農業の大切さの再考を

.
.

 華南の海沿いの街に、記念館があって、見学のために訪ねたことがありました。昔の農具が展示されていて、つい先頃まで、使われていた物が置かれてありました。それは、東アジアに共通していて、子どもの頃に見て、触れたのと同じような農具が展示されてあって、興味津々でした。

 私たちの家では、父が勤め人の家庭でしたが、山奥から越してきた東京都下の街は、駅の近くなのに、まだまだ農耕地が広がり、農業が盛んで、通学路には、田んぼや畑があって、その間を歩いて学校に通っていました。

 田植え前の田んぼでキャッチボールをしたり、鬼ごっこもしたでしょうか。苗植えのための田んぼならしの農作業から、水の張られた田んぼへの田植え、田の草取り、稲刈り、稲の乾燥、脱穀、稲村積みなどの農作業を眺め、休耕の田んぼの間の登下校でした。

.

 

 田んぼ作りに使っていたのが、「朳(えぶり)」と呼ばれていた農具だそうです。田植え前の田んぼの土をならす、T字型の道具で、野球部が練習を終えた後に、使っていたグラウンドならしのトンボと呼んでいた道具に似ています。地方地方によって、呼び方が違っていたことでしょう。

 その田んぼに入って、一度だけ、田植えの手伝いをしたことがありました。親指と人差し指と中指で、苗をつかんで、土の中にさす作業で、どうも苗をつかみ過ぎて植えてしまったようで、きっと後で、その植え直しが大変だったのではないかと、思ったりでした。

 足踏みの脱穀機に、刈り取った稲を入れる作業も、その様子を見ていた時に、『やってみるかい!』と言われて、させてもらった覚えがあります。稲刈りもしたのです。農作業というのは、大変なもので、「米」という漢字は、「八十八」と書くので、ぞれほどの作業をして、お米が食べられるのだと教えられました。

 華南の農村に行ったときに、三階建ての立派な造りの家に泊めていただいたのです。出稼ぎからの送金で建てた家々で、目を見張るような光景でした。窓から近くにある畑を眺めていましたら、耕運機ではなく、牛に農具を引かせて耕しているのを見て、なんだかチグハグで驚いたのです。立派な輸入車に乗っているのに、農機具が前近代的な、昔ながらなのが、mismatch で興味深かったのです。

.
.

 そう言えば、栃木に来てから、散歩の途中で、農作業を見ることがあります。農薬散布は、ドローンを使っていました。また稲刈りは、畑の面積に比べて車体が大きすぎる程の稲刈り機が作業を開いていました。高級車の座席に座って、スーツを着ていても似合いそうな雰囲気だったのです。泥田の中に、草鞋のをはいて田植えをしたり、腰を屈めて鎌を使っての収穫をした頃と、雲泥の違いでした。

 アメリカの北西部の農村を旅していて、見かけた大規模農法の機械化が、狭い日本の地でも、機械の導入で行われているのは、それほどにしなくともいいにではないか、と思いながら、昨秋は眺めていました。

 田舎から出てきたお母さんでしょうか、竹で編んだカゴの中に、座れるように作られた背負子に、子どもがいたのを見たのです。バスを何度も乗り継いで、大きな街にやって来たのでしょう。まだ車社会になる前の華南の街の光景でした。それがまた熊に近代化してしまうのを、驚きを持って眺めていた滞在期間でした。

 農村育ちのご婦人たちと、一緒に山歩きに誘われて出かけたこともありました。着飾って、ヒールの高い革靴を履いてこられたのには、驚いてしまいました。ついに彼女は、靴を脱いで、裸足で歩いていました。米俵をヒョイと担いだ農村育ちで、伝道師のご主人よりも力持ちだったのです。

 薪で炊いたご飯に、野菜を煮たおかずで、食事の招待に呼ばれたこともありました。純農村、山を越え、川を渡って2時間も車で走ったでしょうか。日本にもあるような山里で、オリーブの木に実をつけていて、その収穫への招待でもありました。近代化しても、あそこの村は、今も変わっていないのでしょう。若者は、都会に出てしまい、お年寄りの社会でした。

(華南の博物館に展示されてある農具、朳、ドローン農薬散布作業の様子です)

.

[旅に行く] 芭蕉の感性の凄さ

.

 

 荒海や 佐渡に横たう 天の川

 芭蕉の作です。越後国の出雲崎の浜に立って、天空と海の彼方にとに目をやっています。海の向こうに「佐渡」を見て、見上げると、高遠な「天の川」が視界に入ったのでしょう。

 古人も、天空の不思議に心躍らせたのです。江戸時代、工場の煙突はなく、竈(かまど)や焚き火の煙が立つくらいで、空は澄み渡って綺麗だったに違いありません。夜空を散りばめる星々を眺めている芭蕉の感性には驚かされます。齢四十六の芭蕉は、現実ばかりを見る人ではなく、大自然に目を向けて感動しているのです。

 伊賀国上野に、寛永二十一年に生まれ、俳句を学ぶのですが、二十七歳の時に、江戸に出て行きます。俳人として生きていく芭蕉は、多くの弟子を持ち、彼らに慕われた人でした。

.

 

 「旅を栖(すみか)とす」、李白のように「漂白の思いに駆られ」、「三里に灸すゆる」によって、陸奥(みちのく)に向かって、「過客」となって、深川の庵を出立するのです。芭蕉が使った「ことば」が素敵ですね。李白や杜甫の詩作に学んで、豊かな語彙を蓄えた人だったわけです。

 この人は旅好きだったのです。「奥の細道」の紀行を終えた後に、「野ざらし紀行」を著すのですが、江戸に帰って、また旅に出ています。ゆっくりとした時を過ごしていて、その好きな旅(お弟子さんを訪問の時です)の途上で、享年五十で亡くなっています。

.