もうすぐ三月ですね!

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 もし200年後があったとして、その頃のみなさんが、200年前の古写真を見て、『この口のまわりの白や黒や花柄の布は何なんだろう?』と不思議がることでしょうか。その頃は、みなさんが防毒マスクをかぶっていて、『こんな簡単なもので、ビールスや毒素を防げたのだろうか?』と、きっと訝(いぶか)しく思うのではないでしょうか。

 父の戦時中に撮った写真が、次兄の家に残っていると思います。東京の都心を歩いている父が、黒いマスクをつけている姿です。マフィ屋の親分のようにも見えないでもないのですが、風邪を引いた後のマスクで、人に移さないような配慮があったのではないかと思えてきます。今で言う「流行性感冒(インフルエンザ)」が流行していたのでしょうか。

 この313日からは、3年ほどの歴史のある「マスク着用」は個人の判断に任されられるようですが、気になるのは、つけるべきか、外していていいいのか、『他の人はどうするかな?』、なのでしょうか。「世間」は、どう判断し、どう決めているかが気になる日本人は、きっと迷うに違いありません。「他人の目」でしょうか。

 前からくる人が、どうしても避けているように、進路を変えているのに出会(でくわ)して、何とも言えない「疎外感」、「仲間外れ感」の思いに駆られるのは、私だけではなさそうです。聖書の中に、ライに冒された人が、道を行く様子が記されています。

 『患部のあるそのツァラアトの者(昭和46年版の新改訳聖書では「らい病人」と訳されてあります)は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ばなければならない。 (レビ1345節)』

 ユダヤ人の旧約時代の世界では、「汚れ」に対する厳格な規定があったのです。聖なる創造者なる神さまは、異邦の民のさまざまな汚れに対して、ご自分の民が、その汚れに汚されないように、「聖さ」を求められたのです。それは差別とは違い、「区別」でした。ライに冒されたら、その人が回復することを願い、社会復帰できるような願いが込められていました。

 ですから、その感染の他者への拡散を防ぐために、つまり、その社会で共同生活をする人々を守るための決まりでした。この3年間のマスクは、感染を防ぎ、保菌者からの拡散を防ぐためになされてきたものでした。それでも、『コロナだ、コロナだ!』と叫んでいる人とは出くわさなかったと思います。

 私の信じてきた神さまは、汚れをきよめる(聖める)お方です。どんな汚れだって、「十字架の血(1ヨハネ1:7、ヘブル9:4)」、「聖霊(ロマ15:16)」、「みことば(ヨハネ15:3)」、「信仰(使徒15:9)」、「懲らしめ(ヘブル12:10)」によって聖めてくださいます。聖別会でではなく、信じた瞬間に、救いの一面としてです。そして漸進的にです。その途上に私はあり、感謝でいっぱいなのです。

 うっとおしいマスクですが、寒い日には、口元が暖かくて良かったのです。髭剃りを気にせずに、忘れたふりをしても、見咎められずに済んだのです。いったん慣れ親しんだものから、離れるには、けっこう難しいかも知れませんね。それにしても、『クソジジイ!」と言った、あのおばさんは、感染しないで済んだのか、ちょっと気にしてみたい、《もうすぐ三月ですね》であります。

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