鹿児島県

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 薩摩といえば、「さつま芋」と「小原節」と「西郷どん」でしょうか。七百年の歴史のある「おはら節」ですが、「西郷どん」も出てくるのは、明治以降に付け加えられた歌詞でしょうか。悠長で、男っぽくて、よか歌ではないでしょうか。

花は霧島 煙草は国分
燃えて上るは オハラハー 桜島

雨の降らんのに 草牟田川にごる
伊敷原良の オハラハー 化粧の水

見えた見えたよ 松原越しに
丸に十の字の オハラハー 帆が見えた

おけさ働け 来年の春は
とのじょもたせる オハラハー よか青年を
(ハア ヨイヨイ ヨイヤサ)

伊敷原良の 巻揚の髪を
髪を結たなら オハラハー なおよかろ

雨の降る夜は おじゃんなと言うたに
ぬれておじゃれば オハラハー なおかわい
(ハア ヨイヨイ ヨイヤサ)

花は霧島 煙草は国分
燃えて上るは オハラハー 桜島

花は霧島 煙草は国分
燃えて上るは オハラハー 桜島

 律令制の下では、現在の宮崎県の一部を加えて「日向国(ひゅうがのくに)」と言われていた地でした。その後「薩麻国」と言われてきました。鎌倉時代に、薩摩・大隅・日向の三ヶ国の守護に任じられたのが、有力な島津家、守護大名として支配していたのです。豊臣秀吉の家臣として、徳川、上杉、毛利、前田に次ぐ、島津は大大名でした。家康に嫌われ、外様大名となりますが、結局、長州と合議して、明治維新を成し遂げる、反徳川の企ては、国際的な時流とともに、成功したわけです。二百数十年の冷遇の結果だったのでしょうか。

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 県都は「鹿児島市」、県花は「ミヤマキリシマ」、県木は、「カイコウズ」と「クスノキ」、県鳥は「ルリカケス」、人口は156万人です。農業県で、宇宙開発のために、種子島にセンターが設けられてきています。宇宙への夢は、平和利用であって、ゆめゆめ軍事目的に流れない様にと願うばかりです。

 18の時に、九州旅行をして、一緒に出掛けた友人の同級生が、鹿児島市にいて、そこに寄ったことがありました。彼のお婆ちゃんと話しをしたのですが、ひと言も分かりませんでした。まるで、薩摩弁は外国語で、類推もできず、ただ、『はい。はい!』と頷くばかりでした。この薩摩弁は、余所者、とくに幕府からの密偵を見分けるために、人工的に作られたという説がありますが、言語学的には、長い年月にわたって作り上げられた方言であるそうです。

 弟の書庫に、「南洲翁遺訓」がありました。ずいぶん古い本で、発行年を確かめませんでしたが、初版は、1896年に発行されていますが、弟のは、岩波文庫版だったと思います。旧庄内藩の藩士が、「征韓論」に敗れて鹿児島に戻っていた西郷隆盛を訪ねて、そこでの西郷隆盛の談話を記録したものです。この西郷隆盛は、「敬天愛人」と言う言葉も残しています。

 『道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給ふ故、我を愛する心を以て人を愛するなり。』

 江戸を、焼き討ちにしようとの企てがあったのですが、池上本門寺(現在の大田区にあります)で、幕府旗本であった勝海舟と、江戸開城の話をして、その焼き討ちを思いとどまって、「無血開城」になったのは話は有名です。49歳で、「西南戦争」の折に、自刃して亡くなりました。


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 『代表的日本人」の一人として、内村鑑三は、この西郷隆盛を上げています。多くの人に愛され、敬われた人でした。上野公園に、西郷像がありますが、犬を散歩させている姿なのです。100kgもの肥満体だったので、痩せるために、よく犬を連れて散歩していたのだそうです。幕末から維新にかけての大物であったのです。

 「せごどん(西郷どんの薩摩訛りだそうです)」は、『命もいらず、名もいらず、官位もいらぬまま人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成し得られぬなり。』と言い残しています。東京に留まらず、「下野(げや/地位や良い職を捨てて東京をさって鹿児島の戻った西郷の選び取った生き方をそう言います)」した人でした。「郷中(ごじゅう)」と呼ぶ、薩摩藩の教育課程が有名で、下級武士の子の西郷どんも受けた教育だったのです。

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 その教育方針の中には、「第一は虚言など申さざる儀士道の本意に候条、専らその旨を相守るべき事(嘘は言うな)」とか「山坂の達者は、心懸ける事(山坂を歩きての身体に鍛錬をせよ)」などがありました。西郷どんは、無欲の人だったそうです。そして、13年の間、生活を共にした人は、西郷どんが、自分の身の回りの世話をしている人を、叱って一喝する様なことはなかったと語っています。そう言う人だったので、誰にも愛され、明治天皇にも、特別の思いを向けられていたそうです。

 西郷どんも見上げた桜島を見ながら、鹿児島駅から電車に乗って、開聞岳に行ったのです。夏休みを利用しての旅でしたので、キャンプ場に泊まったりしたのです。綺麗な山容の山で、対岸の鹿屋から、沖縄戦に出撃した特攻隊は、この山を目指して飛び始め、アメリカ軍の戦艦に立ち向かったそうです。その時、出撃基地の鹿屋には寄りませんでした。何時か行こうと願いつつも果たせずにおります。

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 家内は、鹿児島県下で宣教活動をした、婦人宣教師さんのお手伝いで、しばらく鹿児島にいた時期があったそうです。この方は、戦時中の日本兵の蛮行を目撃して、神なき民の悲劇を感じて、日本宣教にやって来られたそうです。東京で、宣教師の訓練センターで、日本語講師をしていた家内のお母さんから言葉を学んだそうです。ちょうど結婚した頃でしょうか、熊本にいた時に、鹿児島から軽自動車を運転して、東京に行こうとしていた、この宣教師さんにお会いしたのです。この時は、すでにご高齢で、法定速度以下でゆっくりと運転していて、驚いたのを覚えています。

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 開聞岳以南の日本の地には、行ったことがありません。奄美大島や屋久島、沖縄は、いつも行こうと願ってはいましたが、実現しないままでおります。屋久島は、縄文杉の巨木があるそうで、厳しい自然環境の中を生き抜いてきたという姿は、是非とも眺めて見たいものです。幹の周囲が16.4m、樹の高さが30mもあるそうです。

 鹿児島訪問の思い出の一つは、天文館という通りの百貨店の中に、かき氷屋があって、それを、奢ってもらったのです。そこでは、「しろくま」と呼んでいて、かき氷に、何種類もの果物が topping されていて、真夏の味としては最高でした。あの時以来、普通のかき氷を食べようとしなかったのです。

 さて、わが家が、最近しきりに食べているのが、「薩摩芋」です。江戸日本橋の小田原町で魚屋の子でしたが、後に幕府の御用掛になった青木昆陽という人が、享保の飢饉の中で栽培を奨励したのが、この「サツマイモ」でした。食べる時、胸焼けがするのですが、物の豊かな時代でもとても美味しいのです。

(ミヤマキリシマ、桜島、西郷直筆の書、薩摩芋、開聞岳です)

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