主を知ることを切に

.
.

 人の一生と言うのは、「瞬きの間」の様に、飛び去っていくのでしょう。『準、いくつ喰う?』と言って、元旦の朝、母の作ってくれたお雑煮の鍋に入れる餅を焼くのに、父が聞いてくれた声が、昨日の様に思い出されてきます。

 母は、自分のふるさとの出雲風の雑煮を、きっと作りたかったのだろうと思うのですが、父の関東風で、小松菜と鶏肉の醤油味で作ったのです。さっぱりとお腹いっぱいに食べたのも、目の前にちゃぶ台があるかの様に、あの光景が目に浮かんできます。

 昨年、母の養母の実家の奥出雲地方の丸餅と雑煮つゆを、ネットで見つけて注文したのです。母が食べていただろうと思うお雑煮です。同じ山陰でも、地方地方で、村々で、部落部落で、そして家々で作り方も味付けも違うでしょうけど、日本酒に漬けた「十六島海苔(うっぷるい/島根半島西部の地名)」が具なのだそうけど、上手に再現できなかったのです。お酒を飲まないので、日本酒もなかったのです。

 もう2月、お雑煮の話題は、「往ぬ(いぬ)」べきでしょうか、この意味は「去る」、「行ってしまう」で、「一月」の「い」で、まさに瞬く間に過ぎてしまいました。この今月の「二月」の「に」は、「逃げる」なのだそうで、この月の二十八日間も、逃げ去っていくのでしょうか。来月、弥生「三月」の「さ」も、「去る」のだそうです。

.
.

 年初めの三ヶ月は、正月、立春、節句、春分と、それに卒業式の月で、慌ただしくアッという間に行ってしまうからなのでしょう。では新年度の始まりの「四月」の「し」は、何を当てはめたらいいのでしょうか。積極的な願いで「知る」はどうでしょうか。

 『私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」 (ホセア63節)』

 「知るべきこと」は、ただ一つ、『主とはどなたか?』ではないでしょうか。ソロモン王は、次の様に言っています。

 『私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」  私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。  実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。 (伝道者11618節)』

Menorah – jewish traditional candle holder for seven candles isolated on white background

 

 イスラエルの王のソロモンは、賢者であったのですが、知識は人を高ぶらせ、悩みを増し加えるばかりで、「風」を追うが如しであって、人生必須のものではないというのが、この人の結論です。増せば増すほどに、「悩み」が多くなっていくのだと付け加えます。

 イエスさまは、ベタニヤのマルタとマリヤの家で、こんなことを言っています。

 『しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 (ルカ1042節)』

 すべきことも、知るべきことも、「わずか」だと、イエスさまは言いました。英欽定訳ですと、妹が選んだ ” one thing “ だけが《必要なもの》だと言ったのです。《一つだけの必要》こそが、私たちの知るべきことであるのでしょう。

 「主」とは、エホバ(Jehovah / יהוהアドナイ(אֲדֹנַי [’Ăḏōnay])のことです。聖書は、「神である主(創世記24節)」と言います。モーセの幕屋の置かれた「燭台」は、「主」を象形していると考えられます。イエスさまを「主」と信じる私は、どんなに素晴らしいお方か、もっともっと知りたいのです。

(「キリスト教クリップアート」のイラスト、十六島の「海苔採り」、「燭台」です)

.