明日から

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 住んでいますアパートの敷地の中の植え込みに、「寒椿」が植えられています。暖かさを増しているこの頃、椿の最盛期が過ぎていますが、木の日陰側には、まだ白と赤の斑の綺麗な花びらをつけて咲いてるのが見つけられます。また冬の間に落葉した木々には、もうすでに若芽が芽吹いて、日一日と葉を大きくしています。今朝も、道筋で出会った、おじいちゃんに押された乳母車の中、着ぶくれた赤ちゃんが、顔に陽を受けて眩しそうにしていました。もう陽の光は、全くの春です。25度の気温の日も、この2週間の間に、ふつ日もありましたから、間もなく、一足飛びに、春を押し越して夏に突入するのではないでしょうか。

 日本の東北地方では、観測史上最高の積雪を記録した冬だったそうですが、週初めには、今季最強の寒波襲来と、ニュースが報じていました。温暖化だと言われているのですが、北半球の今年の冬は、ずいぶんと寒かったことになります。そう言えば、一月に帰国して三週間ほど東京に滞在したのですが、雪が三度ほど降りましたから、東京の寒さに震えていました。弟の家の「炬燵(こたつ)」は、久しぶりで、本当に、あの温かさを楽しませてもらいました。炬燵といっても床暖房の上に炬燵が置かれていて、そこに足を突っ込み、身を横たえたのですが、この「日本の習俗」は、父の家の炭火を入れた「掘りごたつ」を思い出させてくれました。炭の燃える匂いは、もう今では、焼き鳥屋さんか、鰻屋さんでしか嗅ぐことができなくいなっているので、遠い過去の記憶になっています。

 何度も、炬燵から出たくなくて、母や兄に用事を頼んでは怒らてしまったこともありました。あの炬燵が、唯一の暖房手段だったのですから、床暖房をしたり、ストーブを付けて部屋中に暖気をおくる今との違いを思い出していました。次男の家では、今年は炬燵を使っていませんで、エアコンで暖房をしていました。畳の部屋がありませんから、それでいいのかも知れませんが、日本風情を楽しめなかったのですが、かえって炬燵の中にネコのように丸くならないで、買い物で外出したり、所要で出かけたりで活動的だったのは感謝でした。

 明日からは「弥生」、春三月ですね。こちらでは、「元宵節」、日本で言う「小正月」が終わりました。正月気分も消えて、みなさんが一生懸命に働き始めておられます。今朝、久しぶりにイギリス系のスーパーに、家内と買い物に行きました。学校の仕事をしていた私に、外出中の家内から電話が入りました。クリーニング店に着いたのですが、財布を入れたバッグを持たないで来てしまったので、そのバッグを持ってきてくれというのです。それで、彼女のかばんを持って行き、その足で、一緒に買い物に出かけたのです。週日の朝、買い物客はまばらだったでしょうか。衣料コーナーは、まだ冬服が並べられていました。日本ですと、鮮やかな春物一色なのですが。さあ、春です。そろそろ春を探して、野辺を歩きまわってみたい衝動にかられるのでしょうか。

(写真は、http://single-focus.info/modules/webphoto/index.php/photo/3/)の「春の海」です) 

163路・路線バスにて

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 住んでいますアパートは、この街の新興地に位置していまして、「◯◯大道」の脇に位置しています。この周辺には、高層のアパートや新しい商業施設などが建設ラッシュなのです。ちょうど、「雨後の筍」の状況です。とくに、一昨年の暮に、全国展開している大きな商業施設ができてからは、バス路線の数が増えて、街の中の様々なところに出かけていくのに、とても便利になってきています。一昨日も、所要があってバスに乗って出掛けました。同じ路線のバスに帰りも乗り、何を見るとはなく、いつものように「人間観察(マンウォッチング)」をしていました。家に帰るまで30分ほど乗りますから、他にすることがないので、目を開けていますと、人の様々な所作が目に入ってくるわけです。決してジッと見たりはしませんが。

 私の席の前に、一人の五十代前半のご婦人が乗っておられました。このところ、車の数が急に増えて、排気ガスで空気が以前のようでなくなりましたので、喉がいがらっぽいのです。このご婦人も、喉に違和感を覚えられたのでしょうか、『ガーッ!』とやり始めたのです。その音を聞いたので、ちょっと彼女に視線を向けたわけです。窓から外に『ペッ!』をするのか、バスの床にするのか、ちょっと心配して様子を伺っていました。多くの人が、窓を開けて外に向かってするので、脇を通る車や電動自転車や人にかからないかと思ってハラハラするのが常なのです。ところが、私の予想に反して、彼女はポケットに手を入れて何かを探し始めたのです。そうしましたら、中国独特のポケット・ティッシュを取り出して、その紙にとって、ポケットにしまわれたのです。

 この光景は、長くこちらで生活して、初めて見たものでした。私は、これをするときには、ティッシュにとりますが、こちらの方は、なかなかそうされないので、よくティッシュを手渡してあげようかと、一瞬思ってしまうのです。家に帰ってきて、この出来事を家内に話しましたら、やはり、意外なのでしょうか、感心して聞いていました。子どものころの日本も、同じでした。ゴミは、シッチャカメッチャカに捨てられていましたし、あたり構わず『ガーッ、ペッ!』をしていたのです。田舎に行くとお百姓さんは、手でハナをかんでいました。多分、「東京オリンピック」が行われた1964年ころから、そういったことが改められてきたのではないかと思うのです。外国人が多くやってきて、定住する方も多くなってきていましたから、欧米並みの生活が求められてきたのでしょう。

 経済的な余裕が出てこなければ、ちり紙(昔のティッシュのこと)などポケットに入れられないのです。だから、仕方がなかったわけです。また「尾籠(びろう)」な話になって恐縮ですが、子どものころのわが家のトイレには、父や母がハサミで切った「新聞紙」がきちんと置かれて、一生懸命に「揉(も)んで」使いました。やがて「ちり紙」が売られるようになるまで、それが中心的に役割を持っていたのです。今では布のような触感のものが出回っていますから、信じられないことであります。でも大昔は、どうだったのでしょうか。

 何しろ、《生命力の旺盛な国民》というのが、この国の人たちの生活する姿です。クヨクヨしないのです。いつまでもグズグズしていません。サッサと動きが早いのです。広い世界に住んでいたら、大陸のどこにでも移っていけるという「おおらかさ」でいっぱいです。島国で育った私にとっては、実に羨ましい民族性なのです。大方は私たちと大変似ていますが、「生き方」に違いがみられます。学ばせていただいたことが多い、この過ぎた年月であります。

(写真は、「東京オリンピック」の第一号のポスターです)