日の丸弁当とにぎり飯

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 「今日はなんの日」と言う掲示板が、私がときどき行く市立図書館の入口の壁に下げられてあります。『エッ、こんな日があるの!』と驚かされることもあります。いわゆる、「肉の日」の発想で、29日、毎月29日が、そう言われるようなダジャレや、語呂合わせのものが多いようです。

 410日が、「弁当の日」なのだそうです(「駅弁の日」だと言う人あるようです)。母親がいない時に、私は〈おやじ弁当〉を作って、子どもたちに持たせたことがありました。特別の自慢できることではないのですが、覚えているのは、食パンをトーストして、それにバターを塗って、チーズ、卵焼き、牛肉の焼いたもの、キャベツや玉ねぎやPマンなどの炒め物を挟んだsandwich で、けっこう人気があったと思います。

 『日本初の駅弁として定説となっているのは、1885年(明治18年)716日、日本鉄道から依頼を受けて「白木屋」という旅館が販売した駅弁です。 この日に開業した日本鉄道宇都宮駅で販売され、〈おにぎり二個、たくあん二切れ〉という内容でした。(全米販)』とありました。まさに東北本線の宇都宮駅が、駅弁の発祥駅なのだそうです。

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 小学校で、弁当を持ってこれない級友がいて、立たされ仲間でした。立たされ仲間でカンパして、コロッケパンをおごったこともありました。あの級友は、今どうしているでしょうか。戦後、お父さんを戦争で亡くした家庭は、今のような保障のない時代で、貧しかったのです。堂々として食べられなくて、隠して食べる子もいました。麦飯に、イカを細く切ったものを、醤油と飴のようなもので佃たものに、タクアンだけ入れてきた子もいました。

 小学校は、給食が始まる前でしたが、アメリカから贈られた〈ララ物資〉の脱脂粉乳のミルクは、みんなに配られていました。スキムミルクを飲むと、あの頃が思い出されてきます。同じ世代の願いは、〈腹一杯食えること〉で、貧しさをバネに生き抜いた時代でした。

 敗戦の惨めさを、食べられないことで味わっていた時代があったのが、嘘のような高度成長から今日までの豊かさです。この繁栄の背後に、そんな谷間があったのを、忘れてはなりません。

 父親に追い出されて、裏のお勝手のコンクリートの三和土(たたき/土間)に膝をついて、ごはんに味噌を乗せてもらって、泣きながら意地になってかき込んだ日がありました。『ごめんなさい!』が言えない、男の意地で、また寝所をさがいて、里山を歩き回ったのです。

(日本経済新聞の「日の丸弁当」、tenki.jp の「駅弁」です)

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