春の季語に「踏青(とうせい)」と言うことばがあります。俳句を詠む心のゆとりなど、ついぞなかった私ですが、春の野辺に萌え出た青草を踏んで、嬉々として走り回った、幼い日の光景を思い出させてくれます。あの日の浮き浮きした早春の気分を、今も同じように感じさせられて感謝で一杯であります。まだ幼かった子どもたちが、春を感じて、『お母さん、春を見つけに行ってきま~す!』と出かけて行き、野花や名も無い雑草を摘んで帰って来た日のことが、昨日のように懐かしく思い出されてなりません。
私の恩師が、戦時中、治安維持法違反の嫌疑で捕えられて、獄舎につながれている時、獄窓の隙間から、青い空と白い雲、雑草の中に咲いている野の花を見て、『生きているんだ!』と言う実感を覚えさせられたと述懐されていました。この恩師が、卒業して行く私たちに、『野の花のごとく生きなむ!』と色紙に書いてくれたのです。長く牢につながれて、拷問を受けたのでしょうか、足を引きずって歩いておられたのが印象的でした。自由が与えられて、学校に復職して、学部長の重責を果たしておられてました。聞くところによると、先生は大学教育を受ける機会を奪われたのだそうですが、いわゆる無資格の学者で、その道では権威だったようです。
真冬のような塀の中で、『ここを出たら、自由の身になって、好きな学問をしよう!』と願ったり、『思いっきり幼い日に駆け回った野山で、また春を感じてみたい!』とでも思ったのでしょうか、実に穏やかな人柄の方でした。
踏まれても、なじられても、野の草や花は強いのですね。時代を憎んで、人を憎まないで生きることが出来た方でした。この方の奥様が、内村鑑三の弟子の妹さんであったことは、卒業して何年もたって知ったことでした。
人を強くさせ、支えているものがいくつかあるようです。幼い日の懐かしい思い出や人の激励のことば、感動した話などです。でも人を真に強くさせるのは、造物主を知ることに違いありません。自分が、どこから来て、今していることの意味を知り、やがてどこに行くかを知っている人は、自分を知る人なのです。
それにしても、毎年毎年、忠実に訪れてくる春は、いくつになっても、生きているいのちの躍動を感じさせてくれるものです。この2月10日は、ここ中国では「春節」、新しい年の始まりの伝統的な祝日なのです。この大陸では、春の到来の喜びは、何にも勝って貴く、欠け外のないもので、全国民一丸となって喜び迎える最大限の喜びなのです。帰国した夕べも今朝も、「爆竹」が、けたたましく鳴り響いておりました。春を喚起し、呼びこもうとする切々たる思いを感じて、騒音が、心地好く感じられるのは、在華七年目を迎えたからに違いありません。
近いうちに「踏青」、川辺の土手を、萌え出でた青草を踏みながら散歩をしてみようと思っています。なぜなら自然界の復活の季節を肌身に感じたいからであります。
(写真は、春の代表的な草花の一つ「蒲公英(たんぽぽ)」です)