明日から

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 住んでいますアパートの敷地の中の植え込みに、「寒椿」が植えられています。暖かさを増しているこの頃、椿の最盛期が過ぎていますが、木の日陰側には、まだ白と赤の斑の綺麗な花びらをつけて咲いてるのが見つけられます。また冬の間に落葉した木々には、もうすでに若芽が芽吹いて、日一日と葉を大きくしています。今朝も、道筋で出会った、おじいちゃんに押された乳母車の中、着ぶくれた赤ちゃんが、顔に陽を受けて眩しそうにしていました。もう陽の光は、全くの春です。25度の気温の日も、この2週間の間に、ふつ日もありましたから、間もなく、一足飛びに、春を押し越して夏に突入するのではないでしょうか。

 日本の東北地方では、観測史上最高の積雪を記録した冬だったそうですが、週初めには、今季最強の寒波襲来と、ニュースが報じていました。温暖化だと言われているのですが、北半球の今年の冬は、ずいぶんと寒かったことになります。そう言えば、一月に帰国して三週間ほど東京に滞在したのですが、雪が三度ほど降りましたから、東京の寒さに震えていました。弟の家の「炬燵(こたつ)」は、久しぶりで、本当に、あの温かさを楽しませてもらいました。炬燵といっても床暖房の上に炬燵が置かれていて、そこに足を突っ込み、身を横たえたのですが、この「日本の習俗」は、父の家の炭火を入れた「掘りごたつ」を思い出させてくれました。炭の燃える匂いは、もう今では、焼き鳥屋さんか、鰻屋さんでしか嗅ぐことができなくいなっているので、遠い過去の記憶になっています。

 何度も、炬燵から出たくなくて、母や兄に用事を頼んでは怒らてしまったこともありました。あの炬燵が、唯一の暖房手段だったのですから、床暖房をしたり、ストーブを付けて部屋中に暖気をおくる今との違いを思い出していました。次男の家では、今年は炬燵を使っていませんで、エアコンで暖房をしていました。畳の部屋がありませんから、それでいいのかも知れませんが、日本風情を楽しめなかったのですが、かえって炬燵の中にネコのように丸くならないで、買い物で外出したり、所要で出かけたりで活動的だったのは感謝でした。

 明日からは「弥生」、春三月ですね。こちらでは、「元宵節」、日本で言う「小正月」が終わりました。正月気分も消えて、みなさんが一生懸命に働き始めておられます。今朝、久しぶりにイギリス系のスーパーに、家内と買い物に行きました。学校の仕事をしていた私に、外出中の家内から電話が入りました。クリーニング店に着いたのですが、財布を入れたバッグを持たないで来てしまったので、そのバッグを持ってきてくれというのです。それで、彼女のかばんを持って行き、その足で、一緒に買い物に出かけたのです。週日の朝、買い物客はまばらだったでしょうか。衣料コーナーは、まだ冬服が並べられていました。日本ですと、鮮やかな春物一色なのですが。さあ、春です。そろそろ春を探して、野辺を歩きまわってみたい衝動にかられるのでしょうか。

(写真は、http://single-focus.info/modules/webphoto/index.php/photo/3/)の「春の海」です) 

163路・路線バスにて

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 住んでいますアパートは、この街の新興地に位置していまして、「◯◯大道」の脇に位置しています。この周辺には、高層のアパートや新しい商業施設などが建設ラッシュなのです。ちょうど、「雨後の筍」の状況です。とくに、一昨年の暮に、全国展開している大きな商業施設ができてからは、バス路線の数が増えて、街の中の様々なところに出かけていくのに、とても便利になってきています。一昨日も、所要があってバスに乗って出掛けました。同じ路線のバスに帰りも乗り、何を見るとはなく、いつものように「人間観察(マンウォッチング)」をしていました。家に帰るまで30分ほど乗りますから、他にすることがないので、目を開けていますと、人の様々な所作が目に入ってくるわけです。決してジッと見たりはしませんが。

 私の席の前に、一人の五十代前半のご婦人が乗っておられました。このところ、車の数が急に増えて、排気ガスで空気が以前のようでなくなりましたので、喉がいがらっぽいのです。このご婦人も、喉に違和感を覚えられたのでしょうか、『ガーッ!』とやり始めたのです。その音を聞いたので、ちょっと彼女に視線を向けたわけです。窓から外に『ペッ!』をするのか、バスの床にするのか、ちょっと心配して様子を伺っていました。多くの人が、窓を開けて外に向かってするので、脇を通る車や電動自転車や人にかからないかと思ってハラハラするのが常なのです。ところが、私の予想に反して、彼女はポケットに手を入れて何かを探し始めたのです。そうしましたら、中国独特のポケット・ティッシュを取り出して、その紙にとって、ポケットにしまわれたのです。

 この光景は、長くこちらで生活して、初めて見たものでした。私は、これをするときには、ティッシュにとりますが、こちらの方は、なかなかそうされないので、よくティッシュを手渡してあげようかと、一瞬思ってしまうのです。家に帰ってきて、この出来事を家内に話しましたら、やはり、意外なのでしょうか、感心して聞いていました。子どものころの日本も、同じでした。ゴミは、シッチャカメッチャカに捨てられていましたし、あたり構わず『ガーッ、ペッ!』をしていたのです。田舎に行くとお百姓さんは、手でハナをかんでいました。多分、「東京オリンピック」が行われた1964年ころから、そういったことが改められてきたのではないかと思うのです。外国人が多くやってきて、定住する方も多くなってきていましたから、欧米並みの生活が求められてきたのでしょう。

 経済的な余裕が出てこなければ、ちり紙(昔のティッシュのこと)などポケットに入れられないのです。だから、仕方がなかったわけです。また「尾籠(びろう)」な話になって恐縮ですが、子どものころのわが家のトイレには、父や母がハサミで切った「新聞紙」がきちんと置かれて、一生懸命に「揉(も)んで」使いました。やがて「ちり紙」が売られるようになるまで、それが中心的に役割を持っていたのです。今では布のような触感のものが出回っていますから、信じられないことであります。でも大昔は、どうだったのでしょうか。

 何しろ、《生命力の旺盛な国民》というのが、この国の人たちの生活する姿です。クヨクヨしないのです。いつまでもグズグズしていません。サッサと動きが早いのです。広い世界に住んでいたら、大陸のどこにでも移っていけるという「おおらかさ」でいっぱいです。島国で育った私にとっては、実に羨ましい民族性なのです。大方は私たちと大変似ていますが、「生き方」に違いがみられます。学ばせていただいたことが多い、この過ぎた年月であります。

(写真は、「東京オリンピック」の第一号のポスターです)

ご馳走に勝るもので

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 私の好きな格言は、『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ご馳走と争いに満ちた家に勝る。』と言うものです。そこには、小さな感謝の積み上げがありますし、平和を希求する意識が満ちています。また奢侈贅沢を嫌っていますし、競争社会の問題点を突いているのです。

 嫌いなのは、『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。』と言う言葉です。これは、格言とは言えないかも知れませんが、天皇の兵士が守るようにと訓示された「戦陣訓」の一節です。時の陸軍大臣東条英機が、中国に派兵された兵士たちによる、中国の婦女への陵辱や物品の盗みが横行する中で、帝国軍人の「有り方」をまとめ上げた道徳訓示であったのです。「国体観」や「死生観は、哲学者の井上哲次郎や和辻哲郎、文章は、「破戒」で有名な島崎藤村や「荒城の月」の作詞者・土井晩翠らが中心になって作ったと言われています。そこには「体裁」とか、「建前」とかが表に出ていて、『生きたい!』との人間本来の切なる願いを認めていないのです。ここには「生命軽視」が溢れていますから、他者の命の重さも認めることができないので、平気で人を殺してしまうことができたわけです。

 人の生き方に大きな影響を与えるものの1つは、「ことば」です。人は「ことば」に出会って発奮し、方向が与えられ、どう生きて行くべきかの導きを得ます。39歳の時に、私は大きな手術をしました。『死ぬかも知れない!』と思った私は、妻と4人の子に宛てて、初めての遺書を記したのです。子どもたちに、『もしお父さんが亡くなったら・・』と言って、「三つ撚りの糸は簡単に切れない」と言う、親爺さんの日記帳からの引用の「ことば」を書き残しました。これは、毛利元就が三人の子に託した「三本の矢」のたとえ話に酷似しているのですが、『お父さんがいなくなっても、お母さんを助けて、4人で仲良く助け合って生きて行って欲しい!』と勧めたのです。彼らは、一本多いので、より協力の度合いが堅固になるのですが、長男が小学校6年生、一番下の次男が3歳だったのです。

 ところが、死ぬこともなく、生き延びて、一人一人が自立して行く様を見ることの出来た今、もう遺書を残す必要も無いと思いますが、この「ブログ」で、『みんなの父親は、どんな考えや生き方をして来て、どこに向かって生き、ゴールをどこに定めているのか?』を書き残したいと願うのです。きっと彼らも、それぞれに「ことば」と出会い、その「ことば」を語った人の思想と人格とに触れ、励まされ、または叱責されて生きて行くのでしょう。

 地味でいい、有名にならなくてもいい、『よくやった!』とほめられる生き方が出来るために、火で精錬され試された本物の「ことば」と出会って、その励ましで生きて欲しいだけであります。

(家紋は、「三本の矢」で有名な毛利元就の毛利家のものです)

トイレ事情

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 食事時に、このブログを読まないで下さい。

 一昨日の午前中のこと、道路の際で車を待っていた時、おじいちゃんに連れられた二歳前くらいの女の子が、道路を横切って来ました。渡り終わって安心したのか、独りで歩き始めて、ちょっとした突起物につまずいて倒れてしまったのです。腹ばいになった彼女のおしりが、何と丸見えになってしまいました。ジェントルマンの私は、幼いレディーから目を逸らしてしました。

 まだおしめが取れない年頃には、日本では、おしりがぼこぼこっとしているのですが、こちらは、おしめを使わないで、すっきりしているのです。その代わりに、いつでもできるように、おしりの部分が開いているのです。脱がさないですむようにしてあるのです。実に賢く細工された幼児服が、ほとんどです。ところが、ゴミ箱だろうが、道路の上だろうが、構わずに、お母さんはおばあちゃんがさせるのには、ちょっと驚かされるのです。おおらかといえばおおらかですが、不衛生といえば不衛生極まりないのです。初めて目撃した時には、唖然としてしまったのですが。

 これも文化習俗の違いですから、私たち外国人が、とやかく非難すべきことではないのです。ついでに、公衆トイレの話ですが、日本のトイレの構造は、向こう向きに作られていますが、こちらはドアーに向かって顔を向けて座るのです。田舎に行くと仕切りもドアーもありません。最初は抵抗がありましたが、こればかりは、『嫌だ!』と言うわけにはいきませんので、だんだんと慣れてきています。誰もがすることなのですから、人の目を気にしないのです。天津にいた時に、郊外に行きました。一緒に学んでいたオランダ人の若い女性が、この習慣を身につけて、何でもない素振りでいたのには驚いてしまいました。いえ、家内から聞いた話ですのでご安心を。

 そう言えば、中学の時に、アメリカン・スクールに、バスケットボールの親善試合に行った時に、トイレのドアーが、上と下が開いていて、真ん中だけに仕切りがあったのには驚きました。ちょっと抵抗があったことを思い出すのです。日本は、《密室》になっているのですが、これも日本文化なのでしょうか。中国で驚いたのは、仕切りも何もない、だだっ広いところに、幾つもの穴だけがが開いているだけのトイレもありました。今はないかも知れません。それに今でも困ることは、近代的な建物の水洗トイレに、ペーパーが備えられてないのです。本当に困ってしまった経験があって、それ以来、必ずポケットやカバンの中には携帯しております。

 そんな中で、一番爽快で素晴らしかったのは、四川省の山間部に行った時に、途中で寄ったトイレでした。コンクリート製の側溝式のものでいた。水が流れているのです。座るのに丁度良く作られていて、まさに《自然水洗トイレ》だったのです。見ないですむのは感謝でしたが、前にいる人のものが流れてくるのには、閉口しましたが。

 ごめんなさい、少し臭い話になりましたが、これも生きていて毎日、どなたも健康であるなら関わる話しなので、こちらに来て驚かないようにと、文化習俗の予備知識のために書いてみました。

(写真は、「シャクナゲ」の花です)

『袖すり合うも他生の縁!』

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 上海で乗船した「蘇州号」の客室で、いくつか年上の方と同室になりました。お聞きすると、上の兄と同学年で、大阪人でした。学校を終えられてから、東京の会社に就職されたそうです。工場から排出される工業汚染物質を取り除く、「環境浄化」の製品を扱う会社に、長く働かれたとのことでした。退職後、故郷の大阪に戻り、すぐに蘇州に移り住んでおられるのです。蘇州では、日本語を教えたり、NGOの働きで、日本を紹介されてきているそうでした。3ヶ月に一度、上海と大阪を往復されておられ、その帰阪の船で、この方と《袖すり合わせること》となったわけです。

 とても話好きな方で、多くのことをお聞きして、とても好い時を過ごしました。これはぎゅうぎゅうに詰められて、人との距離が窮屈なほどに近過ぎる飛行機を利用したのでは、決して叶えられない交わりなのです。海風に当たることができ、のんびりとした旅ができる利点も、船旅なのですが、こういった人生の先輩や同輩や後輩たちから学べる機会というのは、実に素晴らいいものだと知ったのが、去年の夏のことでした。往復の船で、何人もの方と話し込んだのが、実に有意義で、楽しかったわけです。「船上学校」とでも言ったらいいのかも知れません。その味が忘れずに、この冬の帰国時にも、船を利用したわけです。船頭任せの旅で、急ぐ必要もありませんから、何くれとなく話し合えたわけです。

 この方が、昭和20年の大阪の空襲で、お母さんの手に引かれて、焼夷弾の炸裂し、燃え広がる大阪の街を逃げまわった経験を話してくれました。橋が落ちてしまった淀川を、大きく迂回しながら渡り、大阪駅にたどり着き、そこからお父様か、どなたかの故郷の東北の街に疎開をして行かれたのだそうです。私は生まれたばかりでしたし、山の中にいましたので、そういった経験をしませんでした。そんな九死に一生を得るような戦争体験を聞いて、今さらながら戦争の怖さを思い返したわけです。私の兄は、山の中から眺めた甲府の街が燃えていて、空が真っ赤に焦げていたのを覚えていて話してくれたことがあります。そうしますと、この方は、いわゆる《焼け跡派》と呼ばれる世代の方であり、戦争の実体験を持たれた方なわけです。

 多くの人が亡くなられた中を、生き延びてきたのですから、やはり生命力の強さを感じ、何があっても動じない、柔軟な生き方を、このKさんから感じさせられたのです。不思議なのは、昨夏、その「蘇州号」で、大阪に帰る折に、お会いした方も同じ体験を話してくれたのです。お母様の手に引かれ、横浜空襲の中を逃げて、行き別れたお父様を亡くされたことを話してくれたのです。2012、3年の今、戦争が終わったのが1945年ですから、68年も経っているのにもかかわらず、生々しく戦争の記憶をお持ちの方がいて、そういった方々が、企業戦士として、戦後の荒廃した日本を復興され、生きてこられたのだということを思わされたのでした。

 『袖すり合うも他生の縁!』でしょうか、時には、嫌な人もいなくはなかったのですが、同じ時代の静風の中、風の中、嵐の中を生きてきた者同士、『人生とは出会いだ!』と、つくづく、そう思わされております。お元気に過ごされることを願っております。

(写真は、菱川師宣筆「見返り美人」です)

アリランの歌

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 朝鮮民族の望郷の歌である「アリランの歌」を、目を閉じた父が懐かしそうに歌っているのを何度も聞いたことがあります。戦前、京城に住んで、仕事をしていたことがあった若き日の父には、かの地での出来事を思い起こさせる歌だったのでしょう。ところが、この歌の替え歌を、上の兄が歌っていたことがありました。悪意からではなかったのですが。それは朝鮮半島から、仕事の機会を得るためにやってきた労働者を侮辱した歌詞でした。運動部の仲間から教えられて、そうしていたのです。

 なぜ日本人は、隣国の朝鮮半島や大陸のみなさんを侮辱するのでしょうか。インスタント・カメラのことを「バカ○○○カメラ」と言うのですが、『バカでも○○○でも写せるカメラ!』との意味なのですが、多くの人は知らないで、このことばを使っています。侮蔑用語ですから、決して使ってはいけません。

 記録を残すための文字が無い、着る物も持たないで裸、食べ物を栽培する術も知らなく空腹だった我々の祖先に、文字も、糸をつむいで織って布を作る技術も、穀物や蔬菜の栽培法も、錬金術も、みんな教えてくださった人たちの祖国の方々なのにです。しかも、多くの方々は日本に帰化したのです。ですから、私たちの体には、朝鮮民族や中華民族の血が、色濃く流れているに違いありません。私たち日本人が「純血種」だと言うのは、民族的にはありえません。能力も容姿も肌の色もまったく変わりがありませんし、若い女性がはにかむ様子は全く同じです。もちろん能力も資質もですが。

 それなのに豊臣秀吉は、「朝鮮征伐」と銘打って朝鮮半島に派兵して、この国を蹂躙しました。まったくの暴挙でした。また日清戦争に勝ったと錯覚して以来、この中国の資源や市場を奪おうと、軍隊を駐屯させ、物資の運送の鉄路を敷き、工場を建設し、石炭やさまざまの資源を略取し、ついには戦争までしでかしたのです。東南アジアも同じようにされたのではなかったでしょうか。

 私たちの愛唱する演歌だって、その始まりは、大陸や朝鮮半島にあると言われています。いつでしたか、私たちの町にある大学の大学院に留学していた方が、「北国の春」を、きれいな中国語で歌ってくださったことがあります。これは逆輸入でしたが、悪びれずに喜んで聴かせてくれたのです。謙遜にも日本人教師から工学を学び、流行歌も覚えてくださり、冷ややかな目を向ける人たちの目も気にしないで、何年も学んで学位を得て、帰国された方でした。この方とは、まだ交信が続いております。

 東アジアの諸国は、すべての事々のルーツを共有しているに違いありません。昨晩、韓国人の若い女性の個人的な家庭背景の話を聞きました。女に生まれたばかりに、つらく暗い子供時代、思春期、青年期を生きてきたのです。彼女の祖父母が「男の子」の誕生を期待していたのに、そうでなかったからです。『生まれてこなければよかった!』と、男装して生きてきた彼女だったそうです。しかし今は、自分の心の傷が癒され、その祖父母でさえも赦しておられます。自分が綺麗な女性に生まれたことをしっかりと受け止め、感謝して生きてると言っておられました。このようなことは、日本にも昔、あったような話ではないでしょうか。

 いま、困難な関係の中にありますが、それぞれの民族の出自を思い返しながら、そこにある共通項を確認し合いなが、明日に向かって共に歩んでいこうではありませんか。互いを受け入れ合うことが可能だと信じるからです。

(写真上は、「アリランの歌」のレコード盤、下は、1926年に公開された映画「アリラン」のポスターです)

パン

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 これまで帰国して、こちらに戻るときに、必ずといって買って来ることにしていた物があります。風邪薬とかチーズとか衣服ではありません。何かといいますと、「食パン」なのです。「イギリスパン」と言うと思うのですが、頭が、コックさんがかぶるような丸みを帯びた独特に歯応えのある、生地で焼いた食パンなのです。なぜ買ってくるのかといいますと、こちらにはないからです。2斤ほど買ってきて、家内と、毎朝一枚ずつ食べて1週間しか食べることができないのですが、買ってきてしまうのです。

 ところが、最近は、それをしなくなったのです。パンが嫌いになったのかと思われるでしょうか。いいえ、パンは依然と大好物で、一日三食パンでも、私は大丈夫ですから、食卓になければ、涙は流しませんが、寂しくて仕方がないほどです。それで、買って帰らなくなったのは、こちらで、美味しいパンと巡り合ったからです。この街の繁華街のバス停の近くに、カナダから輸入した小麦粉を使って、日本の製パン機で、日本の技術を収得された職人さんが焼いているパンです。これを、マレーシア人の知人から紹介されたのです。次男の家の近くの代官山のパン屋に勝るとも劣らないパンなのです。

 家内が、週に一度は、バスに乗って買い出しに行ってくれるのです。ところが、このパン屋さんのオーナー夫妻と、昨年の暮になって、知り合いになったのです。今日も、個人的なお世話になりましたので、お礼にお店に行きましたら、「チーズ・ケーキ」と「ラテ・コーヒー」を出して下さり、ご馳走になってしまいました。この「チーズ・ケーキ」も、新宿のデパートで買って食べるような味で、美味しいのです。ニコッと幸せを感じるほどの味、これが今一番の楽しみになっているのです。

 食べることって、「下衆(げす)」なことでしょうか。いいえ、大切な営みだと思っております。人の生命を支える摂取物、美味しい物を美味しく食べられるというのは、健康だからではないでしょうか。まあ健康のバロメーターとして、このパンを味合うことにしようと、今、心に決めております。このお店からの帰りに、食パンを二斤、フランスパン一本、サンドイッチ二人前を買い、その店の近くの「日本食品店」で、納豆と醤油を買って帰りました。トーストした食パンに、納豆をのせて食べるのも、実に趣があって美味しいのです。明朝は・・・、一度お試し下さい。

(案内は、この3月に大阪南港で行われる「国際製パン製菓関連産業展・MOBAC」です)

上海

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 昭和14年に、北村雄三の作詞、大久保徳二郎の作曲で、ディック・ミネが歌った「上海ブルース」と言う歌が発売されました。私の生まれる何年も前の戦時歌謡曲だったのです。戦時中を懐かしんで誰かが歌っていたのを私が聞いて覚えたのか、なぜか歌うことができるのです。父が歌謡曲を歌っていたのを聞いたことがありません。息子たちに、愛だ恋だのと、親が流行歌(はやりうた)を聴かせるのをよしとしなかったからでしょうか。

1 涙ぐんでる上海の
  夢の四馬路(スマロ)の街の灯
  リラの花散る今宵は
  君を思い出す
  何にも言わずに別れたね 君と僕
  ガーデンブリッジ 誰と見る青い月
2 甘く悲しいブルースに
  なぜか忘れぬ面影
  波よ荒れるな碼頭(はとば)の
  月もエトランゼ
  二度とは会えない 別れたらあの瞳
  思いは乱れる 上海の月の下

 この1月21日に、上海の「碼頭(码头matou)」、日本語では「波止場」とか「船着場」というのがいいのでしょうか、そこから大阪行きの船に乗りました。この波止場の近くの「四馬路」には、日本人街があったのだそうです。初めて上海に行きました時に、中国語と日本語を巧みに話す初老の韓国人の方が案内してくださって、「東方明珠テレビ塔」の展望台で、『あの辺りに日本人が住んでいました!』と指さして教えてくれたのです。父に聞きませんでしたが、きっと父も、この上海を訪ねたことがあったのではないかと思っているのです。戦後の日本人がハワイに憧れたように、戦前の日本人、とくに青年たちにとって「上海」は、一度は訪ねたかった「憧れの街」の一つだったからです。

 現在では、東京よりも多くの人口を持ち、さらに増え続けている上海は、アジア一、いえ世界一の近代都市になっています。昨年の夏に、しばらく街の中を歩きましたが、私の住んでいる街に比べて、少し違った雰囲気が残っているのを感じたのです。戦前には、欧米や日本の「租界」がありましたから、外国人の居住者の多い国際都市で、その名残があるからなのでしょう。この街で、1932年と1937年に、二回の「上海事変」がありまして、日本軍の支配下に置かれた時期がありました。その様な過去のある街、上海に、現在では3万人ほど(2011年の集計)の日本人が住んで、ビジネスや勉学をしているようです。彼らは戦争を知らない世代ですから、過去のわだかまりを知らないことになります。私の長女の会社の支店もあるようで、なんとなく親近感を感じております。

 この歌に出てきます、「リラの花」は、ライラックとも呼ばれていまして、実に美しい花です。今朝、若い友人がお二人おいでになり、しばらく交わりの時を持ちました。お昼になりましたので、友人の一人が、『今日は私がおごりましょう!』と言って4人で連れ立って昼食に出かけました。レストランまでの道の街路樹に、25度の初夏のような気温に、「辛夷(こぶし)」の花が、実に美しく花開いていました。もう春なのかも知れませんが、予報をみますと、今日は特別の高温だったようで、もう少し寒さを感じることになりそうです。

(写真は、「ライラック(リラ)の花」です)

『こんな地球にだれがした!』

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 息子の家で、「核燃料」の廃棄物の処理についてのテレビ番組を観ていました。同じ「ゴミ」でも、台所から出る生ごみは、高熱焼却炉で処理が可能で、その熱で沸かした温水をプールや風呂に利用している自治体だってあるようです。ところが、原子力発電に用いて出てくる「ゴミ」は、こういった処理ができないこと、時間と共に劣化していかないのです。永久に、どこかに厳重に格納して置かなければならないわけです。そうしますと「ゴミ」などと呼べる代物(しろもの」)とは違います。子々孫々までも処理できないままにされていくわけです。

 中学校の遠足で、茨城県東海村に行ったことがありました。そこには、1956年6月に、「原子力研究所」が設置され、原子力研究を行う中心地だったからです。その二年後、中2だった私たちは、バスに乗って見学に出かけたのです。画期的で最先端の燃料革命の研究事業の様子を、次代を担う私たち中学生に見せようとしたのです。あたりが閑散としていて、何もないところに大きな建物が建っていたのが印象的でした。その研究の成果があって、この東海村の動力試験炉で、原子力発電が行われたのが、1963年10月26日のことでした。

 それ以来、現在では、原子力発電炉が54基もあります。これまでの「使用済み核燃料」の「廃棄物」の総量は、2007年度の時点で、何と14870トンにも登るのです。しかも、それらは未処理のままにされているのだそうです。さらに、世界中の「廃棄物」が、同じ状態のまま、未処理のままにされているのです。日本では青森県の六ヶ所村で、再処理が行われてきましたが、最終処分場が、いまだないというのが現状なのです。さらに、各発電所には、使用済み燃料は、水槽内に残されたままなにされています。一昨年の津浪で、福島第一原発の貯蔵槽が、津浪のアタックを受けて放射線が漏れ出して大問題となり、その被害の実情は報告されていませんが、致命的な情況にあるに違いありません。このことを知るにつけ、驚きを禁じえません。

 最終処分ができないまま、「ゴミ」を出し続けているというのが、原子力発電の問題の核心なのです。電力エネルギーとして利用してきたかげで、問題を封じてきたことの責任が問われるのではないでしょうか。原子力発電の「安全神話」は、このことを見ても、全く根拠がないわけです。欠けがいのない地球が、このような「ゴミ」でいっぱいにされていくことに恐れを感じてしまうのです。

 人口激増、生産活動の爆発的拡大、物の消費量の増大など、様々な動きの中で、「電力」の需要は増しています。『原子力発電は仕方が無いんだ!』ではなく、人間の知恵を寄せ集めて、良い解決をしていかないと、この地球に住めなくなってしまうのではないでしょうか。このままでしたら、東シナ海の水平線に沈んでいく太陽の神秘さを、息を飲みながら眺める楽しみがなくなってしまいます。あの美味しいドリアンや水蜜桃だって食べられないのです。毎朝近くの木に飛んできて朝を知らせてくれる小鳥のさえずりだって聞けなくなってしまいます。『こんな地球にだれがした!』と全被造物が叫んでいるのではないでしょうか。

(写真上は、nasaが撮影した青い「地球」、下は、宮古島からのぞみ見る「水平線」です)

「戦争」の起こらないことを願う

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日本は、ふたたび「軍事大国」になっていくのでしょうか。そうなることが、国として不可欠なことなのでしょうか。もちろん、メソメソした国であることを願いませんが。しかし、剣や銃を振るった《強面(こわもて)の国》になることも願わないのです。私は父親が生きていて育ててもらいましたが、何人もの級友たちは、父親を戦死で亡くしていて、母子家庭で育っていたのです。私の「戦争観」というのは、子育てに励まなければならない父親を失わせるもの、家庭から父親や兄を奪うものといったものであります。

私の好きな政治家に、石橋湛山という方がいました。戦後間もない時期に短期間でしたが総理大臣を務めた方だったのです。日本が、欧米の列強に伍していける「大国」になろうとや躍起になっていた時に、新聞社の主筆をしていた若い時に、彼は「小国主義」、「小日本主義」を唱えたのです。国は世をあげて「大国日本」の建設に取り組む中での、この主張は勇気ある発言でありました。みんなに同調することなく、信ずることを主張し続けたという点で、私は石橋湛山が好きなのです。

多くの人は、「他と違う私」であることを恐れるのです。少数者の側に立つことによって、疎まれ嫌われ憎まれることを、誰もが願わないからであります。私は日本人の歴史を学んできて、『日本人とは何か?』との問に、『小心者!』と答えたいのです。いつも周りを気にして、びくびくとして生きてきたのです。『今日は何を着て出かけようか?』と考えると、窓を少し開けて外を眺めます。道行く人の服装を見てから、その日の着物を選ぶのです。ということは、「みんなと違う私」であることを恐れるからです。私に歴史を教えてくれた中学の時の担任は、『日本人は、鎌倉時代には、溌溂さと剛毅さを持って、生き生きととしていた!』と教えてくれました。

欧米人が、個人主義で生きていて、みんなそれぞれに個性的に生きているように見えるのですが、実は内心では、私たち日本人と同じです。「感謝祭」には、タ-キーをみんなが食べるので、『私の家でも食べます!』ということに決めます。食べなかったら、みんなから浮き上がってしまうので、それを恐れるのです。「降誕節」には、クリスマスツリーを飾ります。自分の家にないことを恥じるのです。人の行為の動機づけというのは、大なり小なり、こんなことに帰するのではないでしょうか。

私が勤めていたのは私立校でした。ある時、待遇改善を願って組合のようなものをつくろうとしたのです。30人ほどいたでしょうか、そんな中で、25才の私一人、これに加わらなかったのです。「宙に浮く」というのが、その時の私の置かれた情況でした。いじめられたり無視はされませんでしたが、好奇の目で見られていました。「圧力団体」に加わりたくなかったのはもちろんのこと、教育に専心しようとする青年教師の心意気が強かったからです。悩み抜いて、そうしたのではありませんでした。自分の信念に立とうとしたのです。そんな生き方ができた私は、結局、家も財産も名もなく、今を迎えています。家内が、私の生き方、歩みに同伴してくれるのは嬉しい限りです。

一昨年、大津波で家も車も記念館も、すべてがさらわれてく光景を、テレビで観ていました。人の築き上げた物が何もかも、一瞬にして奪い去られていくのを眺めながら、『こういった俺の生き方もまた良いことなのかも知れない!』と思わされたのです。今回の帰国で、私の弟が借家住まいをやめてマンション購入の計画を話してくれました。私と家内には帰る家がなく、子供たちにも実家がないので、『俺の家を実家にしていいよ!』と言ってくれました。その気持ちに、深い兄弟愛を感じて、こちらに戻ってきたわけです。老後に住む家よりも何よりも、それらを吹き飛ばしてしまう「戦争」の起こらないことを願い、平和を希求する、2013年の「春節」の渦中であります。

(写真は、「朝鮮戦争」で被害にあわれた家族の様子です)