163路・路線バスにて

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 住んでいますアパートは、この街の新興地に位置していまして、「◯◯大道」の脇に位置しています。この周辺には、高層のアパートや新しい商業施設などが建設ラッシュなのです。ちょうど、「雨後の筍」の状況です。とくに、一昨年の暮に、全国展開している大きな商業施設ができてからは、バス路線の数が増えて、街の中の様々なところに出かけていくのに、とても便利になってきています。一昨日も、所要があってバスに乗って出掛けました。同じ路線のバスに帰りも乗り、何を見るとはなく、いつものように「人間観察(マンウォッチング)」をしていました。家に帰るまで30分ほど乗りますから、他にすることがないので、目を開けていますと、人の様々な所作が目に入ってくるわけです。決してジッと見たりはしませんが。

 私の席の前に、一人の五十代前半のご婦人が乗っておられました。このところ、車の数が急に増えて、排気ガスで空気が以前のようでなくなりましたので、喉がいがらっぽいのです。このご婦人も、喉に違和感を覚えられたのでしょうか、『ガーッ!』とやり始めたのです。その音を聞いたので、ちょっと彼女に視線を向けたわけです。窓から外に『ペッ!』をするのか、バスの床にするのか、ちょっと心配して様子を伺っていました。多くの人が、窓を開けて外に向かってするので、脇を通る車や電動自転車や人にかからないかと思ってハラハラするのが常なのです。ところが、私の予想に反して、彼女はポケットに手を入れて何かを探し始めたのです。そうしましたら、中国独特のポケット・ティッシュを取り出して、その紙にとって、ポケットにしまわれたのです。

 この光景は、長くこちらで生活して、初めて見たものでした。私は、これをするときには、ティッシュにとりますが、こちらの方は、なかなかそうされないので、よくティッシュを手渡してあげようかと、一瞬思ってしまうのです。家に帰ってきて、この出来事を家内に話しましたら、やはり、意外なのでしょうか、感心して聞いていました。子どものころの日本も、同じでした。ゴミは、シッチャカメッチャカに捨てられていましたし、あたり構わず『ガーッ、ペッ!』をしていたのです。田舎に行くとお百姓さんは、手でハナをかんでいました。多分、「東京オリンピック」が行われた1964年ころから、そういったことが改められてきたのではないかと思うのです。外国人が多くやってきて、定住する方も多くなってきていましたから、欧米並みの生活が求められてきたのでしょう。

 経済的な余裕が出てこなければ、ちり紙(昔のティッシュのこと)などポケットに入れられないのです。だから、仕方がなかったわけです。また「尾籠(びろう)」な話になって恐縮ですが、子どものころのわが家のトイレには、父や母がハサミで切った「新聞紙」がきちんと置かれて、一生懸命に「揉(も)んで」使いました。やがて「ちり紙」が売られるようになるまで、それが中心的に役割を持っていたのです。今では布のような触感のものが出回っていますから、信じられないことであります。でも大昔は、どうだったのでしょうか。

 何しろ、《生命力の旺盛な国民》というのが、この国の人たちの生活する姿です。クヨクヨしないのです。いつまでもグズグズしていません。サッサと動きが早いのです。広い世界に住んでいたら、大陸のどこにでも移っていけるという「おおらかさ」でいっぱいです。島国で育った私にとっては、実に羨ましい民族性なのです。大方は私たちと大変似ていますが、「生き方」に違いがみられます。学ばせていただいたことが多い、この過ぎた年月であります。

(写真は、「東京オリンピック」の第一号のポスターです)

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