動きがありました。ところが、その「物の攻勢に、敢然と立ち向かった男たちの獅子奮迅の戦いを、城山三郎が描いたものです。

 この物語の舞台は、「通商産業省」であり、事務次官となってトップに上り詰めていく、佐橋滋をモデルに描かれた作品です。佐橋は、『国家の経済政策は、政財界の思惑や利害に左右されてはならない !』との信念をもって、アメリカ製品に対して、国産繊維製品、国産自動車、国産コンピューターなどの研究開発を、主に中小の経営者に促し、やがて実用化させ、ついには、アメリカのフリーウエーを日本車が満たし、疾走し、アメリカの自動車市場を席巻するまでに導いたのです。彼は『ミスター・通産省!』とまで呼ばれた名物官僚でした。

 大陸から伝えられたものに「絹製品」がありました。それは、やがて「西陣織」などに代表される高級で美しい絹織物を盛んにさせます。維新政府が、「富国強兵」を掲げて、欧米諸国に追いつき、追い越そうとして取り組んだ国家プロジェクトの事業の一つが、その「絹(生糸)生産」でした。その代表工場が、国の出資で群馬県に造られます。「富岡製糸場」です。生産された「生糸」を、そこから陸送して横浜港から、輸出していたのです。それで外貨を稼ぎ、そのお金で軍艦を買って軍事力を欧米並みにしていった時代です。私が小学時代を過ごした街に、「蚕糸試験場」がありました。そこに友人たちと出掛けて、捨てられてあった「おかいこ(桑の葉を食べて絹糸を吐く虫)」を拾って帰り、桑の葉を与えて育てたことがありました。「繭玉」が作られていくのを観察するためでした。父の家があったところから高台の大地に上がると、一面が「桑畑」だったのです。農家では、まだ「養蚕」が盛んに行われていて、そのおかげで、「ドドメ(桑の実のことです)」を〈おやつ〉に腹いっぱい食べていました。

 長野県の諏訪湖にも、「生糸工場」がたくさんあって、周りの県下から多くの若い女性がやって来て、働いていたのです。「ああ野麦峠」という作品の舞台となったところです。時代とともに衰微していった業界でしたが、諏訪湖の周りには、今は「味噌工場」が沢山あります。なぜなのかといいますと、そこで働く製糸女工たちの食事に欠かせない「味噌」が、その近辺で作られていたからです。「生糸」は、ほとんど姿を消してしまいましたが、「味噌」だけが、そんな歴史を秘めて残っているわけです。

 戦後の経済を支え、牽引してきたのも、「繊維業界」でした。「自動車」に取って代わるまで重要な産業だったのです。そう言えば、中学の時に、クラブ活動の後に、よく「中華そば」とか「カレー」をご馳走してくれたのが、八王子の繊維組合の組合長をする、お父さんに持つ先輩でした。そういった産業界を舵取りしてきた佐橋は、〈天下り(goo辞書によると、『退職した高級官僚などが外郭団体や関連の深い民間企業の相当の地位に就任すること。「所轄官庁から―する」 』とあります)〉をしなかった潔い、《戦後のサムライ》だったのです。こういった国民を思い続け、日本を再建していった役人たちがいたことは、今日の日本人の私たちは忘れてはならないのだろうと思われます。

(写真は、こちらの道路でも時々見かける、高級日本車「レクサス(トヨタ)です」