農業の大切さの再考を

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 華南の海沿いの街に、記念館があって、見学のために訪ねたことがありました。昔の農具が展示されていて、つい先頃まで、使われていた物が置かれてありました。それは、東アジアに共通していて、子どもの頃に見て、触れたのと同じような農具が展示されてあって、興味津々でした。

 私たちの家では、父が勤め人の家庭でしたが、山奥から越してきた東京都下の街は、駅の近くなのに、まだまだ農耕地が広がり、農業が盛んで、通学路には、田んぼや畑があって、その間を歩いて学校に通っていました。

 田植え前の田んぼでキャッチボールをしたり、鬼ごっこもしたでしょうか。苗植えのための田んぼならしの農作業から、水の張られた田んぼへの田植え、田の草取り、稲刈り、稲の乾燥、脱穀、稲村積みなどの農作業を眺め、休耕の田んぼの間の登下校でした。

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 田んぼ作りに使っていたのが、「朳(えぶり)」と呼ばれていた農具だそうです。田植え前の田んぼの土をならす、T字型の道具で、野球部が練習を終えた後に、使っていたグラウンドならしのトンボと呼んでいた道具に似ています。地方地方によって、呼び方が違っていたことでしょう。

 その田んぼに入って、一度だけ、田植えの手伝いをしたことがありました。親指と人差し指と中指で、苗をつかんで、土の中にさす作業で、どうも苗をつかみ過ぎて植えてしまったようで、きっと後で、その植え直しが大変だったのではないかと、思ったりでした。

 足踏みの脱穀機に、刈り取った稲を入れる作業も、その様子を見ていた時に、『やってみるかい!』と言われて、させてもらった覚えがあります。稲刈りもしたのです。農作業というのは、大変なもので、「米」という漢字は、「八十八」と書くので、ぞれほどの作業をして、お米が食べられるのだと教えられました。

 華南の農村に行ったときに、三階建ての立派な造りの家に泊めていただいたのです。出稼ぎからの送金で建てた家々で、目を見張るような光景でした。窓から近くにある畑を眺めていましたら、耕運機ではなく、牛に農具を引かせて耕しているのを見て、なんだかチグハグで驚いたのです。立派な輸入車に乗っているのに、農機具が前近代的な、昔ながらなのが、mismatch で興味深かったのです。

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 そう言えば、栃木に来てから、散歩の途中で、農作業を見ることがあります。農薬散布は、ドローンを使っていました。また稲刈りは、畑の面積に比べて車体が大きすぎる程の稲刈り機が作業を開いていました。高級車の座席に座って、スーツを着ていても似合いそうな雰囲気だったのです。泥田の中に、草鞋のをはいて田植えをしたり、腰を屈めて鎌を使っての収穫をした頃と、雲泥の違いでした。

 アメリカの北西部の農村を旅していて、見かけた大規模農法の機械化が、狭い日本の地でも、機械の導入で行われているのは、それほどにしなくともいいにではないか、と思いながら、昨秋は眺めていました。

 田舎から出てきたお母さんでしょうか、竹で編んだカゴの中に、座れるように作られた背負子に、子どもがいたのを見たのです。バスを何度も乗り継いで、大きな街にやって来たのでしょう。まだ車社会になる前の華南の街の光景でした。それがまた熊に近代化してしまうのを、驚きを持って眺めていた滞在期間でした。

 農村育ちのご婦人たちと、一緒に山歩きに誘われて出かけたこともありました。着飾って、ヒールの高い革靴を履いてこられたのには、驚いてしまいました。ついに彼女は、靴を脱いで、裸足で歩いていました。米俵をヒョイと担いだ農村育ちで、伝道師のご主人よりも力持ちだったのです。

 薪で炊いたご飯に、野菜を煮たおかずで、食事の招待に呼ばれたこともありました。純農村、山を越え、川を渡って2時間も車で走ったでしょうか。日本にもあるような山里で、オリーブの木に実をつけていて、その収穫への招待でもありました。近代化しても、あそこの村は、今も変わっていないのでしょう。若者は、都会に出てしまい、お年寄りの社会でした。

(華南の博物館に展示されてある農具、朳、ドローン農薬散布作業の様子です)

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[旅に行く] 芭蕉の感性の凄さ

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 荒海や 佐渡に横たう 天の川

 芭蕉の作です。越後国の出雲崎の浜に立って、天空と海の彼方にとに目をやっています。海の向こうに「佐渡」を見て、見上げると、高遠な「天の川」が視界に入ったのでしょう。

 古人も、天空の不思議に心躍らせたのです。江戸時代、工場の煙突はなく、竈(かまど)や焚き火の煙が立つくらいで、空は澄み渡って綺麗だったに違いありません。夜空を散りばめる星々を眺めている芭蕉の感性には驚かされます。齢四十六の芭蕉は、現実ばかりを見る人ではなく、大自然に目を向けて感動しているのです。

 伊賀国上野に、寛永二十一年に生まれ、俳句を学ぶのですが、二十七歳の時に、江戸に出て行きます。俳人として生きていく芭蕉は、多くの弟子を持ち、彼らに慕われた人でした。

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 「旅を栖(すみか)とす」、李白のように「漂白の思いに駆られ」、「三里に灸すゆる」によって、陸奥(みちのく)に向かって、「過客」となって、深川の庵を出立するのです。芭蕉が使った「ことば」が素敵ですね。李白や杜甫の詩作に学んで、豊かな語彙を蓄えた人だったわけです。

 この人は旅好きだったのです。「奥の細道」の紀行を終えた後に、「野ざらし紀行」を著すのですが、江戸に帰って、また旅に出ています。ゆっくりとした時を過ごしていて、その好きな旅(お弟子さんを訪問の時です)の途上で、享年五十で亡くなっています。

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語りのプロなのか

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 ソウルの教会を訪ねた時に、『日本語は、詩を作るのに適していて、韓国語は、説教するのに向いているんです。』と、韓国人クリスチャンの方が言われていました。確かに、『そうだ!』と思わされたのです。

 中学1年生の時に、高等部の古文の先生から、『月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人なり・・』の書き出しの「奥の細道」を、週一で1年間学びました。国語の授業の枠の外だったと思います。古いけど、実に美しい日本語を学ばせていただいたことは、知識欲の旺盛な時でしたから、実に楽しくて仕方がありませんでした。

 NHKで、その道で活躍して高い評価を得ている方が、ご自分の母校の小学校で、特別講義をする番組がありました。世界的だったり、日本的だったりの著名な先輩からのレクチャーを聞くのです。その番組の中で、小学生の目がきらきらと輝いてるのを見て、講義の内容よりも、彼らの応答の方が興味深かったのです。きっと中1の頃の自分も、『高校生を教えてる先生が僕たちに教えてくれているんだ!』と言う、何とも言えない誇りや自負を感じていたんだろう、と思い出しています。でも中1に、分かるように講義してくれたのですから、あの先生の教授術には驚かされます。

 クリスチャンは、聖書のみことばを暗記するのですが、あの先生から、「奥の細道」を暗記させられたのです。65年近くたつのに今でも、最初の部分をそらんじることができるのです。どうしても日本語の原点は、古典の中にあるのですが、この頃は、古いものが敬遠されてしまう傾向にあるのは残念なことです。

 そういえば、「落語」が、台本なしで演じられるのには、いつも、びっくりさせられています。名人で、桂文楽と言う方がおられました。その日の演目を、家でやらないでは高座にはあがらなかったほどに、完璧を期した噺家だったと聞きます。

 78才の時に、国立劇場小演芸ホールで、「大福餅」を演じているとき、「神谷幸右衛門」という名を忘れて絶句してしまったのだそうです。彼は、『申し訳ありません。もう一度勉強して、出直してまいります!』と謝ってから楽屋へ引っ込んでしまいました。それ以後、二度と高座に上がらなかったのだそうです。実は、この文楽師匠は、いつの日か、高座で、話を忘れてしまうことを想定して、その謝罪のせりふを稽古していたと言われています。

 八十に手の届く年齢になって、度忘れしたって、その時の観客は赦したに違いないのですが、自分の芸にそれほど厳しかったのは、『たかが落語、されど落語!』ですね。ご自分の芸道の限界を認めて、身を引いたのは、実に潔(いさぎよ)いのではないでしょうか。

 「アドリブ」と言う芸があるのですが、即興で話をしたり演奏することですが、せりふを忘れてしまって、咄嗟のごまかしの場合も多いのではないでしょうか。もちろん、アドリブ芸の達人は、しっかりと計算し熟考して、さらりと演じるのだそうです。落語家だって、忘れたことをアドリブで無難にやり過ごしてしまう方だっておいでです。

 「黒門町」と呼ばれていた、稀有の噺家・文楽師匠は、やはり語りのプロだったことになります。そういった古い形の芸人がいたからでしょうか、「落語ブーム」が去っても、また人気を取り戻せたのでしょう。講壇には、いろいろな教会で立たせていただきましたが、今は、講壇から遠ざかってしまい、高座で話を折ってしまった文楽師匠と同じ年齢になって思うところ大なのです。

 話芸と言えば、キリスト教会の説教者も同じでしょうか。周到な準備をしても、詰まったり、間違えたり、忘れたりしてしまいます。そしてお茶を濁してしまうので、文楽師匠のようにはなれないままでした。平壌(ピョンヤン)生まれの教会の牧師さんの韓国語の説教を聴いたことがあります。その日本語語りには感情が豊かに込められていて、抑揚や高低があり、歯切れのよさと迫りが〈機関車〉のようで驚かされたのです。

 イエスさまは、アラム語で弟子たちや群集に向かってお話をされたのですが、どんな抑揚、どんな感情でお話になられたのでしょうか。『彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。(イザヤ422節)』とイザヤが預言していますから、きっと穏やかな口調だったに違いありません。喋りはもとより、《人格の高さ》が抜きんじていたのでしょう。

(“キリスト教クリップアート”から説教されるイエスさま)

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[旅に行く] 防人として

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父母が頭(かしら)かき撫で幸(さく)あれと言ひし言葉ぜ忘れかねつる

 『(遠く筑紫国の太宰府に出かける)私の頭に、二親が頭を撫でてくれた。そして、旅の無事を願って、幸を祝してくれたことばがありがたくて、忘れられない。』

 これは、万葉集の「防人歌」です。そんな思いの「旅」でしょうか。これは、辺境防備のために、防人(さきもり)の任務に選ばれて、出立する若者が詠んだ和歌です。旅に途中には雨や嵐、盗賊だっていたでしょうか、太宰府に着任し、防備に配備されたのでしょう。現代人の旅人には考えられないような長旅をしての任務だったのです。親というのは、子の「幸い」を願うものなのでしょう。

 この歌を詠んだのは、何歳くらいの若者だったのでしょうか。防人勤務は大変なことだったそうです。苦労の多い旅の途中で、両親のやさしさを思い出し、涙したかも知れません。任期三年、それも延長されることが多く、どんなに故郷の家族が思いを占めていたことでしょうか。

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 私たちの子どもたちのうち、15で、長男と次女は、それぞれ中学校を終えて、ハワイの友人の世話で、ハイスクールに入学のために出かけました。次男は中学を出て新潟に行き、長女は高校を出て東京に行きました。みんな不安イッパイだったに違いありませんが、『可愛い子には旅をさせよ!』の親の決心だったのです。〈他人の飯〉を食べるのは、親元とは違っていたのを経験できたわけです。

 でも、そんな主の導きの中で、学び、人と出会い、国外から自分の祖国や家族や友人たちを思い、貴重な体験を積んだのでしょう。確かに学び得たものは、大きかったと思います。

 国のための義務を負い、異国に出かける愛おしい子への親の思いは、今も、自分時も、古代でも同じなのでしょうか。結婚するまで、二親の元にいた自分としては、それは恵まれた時だったと思い返しています。

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再び平和を願って

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 好きな讃美歌が、私にもあります。トプレディー(Augustus Montague Toplady/1740-1778)の作詞で、「千歳の岩よ(Rock of Ages)」です。この讃美歌には、父なる神への全幅の信頼が告白されています。これを賛美すると、自分の信仰の体系が全部備わっているように感じて、ただ感謝な思いが湧き立ってまいります。

1 千歳の岩よ、わが身を囲め
裂かれし脇の 血しおと水に
罪もけがれも 洗いきよめよ
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2 かよわき我は 律法にたえず
もゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず
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3 十字架の他に 頼むかげなき
わびしき我を 憐れみたまえ
み救いなくば 生くる術なし
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4 世にある中も、世を去る時も
知らぬ陰府にも 審きの日にも
千歳の岩よ、わが身を囲め
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 人間の無力さ、か弱さ、寂しさ、死への恐怖の中で、神に見出された者の驚きの中で、神を思い、賛美しているのでしょう。千歳(永遠)、岩、十字架、裁き、陰府、救い、信頼、憐れみ、贖い、力と言った、聖書の用語が並べられた讃美歌なのです。滅びて当然な自分を、永遠のいのちへの救いに入れてくださった神への賛美と感謝が溢れています。
 戦時下のウクライナもロシアも、両国の青年たちは、祖国のために銃を手にして、酷寒の戦場にあって、何を思うのでしょうか。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(マタイ26章26節)」、とイエスさまが、剣を抜いて打ち掛かったペテロに語ったことばを、どう読んだのでしょうか。祖国のために、同胞のために、家族のために、青年は戦わなければならないのでしょうか。

 私たちの世代は、平和教育を受け、平和の戦後を生きてきました。今また、子や孫の世代は、曽祖父の時代のように、剣を手にしなければならないのでしょうか。第三次の世界戦争は、避けられないのでしょうか。昨日、フランシスコの「平和の歌」を読みました。

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びを。

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。

 イザヤ書に次のように記されてあります。
 『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。  その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 (9章6〜7節)』
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戦争と平和

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 青年期に、ヴェトナム戦争がありました。『市民権がもらえるぞ!』と、同級生に誘われたのですが、応募しませんでした。1965年、その戦争中に、“ What The World Needs Is Love ” と言う歌が生まれました。戦争よりも、「愛」を世界が必要としている叫び声でした。

What the world needs now is love, sweet love
It’s the only thing that there’s just too little of
What the world needs now is love, sweet love
No, not just for some but for everyone

Lord, we don’t need another mountain
There are mountains and hillsides enough to climb
There are oceans and rivers enough to cross
Enough to last ‘til the end of time

What the world needs now is love, sweet love
It’s the only thing that there’s just too little of
What the world needs now is love, sweet love
No, not just for some but for everyone

Lord, we don’t need another meadow
There are cornfields and wheat fields enough to grow
There are sunbeams and moonbeams enough to shine
Oh, listen, Lord, if You want to know

What the world needs now is love, sweet love
It’s the only thing that there’s just too little of
What the world needs now is love, sweet love
No, not just for some, oh, but just for every, every, everyoneq

(What the world needs now) Whoa, whoa (is love) is love (sweet love)
(What the world needs now) Oh, oh (is love) is love (sweet love)
(What the world needs now) Oh, oh (is love) is love (sweet love)

世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
足りてないのはこれくらい
世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
ダメよ一部の人だけじゃ,みんなになくちゃダメなのよ

神様,山はもう要りません
山登りしたいなら,山も丘も十分あるし
渡ってどこかへ行きたいのなら,海だって川だって十分に足りていて
この世の終わりがやって来るまで,なくなったりしないから

世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
足りてないのはこれくらい
世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
ダメよ一部の人だけじゃ,みんなになくちゃダメなのよ

神様,牧草地ももう要りません
食べ物を作りたいなら,トウモロコシの畑とか,小麦畑が十分あるし
輝く光が欲しいなら,お日様の光や月の光もあるの
ねえ神様,関心があるならどうか話を聞いて

世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
足りてないのはこれくらい
世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ
ダメよ一部の人だけじゃ,みんなにもれなくなくちゃダメ

世の中に必要なのは,愛ってものなの,優しさよ(愛なのよ)

 日本の最後の戦場となった沖縄ですが、2023年の「平和の詩」に選ばれた沖縄市立山内小学校の2年生の徳元穂菜さんの詩、「こわいをしって、へいわがわかった」があって、次の詩を発表しています。

「びじゅつかんへお出かけ
おじいちゃんや
おばあちゃんも
いっしょに
みんなでお出かけ
うれしいな

こわくてかなしい絵だった
たくさんの人がしんでいた
小さな赤ちゃんや、おかあさん

風ぐるまや
チョウチョの絵もあったけど
とてもかなしい絵だった

おかあさんが、
七十七年前のおきなわの絵だと言った
ほんとうにあったことなのだ

たくさんの人たちがしんでいて
ガイコツもあった
わたしとおなじ年の子どもが
かなしそうに見ている

こわいよ
かなしいよ
かわいそうだよ
せんそうのはんたいはなに?
へいわ?
へいわってなに?

きゅうにこわくなって
おかあさんにくっついた
あたたかくてほっとした
これがへいわなのかな

おねえちゃんとけんかした
おかあさんは、二人の話を聞いてくれた
そして仲なおり
これがへいわなのかな

せんそうがこわいから
へいわをつかみたい
ずっとポケットにいれてもっておく
ぜったいおとさないように
なくさないように
わすれないように
こわいをしって、へいわがわかった」

今まさに、ウクライナでは戦争が続いていて、何も生み出さない争いなのを、過去に学ばない愚かさを露呈しています。いつも苦しむのは、若者たちであり、その家族です。産業は滞り、食糧も生産できず、多くの命が潰えているのです。そん中で、平和を願う声が、世界中から聞こえて参ります。

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チュウでいい

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 40数年ほど前になるでしょうか、著名な牧師さんが、説教の中で、こんな話をされました。『日本の企業は、世界中に出かけて行って、その性能の高い製品を売って、莫大な収益を上げています。それなのに、あなたがた日本の教会は何ですか!』と、人数的な成長の見られない日本の教会の小ささを叱責されたのです。

 アメリカの宣教団体から、宣教師がアジア諸国に遣わされています。何年かに一度、宣教師のコンファレンスが行われるのだそうです。インドネシアやタイやフィリッピンで宣教している方々は、何千人、何万人もの会衆を持つ教会を、いくつも建て上げているレポートをされるのだそうです。それに比べて、日本に遣わされた宣教師さんは、誇るべきミッション・レポートを持たないで恥じ入ると言うのです。結果が顕著でないからなのです。でも決して優秀な方が、フィリッピンに遣わされていて、日本には無能な方が送られているのではないのです。

 同じように学び、同じように熱烈な信仰を持ち、宣教地の人々を愛し、宣教の志に燃えて宣教をしているのに、収穫には歴然たる違いが見られるのです。私が、次女の卒業式に出席した時に、娘のホストをしてくださった方と、ある牧師さんを訪問したことがありました。『彼は小さな教会を牧会している日本の牧師なんだ!』と小声で言っているのを聞いてしまいました。10000人ほどのハワイの教会に比べたら、私たちの教会は実にわずかでしたから、当然なのですが。

 石橋湛山が「言論の人」と言う見出しで、地方紙で取り上げられていました。1956年12月から翌年にかけて、63日間の短命内閣の首相をなさった方です。彼が掲げた特徴的な政策理念は、「小日本主義」でした。数の多さや大きさではなく、大切なのは、『良心に従って行動する!』ことだと言う考え方を、札幌農学校の一回生の大島正健(クラークの薫陶を受けた教育者・旧制甲府中学校長)から学びます。

 私が、オレゴン州ポートランド近郊の教会を訪問させて頂いた時、その教会の牧師さんが、『みなさん、日本の牧師さんたちは、霊的に難しい土地で、よく頑張っておられて、感謝でいっぱいです!』と言って、白血病でキモ・セラピーをされておられたのに、握手とハグで歓迎し、滞在中、暖かくもてなしてくれたのです。

 長女が、『お父さん、20年も30年も頑張って来たじゃあない。そして私たちを育ててくれたんだから、感謝でいっぱい!』と、伸び悩んでいる父の私に言ってくれたことがありました。その言葉に、どんなに励まされたことでしょうか。結局、大切なのは、「忠実さ」なのでしょう。すべきことをしているのなら、恥じ入ることはないわけです。

 私たちの交わりの諸教会を建て上げてくださった宣教師さんたちは、「小国主義」の面々だったのではないでしょうか。主の圧倒的な訪れを見ないまま、彼らは天の故郷に帰って行かれました。彼らは、そこで、自分への冠を投げ出していることでしょう。私も、そういった価値観を持つ人々の列伝の中に連なりたいと願いでしょう。       

 韓国の教会の牧師さんは、『キリスト教会は、「大」きいのがいい!』と言いました。日本人の牧師は、『「小」さくてもいい!』と言い合って、両者は教勢論争になったのです。なかなか結論がつかない所に、一匹のネズミが出てきて、「チュウ」と鳴いたのです。それは、《ほどほどでいい》と言う意味ででしょうか。

 数の多さが成功の尺度なのでしょうか。少数精鋭が王道なのでしょうか。我が家の近くに、小さな魚屋があり、美味しく活きのいい魚を、けっこう安く商っていて、人気店でした。ところが近所に大きなスーパー・マーケットが出店したので、この魚屋も、その近所の小売店もつぶれたり、職種を変えて食堂になったりしてしまったのです。大きな勢力の横暴で、小さいものが滅びるのです。

 今も大国志向の国が、隣のかつての連邦国を従えようとする横暴で、銃を持って進軍して、破壊と殺戮を続けています。平和に生活していた人を、苦難に突き落として撹乱しています。戦前の日本も同じでした。そん中で、「小国主義」を掲げた、石橋湛山がいました。勇気ある人でした。歴史は、覇権主義の日本に対して「否」を下したのです。

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悔いと感謝で

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 中学の修学旅行で、京都と奈良に行きました時に、金閣寺が見学コースに入っていました。その寺の賽銭箱を覗き込みましたら、小銭が中に入らなくて、その投入口の途中で躊躇していました。中に入れると、自分が賽銭してしまうことになるので、失敬してポケットの中に入れて、何かを買ってしまったのだと思います。

 『神社の神体には、手も足もないから使うことはできないだろう!』と判断した14才の私は、『俺が使ってあげる!』と言って、無許可で頂戴してしまいまったわけです。その時までも、クリスチャンにされて、今日までも、神社を参拝したことも賽銭をしたこともない私は、その泥棒の償いを、どうしたらいいか迷ったのです。賽銭箱に戻しに行ったら、他人の投げ込んだお金で賽銭してしまうことになってしまう、その〈100円〉が重くのしかかっての今です。

 自分の育った街の駄菓子屋で、キヨちゃんというおばさんが向こうを向いている隙に、お菓子を失敬してしまったことが、小学生のころに何度もありました。クリスチャンになって、伝道者となるために献身しました後、どうも責められて仕方がありませんでした。

 それで、その街を訪ねた時に、意を決して、3000円をポケットの中にねじ込んで、『おばさんの目を盗んで、子どもの頃に、何度もお菓子を失敬したことがあります。その時の代金です。赦してください!』と言って、それを手渡しました。

 キヨちゃんは、驚いたようにして笑い顔で、『そんな、もういいわよ!』と言ってくれました。だからと言って、その行為が、償いになるのか、赦されるのか分かりませんが、法律的には時効になっていても、民事法上は賠償責任があるのでしょうね。

 また母親や父親の財布の中から、小銭をくすねたこともたびたびのことでしたが、そういった盗みの行為は、どう清算したらよいのでしょうか。100円も60億円も盗みは盗みですから。神さまの前には、『すべての犯した罪をお赦しださい!』と告白しました日に、赦されている確信はだれにも負けないものがありますが、このままで済ませていいのかが、罪多き私の悩みであります。

 

 

 

 さて、神社は賽銭、お寺はお布施ですが、教会は「献金」と言います。牧師になりましてから、「牧師指定献金」を頂くことがあります。おもに匿名で、『必要に当ててください!』と言うものです。1989年1月のことでしたが、6万円ほどの献金が、高名な某牧師さんから、書留で送られてきたことがあります。

 どの献金も尊いのですが、その時の献金は、『もったいなくて頂くことはできない!』と思ったのです。それは、岡山県の長島愛生園にあるキリスト教会の兄弟姉妹からの、私宛のものだったからです。ある刊行物に掲載された、私に関する記事を読まれての厚意だと、添えられた手紙に記されてありました。

 この教会は、ハンセン氏病に罹病して、ふるさとや家族から捨てられた人たちが、イエスさまと出会って、救われ、望みを主につないで生き始めた方々によって出来上がった群れなのです。腎臓を兄のために移植をしたという話を聞かれたみなさんが感動されて、100円、200円と献金してくださったものだったのです。

 『兄弟は苦しみを分け合うために生まれる(箴言1717節)』

 この聖書のみことばに励まされて、主に押し出されてした行為に過ぎなかったのですが、ハンセン氏病で苦しんできた愛兄姉には、大きな励ましだったことを知って、ただ感謝させて頂いたのです。賽銭泥棒で、お菓子の万引き常習犯の罪人ですから、お受けする資格のない私に対してでした。

 『献金は、信者さんたちの命、血の代償なのだ!』と思って、感謝して生きて来た私にとって、その長島教会の愛兄姉の献金は、万金に値しました。そういった、数多くの愛兄姉のいのちが、これまで、私と私の家族を養ってきてくださったのです。長島の愛兄姉からの40年ほど前の《深い愛》を思い出して、ただただ感謝でいっぱいです。

 家内の病状報告が、〈献金の要求〉だと誤解されたことが、これまであって、そう誤解する方のために、家内のことに触れるのを、極力避けているのですが、人の心の思いの深い奥は知り得ませんので、それでも躓きとなるものは避けなければなりません。そう心に決めている梅の開花の知らせが聞こえてくる今日日です。

(梅の花と瀬戸内海に浮かぶ長島)

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鹿児島県

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 薩摩といえば、「さつま芋」と「小原節」と「西郷どん」でしょうか。七百年の歴史のある「おはら節」ですが、「西郷どん」も出てくるのは、明治以降に付け加えられた歌詞でしょうか。悠長で、男っぽくて、よか歌ではないでしょうか。

花は霧島 煙草は国分
燃えて上るは オハラハー 桜島

雨の降らんのに 草牟田川にごる
伊敷原良の オハラハー 化粧の水

見えた見えたよ 松原越しに
丸に十の字の オハラハー 帆が見えた

おけさ働け 来年の春は
とのじょもたせる オハラハー よか青年を
(ハア ヨイヨイ ヨイヤサ)

伊敷原良の 巻揚の髪を
髪を結たなら オハラハー なおよかろ

雨の降る夜は おじゃんなと言うたに
ぬれておじゃれば オハラハー なおかわい
(ハア ヨイヨイ ヨイヤサ)

花は霧島 煙草は国分
燃えて上るは オハラハー 桜島

花は霧島 煙草は国分
燃えて上るは オハラハー 桜島

 律令制の下では、現在の宮崎県の一部を加えて「日向国(ひゅうがのくに)」と言われていた地でした。その後「薩麻国」と言われてきました。鎌倉時代に、薩摩・大隅・日向の三ヶ国の守護に任じられたのが、有力な島津家、守護大名として支配していたのです。豊臣秀吉の家臣として、徳川、上杉、毛利、前田に次ぐ、島津は大大名でした。家康に嫌われ、外様大名となりますが、結局、長州と合議して、明治維新を成し遂げる、反徳川の企ては、国際的な時流とともに、成功したわけです。二百数十年の冷遇の結果だったのでしょうか。

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 県都は「鹿児島市」、県花は「ミヤマキリシマ」、県木は、「カイコウズ」と「クスノキ」、県鳥は「ルリカケス」、人口は156万人です。農業県で、宇宙開発のために、種子島にセンターが設けられてきています。宇宙への夢は、平和利用であって、ゆめゆめ軍事目的に流れない様にと願うばかりです。

 18の時に、九州旅行をして、一緒に出掛けた友人の同級生が、鹿児島市にいて、そこに寄ったことがありました。彼のお婆ちゃんと話しをしたのですが、ひと言も分かりませんでした。まるで、薩摩弁は外国語で、類推もできず、ただ、『はい。はい!』と頷くばかりでした。この薩摩弁は、余所者、とくに幕府からの密偵を見分けるために、人工的に作られたという説がありますが、言語学的には、長い年月にわたって作り上げられた方言であるそうです。

 弟の書庫に、「南洲翁遺訓」がありました。ずいぶん古い本で、発行年を確かめませんでしたが、初版は、1896年に発行されていますが、弟のは、岩波文庫版だったと思います。旧庄内藩の藩士が、「征韓論」に敗れて鹿児島に戻っていた西郷隆盛を訪ねて、そこでの西郷隆盛の談話を記録したものです。この西郷隆盛は、「敬天愛人」と言う言葉も残しています。

 『道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり。』

 江戸を、焼き討ちにしようとの企てがあったのですが、池上本門寺(現在の大田区にあります)で、幕府旗本であった勝海舟と、江戸開城の話をして、その焼き討ちを思いとどまって、「無血開城」になったのは話は有名です。49歳で、「西南戦争」の折に、自刃して亡くなりました。


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 『代表的日本人」の一人として、内村鑑三は、この西郷隆盛を上げています。多くの人に愛され、敬われた人でした。上野公園に、西郷像がありますが、犬を散歩させている姿なのです。100kgもの肥満体だったので、痩せるために、よく犬を連れて散歩していたのだそうです。幕末から維新にかけての大物であったのです。

 「せごどん(西郷どんの薩摩訛りだそうです)」は、『命もいらず、名もいらず、官位もいらぬまま人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり。』と言い残しています。東京に留まらず、「下野(げや/地位や良い職を捨てて東京をさって鹿児島の戻った西郷の選び取った生き方をそう言います)」した人でした。「郷中(ごじゅう)」と呼ぶ、薩摩藩の教育課程が有名で、下級武士の子の西郷どんも受けた教育だったのです。

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 その教育方針の中には、「第一は虚言など申さざる儀士道の本意に候条、専らその旨を相守るべき事(嘘は言うな)」とか「山坂の達者は、心懸ける事(山坂を歩きての身体に鍛錬をせよ)」などがありました。西郷どんは、無欲の人だったそうです。そして、13年の間、生活を共にした人は、西郷どんが、自分の身の回りの世話をしている人を、叱って一喝する様なことはなかったと語っています。そう言う人だったので、誰にも愛され、明治天皇にも、特別の思いを向けられていたそうです。

 西郷どんも見上げた桜島を見ながら、鹿児島駅から電車に乗って、開聞岳に行ったのです。夏休みを利用しての旅でしたので、キャンプ場に泊まったりしたのです。綺麗な山容の山で、対岸の鹿屋から、沖縄戦に出撃した特攻隊は、この山を目指して飛び始め、アメリカ軍の戦艦に立ち向かったそうです。その時、出撃基地の鹿屋には寄りませんでした。何時か行こうと願いつつも果たせずにおります。

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 家内は、鹿児島県下で宣教活動をした、婦人宣教師さんのお手伝いで、しばらく鹿児島にいた時期があったそうです。この方は、戦時中の日本兵の蛮行を目撃して、神なき民の悲劇を感じて、日本宣教にやって来られたそうです。東京で、宣教師の訓練センターで、日本語講師をしていた家内のお母さんから言葉を学んだそうです。ちょうど結婚した頃でしょうか、熊本にいた時に、鹿児島から軽自動車を運転して、東京に行こうとしていた、この宣教師さんにお会いしたのです。この時は、すでにご高齢で、法定速度以下でゆっくりと運転していて、驚いたのを覚えています。

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 開聞岳以南の日本の地には、行ったことがありません。奄美大島や屋久島、沖縄は、いつも行こうと願ってはいましたが、実現しないままでおります。屋久島は、縄文杉の巨木があるそうで、厳しい自然環境の中を生き抜いてきたという姿は、是非とも眺めて見たいものです。幹の周囲が16.4m、樹の高さが30mもあるそうです。

 鹿児島訪問の思い出の一つは、天文館という通りの百貨店の中に、かき氷屋があって、それを、奢ってもらったのです。そこでは、「しろくま」と呼んでいて、かき氷に、何種類もの果物が topping されていて、真夏の味としては最高でした。あの時以来、普通のかき氷を食べようとしなかったのです。

 さて、わが家が、最近しきりに食べているのが、「薩摩芋」です。江戸日本橋の小田原町で魚屋の子でしたが、後に幕府の御用掛になった青木昆陽という人が、享保の飢饉の中で栽培を奨励したのが、この「サツマイモ」でした。食べる時、胸焼けがするのですが、物の豊かな時代でもとても美味しいのです。

(ミヤマキリシマ、桜島、西郷直筆の書、薩摩芋、開聞岳です)

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神の子であり人の子であること

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   『すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。(使徒831節)』

 新宿から小田原や江ノ島を結び京王線に、「芦花公園駅」があります。この公園は、ここに恒春園という家を構えて住んでいた徳富芦花にちなんだ名の駅です。肥後熊本の人で、青年期に、兄の蘇峰と共に、ジェーンズの熊本洋学校に学んでいます。後に京都の同志社に転じて、青年期を過ごし、兄弟二人、キリスト教の洗礼を受けています。

 明治初期に、欧米思想が怒涛の様に入り込み、多くの文人たちが、その波を被っています。それは江戸時代以前から禁教とされていたキリスト教の思想が、じょじょに解禁されざるを得なくなって、その感化が、おもに青年たちの間で大きかったからなのです。芦花は、「人道主義」を言い表したトルストイ(18281910年)に傾倒し、彼に会うために、わざわざロシアのヤースナヤ・ポリャーナに、彼を訪れ、その途次、エルサレムやガリラヤも訪ねています。

 芦花や蘇峰だけでなく、北村透谷、有島武郎、武者小路実徳、島村抱月などの明治の文人の多くが、トルストイの作品を読み、彼の思想の感化を受けています。何人かはキリスト信仰か離れてしまっています。「イザヤ書」を呼んでいたエチオピアの宦官が、その理解に苦しんで、『導く人がなければ、どうしてわかりましょう。』とピリポに言っています。聖書を、正統な方法で読まず、学ばず、聞かないで、個人的な解釈に従うなら、迷路に迷い込んでしまうのですが、そう言った人たちが多くありました。

 「イエス伝」と言う書を、ルナン(18231892年)が書きました。彼のイエスさまは、比類なき人間、詩人キリスト、自然児キリスト、田舎者キリスト、平民キリストであって、神の子ではなく、人間の子に限定しました。ルナンもトルストイも芦花も蘇峰も、パレスチナに旅をしますが、ガリラヤの自然に印象を残すだけで、その地を巡り歩いて、救いと癒しと永遠のいのちをもたらせた「救い主イエス」への信仰を継けsなかったのです。

 彼らは自然を賛美し、自然美を謳歌したのですが、その自然を造られた神を賛美せずにいたのです。そういった彼らのほとんどが、信仰の後退、離反、棄教に移って行くのです。このルナンに悪い感化を与えたのが、1835年に、27才で「イエス伝」を書いたシュトラウス(18081874年)でした。彼は、シュライエルマッハーの考えを踏襲して、聖書から奇跡を取り除いて、「人間イエス」を書いたのです。

 この思考の流れの中に、ノーベル賞を受賞した、密林の聖者と言われたシュバイツアーがいます。彼もまた、「イエス伝」を書いていて、聖書の奇跡を認めてはいないのです。奇跡を、イエスさまの生涯の記録から取り除いた「人間イエス」を掲げた彼らの教説は、キリスト信仰を改革することはできず、歴史の中に沈んでしまいました。

 理屈で立っていた私には、エチオピアの宦官の様に、「ピリポ(講解者、解説者、教師)」がいて、私に聖書を「神のことば」、「いのちのことば」として、《わからせてくれた》ことに、深く感謝しているのです。8年間教えを受けた宣教師、さらにJ.G.メイチェン、ジョン・マーレー、内村鑑三、竹森満佐一、菊池吉彌、W.リュティ、岡田稔、榊原康夫などの方々の書籍や説教テープによってです。信仰的な感化がじつに大きかったようです。

 それは、私に健全な信仰の土台を据えてくださった人、書籍、信条、さらに人格的な感化でした。カナダ人宣教師の教会に導かれた母も、単純に聖書を信じ、イエスさまをキリストと信じて、95歳で帰天しています。よく祈り、賛美をしていた母でした。

(“ キリスト教クリップアート” から「ピリポとエチオピアの宦官」です)

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