『袖すり合うも他生の縁!』

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 上海で乗船した「蘇州号」の客室で、いくつか年上の方と同室になりました。お聞きすると、上の兄と同学年で、大阪人でした。学校を終えられてから、東京の会社に就職されたそうです。工場から排出される工業汚染物質を取り除く、「環境浄化」の製品を扱う会社に、長く働かれたとのことでした。退職後、故郷の大阪に戻り、すぐに蘇州に移り住んでおられるのです。蘇州では、日本語を教えたり、NGOの働きで、日本を紹介されてきているそうでした。3ヶ月に一度、上海と大阪を往復されておられ、その帰阪の船で、この方と《袖すり合わせること》となったわけです。

 とても話好きな方で、多くのことをお聞きして、とても好い時を過ごしました。これはぎゅうぎゅうに詰められて、人との距離が窮屈なほどに近過ぎる飛行機を利用したのでは、決して叶えられない交わりなのです。海風に当たることができ、のんびりとした旅ができる利点も、船旅なのですが、こういった人生の先輩や同輩や後輩たちから学べる機会というのは、実に素晴らいいものだと知ったのが、去年の夏のことでした。往復の船で、何人もの方と話し込んだのが、実に有意義で、楽しかったわけです。「船上学校」とでも言ったらいいのかも知れません。その味が忘れずに、この冬の帰国時にも、船を利用したわけです。船頭任せの旅で、急ぐ必要もありませんから、何くれとなく話し合えたわけです。

 この方が、昭和20年の大阪の空襲で、お母さんの手に引かれて、焼夷弾の炸裂し、燃え広がる大阪の街を逃げまわった経験を話してくれました。橋が落ちてしまった淀川を、大きく迂回しながら渡り、大阪駅にたどり着き、そこからお父様か、どなたかの故郷の東北の街に疎開をして行かれたのだそうです。私は生まれたばかりでしたし、山の中にいましたので、そういった経験をしませんでした。そんな九死に一生を得るような戦争体験を聞いて、今さらながら戦争の怖さを思い返したわけです。私の兄は、山の中から眺めた甲府の街が燃えていて、空が真っ赤に焦げていたのを覚えていて話してくれたことがあります。そうしますと、この方は、いわゆる《焼け跡派》と呼ばれる世代の方であり、戦争の実体験を持たれた方なわけです。

 多くの人が亡くなられた中を、生き延びてきたのですから、やはり生命力の強さを感じ、何があっても動じない、柔軟な生き方を、このKさんから感じさせられたのです。不思議なのは、昨夏、その「蘇州号」で、大阪に帰る折に、お会いした方も同じ体験を話してくれたのです。お母様の手に引かれ、横浜空襲の中を逃げて、行き別れたお父様を亡くされたことを話してくれたのです。2012、3年の今、戦争が終わったのが1945年ですから、68年も経っているのにもかかわらず、生々しく戦争の記憶をお持ちの方がいて、そういった方々が、企業戦士として、戦後の荒廃した日本を復興され、生きてこられたのだということを思わされたのでした。

 『袖すり合うも他生の縁!』でしょうか、時には、嫌な人もいなくはなかったのですが、同じ時代の静風の中、風の中、嵐の中を生きてきた者同士、『人生とは出会いだ!』と、つくづく、そう思わされております。お元気に過ごされることを願っております。

(写真は、菱川師宣筆「見返り美人」です)

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