恩師

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 「水呑み百姓」とは、gooの辞書によりますと、『江戸時代、自分の田畑を持たず、検地帳に登録されない小作・日雇いなどの下層農民。貧しい農民。無高百姓。 』とあります。一般的に、貧乏な農民を、そう呼ぶようです。そんなことを興味深く聞いたせいでしょうか、小学校の授業で、一番好きだったのが「社会科」でした。地理も、政治や経済のことも好きでしたが、最も興味を覚えたのが「歴史」でした。しかも、「日本の歴史」だったのです。興味があるので成績もマアマアだったのですが、K君にはかないませんでした。お父さんが、紳士服の仕立てをしていて、彼は、「小学◯年生」の付録に、いま習っている個所の「学習補助書(アンチョコ)」を持っていたのです。それを読んでは、いろいろな答えを誰よりもしていたのです。そのことを知る前は、『どうして、そんなことまで知ってるのか?』と感心しながら、彼の答えを聞いていたのです。ところが、だいぶたってから、「付録」からの知識だと知った時から、『何だそうだったのか!』と思ったのです。

 だからといって、私は、父に、『月刊の「小学◯年生」を買って!』と、ライバル意識を燃やして頼むことはしなかったのです。そのかわり、教えてくれたことを、興味津々で聞き続けたわけです。小学校を三月に卒業しようとしていた、年の暮れに、父が私立中に行くように言ってきたのです。兄たちと同じように、町の中学に行こうとしていたのにです。それで、「受験勉強」をし始めました。当時、私立中学に行くのは、田舎町の同級生では、国鉄の駅の近くで、工場を経営していた家の女子だけでした。彼女は、同じ学校の女子部に行きました。私の同級生には、医者、中央競馬会の調教師、大きな商店の息子たちが多くいました。入れてもらった中学の担任(三年間)だったのが「社会科」の教師だったのです。K先生は、三十代の中頃だったでしょうか、頭は薄かったのですが、髭の濃い方でした。4、5人の級友とで、お宅に押しかけた時、お兄さんの家の二階に、ご家族で居候していました。りんご箱が、机だったので、驚きました。「東大卒」と「りんご箱」が繋がらなかったのです。

 始業のベルが鳴る前に、この先生は、壁掛けの地図などの様々な補助教材を手に抱えてやってきて、必ず教壇から一歩降りて、挨拶をしていました。また復習のために、B4版のわら半紙を、4分の1に切った用紙に、問題を作って配布してやらせてくれました。当時は、「ガリ版印刷」でしたから、手間隙をかけて、丁寧に教えてくれたのです。そのおかげで、ますます「社会科」が好きになったのです。ところが、中学2年の夏ごろから、バスケット部にいたせいもあり、意志が弱かったこともあり、烟草を覚えたり、大人の世界に興味を向けて、勉強から遠ざかってしまったのです。それでもなぜか、「実力考査」の成績はまあまあだったのです。中3の最後の成績表の中に、『よく立ち直りました!』と、担任が書いてくれました。そのままズルズルと行かなかったのは、父や母の陰からの応援のせいだったのでしょうか。まあ危機を越えたのでした。

 そんなこんなで、母校の担任の同僚の先生の紹介で、仕事にありつき、教員にならせてもらったのです。しかも、担任と同じ「社会科」の担当でした。こういうのを「三つ子の魂」なのでしょうか。ところで、あの頃のライバルのK君は、どんな道に進んだのか知りませんが、私は好きな「社会科」で飯を食う事になったわけです。人生の導きというのは、実に不思議な「出会い」があってのことだと、振り返って、つくづくと思わされています。恩師の消息を聞きませんが、お元気でしょうか。そんなことを思っている週末の土曜日の朝であります。

(絵は、江戸期の農村風景です)

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